孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

7月1日の「像愛好の集いin東博」にての仏像解説

2012年07月10日14:53
[定例の第一日曜日の「仏像愛好の集いin東博」には途中参加、途中退席自由ですので、一概に参加人数言えませんが、延べは8名でした。
片道2時間を掛けられた方や、中には朝10時から夜10時の懇親会お開きまで12時間全部にお付き合いいただきました方もありました。彫刻室観賞に7名、平成観勉強会に6名、ご希望が出まして、急遽変更し法隆寺館の案内を入れました。池袋のファミレスにての懇親仏像談義は6名、内5名が10時までお付き合いいただきました。

旧知の仲間と、初めての方もありで、まだまだ正直落ち着きません。人数は減るかも知れませんが、暫く後には、気心も知れ落ち着いてくるでしょう。
来月は5日が第一日曜に成ります。暑い盛りですが、博物館は国際取り決めで、冷房の節電はできないそうで、昨年もそうでしたので、この夏も東博は涼しいはずです。

集い懇談はまだ雑駁な話しでご紹介に適しませんので、団体で鑑賞した彫刻室の展示の解説をさせていただいた内容をご紹介いたします。時代の見分け方(時代の特徴】を中心にご説明いたしました。



阿弥陀如来立像 鎌倉時代・13世紀 東博

この頃はやった生身の阿弥陀像だ。一般に生身(しょうじん)とは、生まれた身体を指し「仏像」の対語として用いられる。ここでは信仰の為に生身のようにリアルに造られた仏像としたい。裸像の仏像に絹の衣、歯吹き阿弥陀と呼ばれる歯を見せるものも、この像では、玉眼は勿論、一粒毎の螺髪に銅のより線を巻きつけ、足裏には仏足紋を描く、これらの生身の仏像はリアルさを求め足ホゾを造らず細い棒で、蓮肉と仏像を繋ぐ。


菩薩立像 平安時代11から12世紀 個人蔵

首を横向きに捻っている珍しい菩薩立像で、衆来迎の一員と想像される。そこそこ大きく、本尊、二十五菩薩が揃っていれば荘厳であろう、早くから一具が離散では?顔などに木目の段が深いのに衣文にかなり截金が残る。簡素な文様なので、後世の手間を惜しんだ補飾と思う、背面に背刳りの蓋が欠損の窓が良く見える。


観音菩薩立像 平安時代・12世紀  寄贈品

細身でおだやかの顔、その上の宝髻は小さい、動きが少なく 衣皺の浅さなど典型の定朝様式。次の鎌倉に入ると小像でも寄木造りになるのだがこの時代は一木で造り割り剥ぎ技法で内繰りをしている。鎌倉に割り剥ぎが廃れるのはどうも仏像を頭頂から鉈で打ち割るのが不尊と嫌われた為らしい。


如来頭部  平安時代・12世紀  東博所蔵

頭のみも、前半分の顔部分が残った状態である。定朝様の顔立ちの展開で、螺髪は彫り出しが螺髪の粒の痛み具合から良く解かる。後部欠失の接合面部分の平滑から割り剥ぎではなく寄木と判断が付く、よく観れば、正中線に矧ぎ目が伺えて、頭部は4材の寄せと解かる。頭の大きさから半丈六の大き目の像であったろう、この大きさから、定朝様式から坐像はほぼ間違いなかろう。


勢至菩薩坐像  平安時代・12世紀  東博

平安時代の金銅仏と極められ金銅仏、土の付着が残り出土品と思われる合掌と跪坐(ひざまずく)の姿から阿弥陀三尊の右脇侍の勢至菩薩と判る。鎌倉期の金銅仏は多いが平安時代のそれは少なく山岳信仰に関連して金銅仏がある。奈良時代の(小)金銅仏は一鋳で造られたが鎌倉金銅仏は主体部、頭部、腕部分、などをそれぞれに別鋳してホゾ繋ぎ等で接合している。平安期のこの像も腕は別鋳して接いでいる。宝冠天衣などは銅板を持ちている。。

次は別室の 大型仏像の展示です、十一面観音が三体も並ぶなど壮観ですが、続きは明日にでも書き足します