孤思庵の仏像ブログ

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金沢文庫 特別展「解脱上人 貞慶」

2012年07月24日03:11
奈良博開催に次いで神奈川県立金沢文庫で開催されている特別展「解脱上人 貞慶」も残り僅かと成った。

金沢文庫での開催は、称名寺の仏教史料管理の同文庫に貞慶の文書も残されているからだ。今回の展示一覧に何点もの重文の貞慶資料が在る。

鎌倉新仏教の法然親鸞日蓮栄西道元らはよく知られるものの、同時代の貞慶の事は知られていない。カミングアウトすると私も知らなかった。慶派仏師?かと思ったほどだ。

同時開催の関連連続講座や図録を見ると、法然達か流罪となるもとの旧仏教側が専修念仏を批判弾劾する「興福寺寺奏状」の起草した僧であり、その奏状により法然親鸞流罪となった。

そんなで官僧のイメージであったが、彼もまた興福寺を離れ遁世僧であった。法然親鸞日蓮栄西道元らは叡山からの遁世、貞慶は興福寺からの違いはあるも、共に官僧を離脱している。

この時代の寺院、官僧には、穢れ忌避などの種々の制約があり、非人救済や非人もとの接触勧進などの活動は出来なかった。

そんな枠から外れるために(新仏教の教祖たち同様に)貞慶も興福寺を離れ奈良時代弥勒磨崖仏の笠置寺に39歳で遁世する。そこからが彼の真骨頂である。

笠置寺在住期は、釈迦と(十三重の塔)などの舎利信仰を核としつつ、釈迦の後継者である弥勒への信仰があった時期である。40歳自ら写経の大般若経600巻を納める為の般若台(六角堂)棟上、44歳十三重の塔の供養

また彼にとって興福寺繋がりの春日大社の一宮の本地仏をそれまでの不空羂索から釈迦に変えてゆく。51歳の時に先述の「興福寺奏状」である。

そして、54歳で海住山寺に移る。同寺在住期は、釈迦信仰を核としつつも、観音霊場である海住山寺に移ったことに示されるように、観音信仰が強くなっていった時期といえる。

海住山寺にて(1213年)59歳で示寂

それらに関わる自筆文書、関連文書と関連仏像などが展示されていた。文書史料はものによっては興味深く見たが、正直には難解が多かった。

解り易くは、唐招提寺の金亀舎利塔は見事、また宮内庁の貸出しの権現験記絵の出展は稀有との事、仏画では、東京藝大の弥勒来迎図の従者が天女(兜率天には数多の天女が居る)を知った。(なお称名寺弥勒来迎の従者は童子)と同図の中に往生者が如来に頭を撫でられるのは面白く、また不動明王弘法大師も描かれているのは興味深かった。

またお目当ての仏像も秀作が来ていた。美仏の誉れ高き、海住山寺と現光寺の十一面観音はここでもまた美しかった。途中退場の快慶の俊乗堂阿弥陀、峯定寺の釈迦、海住山寺の小像の四天王、東大寺指図堂釈迦なども印象深かった。

釈迦、文殊、十一面、地蔵は春日の本地仏として陳列され、特に地蔵のV字状の内衣の襟が春日三宮が法服を着けた僧として現示の姿と初めて知った。

今回展示は何時もの仏像観賞に留まらず、未知であった「貞慶」なる人物の事を知り得たのが、大きかった。

知己の同文庫ボランティアガイドのSさんも、ギャラリートーク時に貞慶が広くこの特別展にて知られた事は嬉しく、「貞慶さんも喜んでいるでしょう」と言われてた。

改めて、一周忌の法要の際に描かれた眉の下がる貞慶の肖像画に、その人を見るような気がした。

新仏教の祖師達にスポットライトが当たり、その対極だった貞慶の存在は地味だが、今回の特別展の副題「ー鎌倉仏教の本流ー」が言い得ている。

今回は自身の都合で6回連続の同時企画の連続講座は半分程しか受講できなかったが、そんな訳もありで、ようやくにおぼろげ程度にしか知れてないように思う。

それでも受講した分の内容の一部でも皆さんにも伝えられたら良いのだが、要約し旨く伝える、そんな力量は私に無いので、代わりに何か良いウェブは無いかとネットを探すも、存外に詳しく載るものは少なく、中でようやく中でwww-h.yamagata-u.ac.jp/~kmatsuo/joukei.html の 貞慶 (専修念仏批判、越後流罪)    山形大学教授 松尾剛次氏 が良かったので紹介しておく。