孤思庵の仏像ブログ

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【続】化仏阿弥陀の拱手 と阿弥陀九品印

 
2012年07月06日15:43
前回でこのテーマは終えるつもりでしたが、凄い方の閲覧・他の方からの適切なコメントを頂き いま少し書こうと思いました。

ネット利用での勉強方法もご披露のつもりが失敗でした、だらだらの日記になり、最後は尻切れ蜻蛉。まとめが旨く書けてませんでした。気持ちが落ち着かないので、またキーボードを叩きます。

コメントの仰せの通りで、私も挙手は省略の一言で済ませても良いと思います。観音の頭上の化仏は小ささのゆえで、千仏光背はあまりに多い数のための省略です。印仏の拱手も小ささのゆえで良いのだと思います。
しかし合掌は大いに日の目を見てますのに、拱手はあまりにも知られていません。本家と通過点の差でしょうか?
さて九品印のほうですが、ある方は九印と言われてました。 九生印とは言わないのですら、九品印という言いかともどうかと思います、九品生印or九印といった方が正しそうです。
九印と言うと九字印に繋がるようです。
【九字印】普通九字の法を「九字の印をきる」といい必ずしも密教の本義的なもので 無く修験道などで用いる。修法を開始するに当たって、本尊聖衆をお迎えするためにその場所を清め、邪魔を打ち払い、結界を張って本尊の曼荼羅や寺院内の道場を守るためのものである。
すなわち身にふりかかる災害をはらいすぐれた利益を得るために結印と誦言を一致させて気迫による所願の成就を目ざすもの・・・

前の日記の繰り返しになりますが、九品印は観無量寿経の9種の阿弥陀なのでしょうが、事、仏像に関して「九種類の来迎印」と捉え、その一々を個別に取り上げて何にな成りましょうか?

前の日記でも申しましたが、これは阿弥陀の定印・説法印・来迎印と意味する方が俄然に意味があります。


此処であまりにも多くの仏像入門書が、御阿弥陀の章にて九品印を図入りで堂々と紹介している。実際の仏像で下品下生印などの作例は無く、他にも九品の内の作例の無い印相もあるとの事です。

 だいいち江戸時代中期元禄の頃に「九品印の体系」を意味づけたとの事ですから、 それ以前の古仏の阿弥陀を上品下生の印の阿弥陀と呼ぶ方が可笑しいです。
 造像施主も開眼僧侶も製作仏師も。、上品上生や、上品上生の阿弥陀とは捉えていないはずです。禅定の、説法の、来迎の阿弥陀を意識のはずです。

 大抵の初心者は阿弥陀を拝観すると、上品上生だの上品下生だのと言っています。私も最初の頃はそうでした。習ううちに、両方の指を合せて輪を作らない阿弥陀もいることも、やっと知りました。

 例えば法隆寺の橘夫人念持仏の阿弥陀坐像がそうです。両の手とも指で輪を作ってはいません。時代が下がっても定印の阿弥陀が指を丸めていないありましたよね。
 あきる野市にある大悲願寺に祀られている重要文化財の伝阿弥陀三尊像がそれに当たります。
 昨年でしたか拝観してます。釈迦如来坐像かと見られますが、脇侍が観音、勢至菩薩で、光背にに在る種子(種字)=密教で仏尊の象徴として書き表す梵字 は阿弥陀如来をあらわすキリークである事から、阿弥陀如来と見られています。との説明がありました。
 如来の通印としての定印、説法印、施無畏与願印はどの如来が結んでも良いと習つて居ますが、平安時代以降の遺作にこの例外的を目にするのは珍しいです。

 この平安時代以降が重要です。密教曼荼羅や多くの尊での修法などでこの頃、一変に多くの仏像の種類や密教に多い多面多臂像など難しい仏像などの出現、修法のハウツー的参考書の意味でいくつもの図像集が平安時代から鎌倉時代に編纂されました。

 このことで一変に図像の決まりがやかましくなったのです。

 阿弥陀の印相も当初さほど定型化していなかったのだと思います。法隆寺金堂(消失)壁画・阿弥陀浄土図の本尊阿弥陀は完全なる説法印で、上品中生印ではありません。平安までの阿弥陀像は上記、図像規定に縛られることなく、多様です。

 平安時代阿弥陀は貴族浄土信仰の本尊で坐像の定印の姿がめっきり多くなります。定印坐像は勿論、観無量寿経による所が主ですが、またこれは貴族が行った加持祈祷の密教的な影響かとも思います。

 先ず舟形飛天光背の中心最上部には金剛界曼大日が付いています。意外と話題に成りませんね、(これは平等院創設時、鳳凰堂以前は本尊は大日如来でした)それに舟形光背の中には二重円相が見えます、曼荼羅にある諸仏の光背の形状です。

この阿弥陀は坐像で曼荼羅と同じ定印です、曼荼羅如来は同様に皆坐像です。当時の貴族社会には密教が根強く残っています。もう一足に浄土思想に転向ではなかったと思います。

定印の阿弥陀は極楽浄土の教主の姿です。そして次に現れる阿弥陀像は来迎の阿弥陀でして、大原 三千院泉涌寺 即成院 の遺作です。そして鎌倉時代には阿弥陀如来像は立ち上がるのです。 

 来迎図に観る阿弥陀は皆立像です。この始まりは藤末鎌初なのかと思います。鎌倉時代法然達の浄土教系列では、欣求浄土で、来迎の阿弥陀像は殆んどが立像です。逆の言い方をすれば、立像阿弥陀は皆が、来迎の阿弥陀と言うことなのです。

 如何でしょう、 九品印の何の阿弥陀と見るよりは、時代による阿弥陀信仰の変遷に思いをして、「古式の阿弥陀」「浄土教主の同」「極楽で説法をされる同」「来迎される同」と観る方が、意味がありませんでしょうか?

 ちなみに禅林寺 永観堂などの「見返り阿弥陀」は、本来は来迎の帰路 「帰り来迎」の 臨終信者が付いて来ているか案じて振り返られた姿です。

 ついでに五劫思惟の阿弥陀仏坐像には伸びた髪ばかりで無しに坐像であることその印相にも注目したいですね、東大寺に2躯の有名像が、勧進所の方が合掌 五劫院の方が拱手でしたか、此処で両印相が同義の良き実例ですね。衲衣の着け方が通肩の意味も考えたいですね。(紙面に限りで此処では辞めておきます)

 最後に阿弥陀信仰は、極楽浄土に往生が目的ではなく、本義は、極楽浄土にて教主の阿弥陀に会い、その教えを聞き、悟る。得道しら、次の浄土へ往き、教主の如来に成る・・・それにより解脱(輪廻からの開放)が,完了するのだと聞きました。


 すでにご承知の碩学の諸兄には口耳四寸の学での日記で口幅ったいことを申し上げ非礼お許し下さい。
 
長文にお付き合い有難うございました。

【完】