孤思庵の仏像ブログ

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特別展「解脱上人 貞慶」 【追記】

2012年07月24日12:55
前の日記では、貞慶の39歳で笠置寺に遁世からは年表風に書きましたが、生い立ちに触れてませんでした。

そうなんです。あの信西入道の孫なのです。貞慶は、久寿二(1155)年五に藤原通憲信西)の第二子藤原貞憲(後の生西:峯定寺に事跡)の子として生まれ、建暦三(1213)年に59歳で死去した。法然没の翌年です。祖父通憲(信西)は、平清盛と結んで権勢を誇ったが、平治の乱(1159)にさいして殺害されたことで知られる。貞慶の叔父の澄憲や覚憲など一族には優れた学僧が出ました。

 貞慶の僧侶スタートは、1162年、8歳で興福寺に入った。そして、1165年に興福寺で出家し、同年に東大寺戒壇院で受戒した。それ以後、叔父の覚憲について法相・律などを学んだ。

 ところで、当時の興福寺あるいは東大寺延暦寺といった寺々の僧侶たちは、実に官僧(一種の官僚)であった。すなわち、建て前としては天皇の許可を得て僧侶となり、国家から度縁(=出家証明書)をもらい東大寺戒壇ほかの国立戒壇で戒律(釈迦の定めたという規則)護持の宣誓儀礼を行ない(受戒という)、そのうえで僧位・僧官に任命されるのを典型としていた。

そして、彼らの第一義の勤めは鎮護国家の祈祷であった。法然らの教団が社会的に認知されるまでは、官僧のみが僧侶集団としてひとまず認知された存在であった。いわば、僧侶たちは官僧体制のもとにあったといえる。

 もっとも、聖や在家沙弥といった官僧でない僧侶も数多くいたが、社会的には僧侶としては認知されていなかった。貞慶は、そうした興福寺所属の官僧の一人として出発したが、法然親鸞も、元は延暦寺所属の官僧であった。

 貞慶は、その官僧世界でもエリート・コースを歩んだようで、寿永元(一一八二)年には鎮護国家の法会の中でも重要な維摩会の竪義を、文治二(一一八六)年には維摩会の講師をも勤めた。

 しかし、貞慶は、春日神の夢のお告により、官僧世界からの離脱を決意するにいたる。貞慶が、遁世し、大和と山城の国堺に位置する笠置寺に入ったのは、1193年のことであった。

此処からは前の日記に繋がります。

今回は重要な「官僧の遁世」を勉強できた。また貞慶は平氏に焼かれた興福寺北円堂の再建に深く関わり、また唐招提寺・海龍王寺・元興寺 など南都の寺々の復興に貢献した。 その手だては、勧進であって、貞慶の周囲には 勧進僧が集まった。東大寺を復興した重源とも親しく、重源が快慶に造らせた仏像の開眼導師をつとめることもあった。

勧進の為には不自由な官僧から遁世僧に成る必要があったことは、前の日記に書いた。南都の寺々の復興という事跡がら南都の各寺院とも連体し、新仏教の浄土教と対極となり、「興福寺奏状」の件となることも前に日記に書いた。

また春日を中心とする南都(奈良)に活動した善派仏師、その善円との繋がりにより、善円作の多い今回の展示となる。

善円作の東大寺指図堂の釈迦坐像は重源が施入の聖武天皇本尊との由緒を持つ像で、明恵が開眼くよう勤めた。また貞慶が快慶に作らせた白檀釈迦坐像を晩年弟子の観心に託している。それが海住山寺周辺に伝来し、それを手本に本像が模刻されたのではとの一案もある。

また笠置寺の般若台の中尊も釈迦如来であったことが文書に記されている。このように貞慶は舎利と共に釈迦信仰が中心であった。

春日信仰や阿弥陀信など複合的信仰であった貞慶、仰晩年は海住山寺で十一面観音を信仰し今回展示の像が奥の院本尊であった記録があり、奥の院は貞慶の庵であった跡地なので貞慶の念じ仏であった可能性は否定し得ないと・・・

貞慶は華厳宗の学僧であり、十八歳も年下の明恵とも昵懇の間柄であった(法然の『選択本願念仏集』に対し、皆な一丸となって「一つの仏教」としての「一味仏教」の中で親密な関係を結ぶようになっていたことの証であり、二人は、既存の「一味仏教」の「和」を破ろうとしていると見えた法然に対して共通の態度を取ったのである。

阿弥陀は貞慶の信仰の観音の盟主でもあり、先述にもあるように、貞慶は阿弥陀信仰を持っており、阿弥陀を否定などする訳は無い、専修念仏のあり方を否定するのであったと思う。

終に、何れの時にか『選択本願念仏集』と『興福寺奏状』を読み比べ、他力主義と自力主義とを一段深く考えてみたい。 現段階では法然は庶民の立場で一切の枝葉を切捨て、貞慶は律的精神をネグるに耐えなかったのではと考えます。法然は仏(阿弥陀)の本願に任せる、純粋完全の他力の道で、貞慶は仏(釈迦)が悟ったように自身の自力を不可欠と考えたのではと推測してます。

最後に五十九歳の貞慶は、往生にあたって弟子に語り、次のような意味のことばをのべたという。(『観心為清浄円明事』)。
『身の出離・解脱は明らかでない。出離のための教えを知識としては聞いているが、どうしても発心できない。教えと自分の素質が相応しないのであろうか。どうしたらば発心できるかという問題について、いろいろな人にたずねたけれども、誰も教えてくれない』と・・・

貞慶は、自分の心が頼りにならないことを嘆いている。このように徹底的に自己を追求していた貞慶に、解脱上人と尊敬を受けた中に、人としての親近を感じる。それが貞慶への憧憬なのではあるまいか・・・・