孤思庵の仏像ブログ

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化仏阿弥陀の拱手 と阿弥陀九品印

2012年07月03日23:29
向源寺十一面観音の化仏(阿弥陀)の印相に拱手の日記を書きました事に関しまして、1日の「仏像同好の集いin東博」の席上で、以下の疑問を頂きました。「化仏は阿弥陀なら、何故に九品印のどれかを結ばないのかと,
何故中国の礼法の拱手(中国の敬礼で、両手の指を胸の前で組み合わせておじぎをすること。)なんぞをしているのか?」と・・・・、当日は時間のゆとりも在りませんでしたので、宿題として持ち帰り、調べ、此処にご回答させて頂きます。

同感であります。阿弥陀ならば何れかの阿弥陀印を結んでいただきたいものです。拱手では何仏かが判別できません、しかし何に故に拱手なのでしょう?私も知りたいです。色々ネット検索で探してみましたが、満足するものにヒットしませんでした。

やむなく、此処からは、推論になります。先ず拱手は確かに中国の礼法と思います。しかし我が国に入った仏教、仏像は皆中国経由、の文化です。インド発の仏教ですが、仏像からして途中に中国ナイズされてきてます。飛鳥仏の多くは、中国北魏様にはなはだ近い様式です。

法隆寺金堂釈迦三尊などの飛鳥仏の止利 派の如来像の多くには僧祇支と呼ばれます下着を着け、その結び目が腹部に見えています。そして衣の質感は厚手となりインドの仏像の薄い衣とは様変わりです。法隆寺金堂釈迦三尊の中尊の襟は首筋の寒さを防ぐように立っているのです。斯様に仏像は東伝の道シルクロードで途中の様々な影響を受けるのです。

同様に拱手の中国礼法も仏像に加味されても不思議ではないのでは?拱手は 相手に対し敬意をもって挨拶的な礼法 合掌に類似の挨拶的な礼法です。合掌を考えるとインドにおける古くからの相手に対し敬意をもって挨拶的な礼法で、仏像でも、菩薩、天部などにはかなり見られるも、最高位の如来では滅多に見られません、それは相手に敬意を示す印相だからと言えるのでは?そのために如来はあまり結ばない印相のように想います。如来合掌の例は五劫思惟阿弥陀に見ます。五劫思惟阿弥陀如来でも、過去世で世自在王仏のもと で出家し修行していたときの名、法蔵菩薩の延長線の様に思います。さすれば世自在王仏に対しての敬意があっても不思議はありません 。

然るに類似の拱手は観音の頭上化仏、千仏光背に在る化仏、印仏や刷仏の如来などに良く見ます。その殆んどは如来と言って良いと思います。類似の合掌と拱手は どうしてこんなに相違なのでしょう。

観音の化仏は阿弥陀は間違い無いのですが、禅定(印)の阿弥陀、説法(印)の阿弥陀、来迎(印)の区別が邪魔なのではないでしょうか? それらの働きが出来る阿弥陀と言う細胞で云えば多能性幹細胞のようなと言うか、何かの働きをしている阿弥陀では無しに、その前の阿弥陀であった方が都合が良いのではと考えました。それで判別の出来ない 拱手の阿弥陀と言う事では如何でしょうか?

その様に考えますと合掌よりもさらに何だか判らない拱手が都合よく思えます。衣の下に隠す印相は誠に使用範囲の広い印相と思えてきました。

調べております内に、拱手傍観(きょうしゅぼうかん)という四字熟語を見つけまして、この意味は、手をこまねいて何もせず、はたから見ているだけ。一般的に、何とかしなければいけないのに、何もしない場合に使う
とありまして、傍観は付いてい無いのですが 、なんとも頼りなく化仏とは申せこれで良いのかと思いました。

千仏をあらわす印仏の像内納入についての文献も見つけまして、
 千仏をあらわす印仏の像内納入は西域や中国に由来する、千仏をあらわす如来坐像印仏が日本で受容され、像内納入品として汎用性を獲得してゆく経緯を、平安時代末期以降の現存作例によって確認する。千仏(三千仏)は懺悔のための仏名経典に説かれるもので、滅罪と深く関連する。印仏による滅罪を説く密教儀軌に『慈氏念誦法』がある。本章では、興福寺称名寺・本山慈恩寺弥勒菩薩彫像への印仏納入を、同軌の影響ととらえる試みをおこなう。さらに、阿弥陀如来彫像と千仏のかかわりにも言及、印仏納入による滅罪、その結果としての極楽往生が願われている形跡を指摘する。印仏が千仏としての性格をあらわすには、①図像として、拱手の如来坐像を選択する②員数を千体または三千体とする③小像を羅列する形式で千仏を意味する、の方法があることをのべ、印仏にしばしばみられる、小像を羅列する形式が、千仏信仰を下敷きにしている可能性があることをしめす。
とありました。

印仏や刷り仏は、労少なくして、多くの仏の図像を造れる手法です。その労が云々よりも、大いなる数が大事であり、これも千体仏の類似の数の信仰に違い無いが居ないが、ある種 合理的で、工業製品の生産手段の取り入れと思います。

合理的といえば、拱手は省略という合理が働いているのではないでしょうか?一々に印相を拵えていては、大変です。印仏では拱手にする事による労力削減のメリットはさほど関係無さそうですが、千仏光背の化仏一つ一つにしたならば大変な労力、時間のさに成りましょう。

そういう意味からも拱手という印相は活用されたのは必然です。それが良くない事のようにも思えますが、必要悪のような気がします。大般若経の転読の法要 然りです。


ついでに「九品印」ですが、阿弥陀如来は極楽浄土 にから迎えにくる際、臨終者の阿弥陀への信仰心が篤さ、現世で多くの善行、功徳を積んだかの程度によって、九つの段階に分け、その人に ふさわしい印を表し来迎されます。善男、善女は阿弥陀如来が多くの菩薩を連れて臨終者の枕元まで迎えにきてくれ、宝石で飾られた蓮台に乗せられ凄い速さでで極楽往生させて貰えます。しかし、信仰心も薄く功徳などに縁がなかった人は阿弥陀如来の代理の方しか見えないうえ、粗末な蓮台に乗せられそれから長い時間を要する鈍行で極楽往生することになります。

しかしいずれにしても、阿弥陀の信者は九通りあるランクのうちどれかのランクで浄土に行け往生成仏する事が保証されているとの事が意味深です。

これが九品来迎でして、その時の 阿弥陀如来の印相が九品来迎印です。最低の臨終者には阿弥陀如来の代理の方と言うのですから、その時の阿弥陀は来迎せずですので、極楽で待っていると言うことで、その時の阿弥陀如来の印相が、下品下生印なのでしょうか?

それとも九品阿弥陀極楽パレスなる集合住宅ならぬ、習合極楽が存在し、個々の階別か号室別かのランク別の極楽に居られる主尊の阿弥陀様が9種類の印相九品印をされているのでしょうか?

また観無量寿経(観経)に基づいた当麻曼荼羅では、画面下方の全部で10ヶ所に区切られた区画を見ますが、中央の文章の痕跡が記された区画は、本図の根本曼荼羅が蓮糸で織られたという縁起を記した由緒書きの跡である。その左右に、向かって左から右へと、九品往生のさまが描かれると聞くのですが、当麻曼荼羅の上部の浄土変は大きく見えるのですが、九品印来迎を描きました分のこの部分はなかなか拡大で中々見る機会がありませんので、理解が進まないところです。

あるサイトに掲載を見つけたので、転載させてもらいますと----_[曼陀羅の最下段は十に仕切られている。中央の区画[E]は当麻曼陀羅の縁起を記す。それを除いた九の区画が右から左の順に散善(さんぜん)の九品である。①上品上生。戒を守り大乘経典を読誦し、浄土を願生するものには、臨終に弥陀が聖者と共に迎えに来られる。空中には化仏と天女が来迎に伴っている。弥陀は来迎印を示しておられる。②上品中生。必ずしも大乘経典を読誦しないが、大乘の教えをよく理解し、往生を願うと、臨終に弥陀と聖衆の来迎にあずかる。聖者と化仏の数は上品上生の場合より少ない。③上品下生。因果の理法を信じ、大乘をそしらず、菩提心を起こして往生を願うと、臨終に弥陀と聖衆の来迎にあずかるが、屋敷には行者の姿は見えない。直接仏を拝することは出来ないが、仏の光明は簾(みす)を通して行者に至る。④中品上生。小乘の行者で五戒・八戒を守り願生するものは、臨終に弥陀と比丘の形をした聖衆の来迎にあずかる。⑤中品中生。一日でも戒を保って往生を願うものは、臨終に来迎にあずかる。蓮華台に座ると華は閉じ、極樂の宝池に生まれる。図では聖者の持っている蓮華の中に行者がいる。⑥中品下生。平生、世間的な善を行い、臨終に浄土のことを聞き往生を願うと、仏と聖衆の来迎にあずかる。⑦下品上生。殺生をしたり酒を飲んだりする人でも、臨終に大乘の教えを聞き、教えられるままに「南無阿弥陀仏」と称えると、化身の弥陀三尊の来迎にあずかる。⑧下品中生。戒を破りお寺の物を盗んだりする者で、臨終に地獄の業火が現れる。この時、教えられるままに念仏すると、業火が天華と変わり、屋上の化仏菩薩となる。そして右上方、化仏菩薩に従って往生する。⑨下品下生。母を殺したり、僧を殺したり、仏具を壊すなどの大罪を犯し、殺生などの十悪をなす者が、臨終に善友の教えで称名念仏すると、金の蓮華を含んだ日輪が現れ、その中に納められて浄土に往生する。]と在りました。

何れにしましてもその様なことが九品印と仏像入門書に乗ってますので、また観無量寿経に説くと聞きますので、最初から「九品印の阿弥陀仏像」と云う体系で阿弥陀如来が造像されていると、私も永らく信じてました。

然るにです。平安後期に多く建てられた九体阿弥陀堂で現存するのは浄瑠璃寺の本堂であるがそこの九体阿弥陀は中尊は右手を上げ、左手を下げる来迎印、他八体は膝前で両手を組む定印(じょういん)をそれぞれ結んでいる。他に九体阿弥陀があるのは、江戸時代の作になるが、東京都世田谷区の九品仏浄真寺にしかない。此処の 九体阿弥陀は九品印が揃っている。

当麻曼荼羅からも九品印は天平時代より、大いに認識されたいたが、仏像の印相としては九品印が体系づけられたのは江戸時代の事と言われる。世田谷の九品仏浄真寺の三躯ずつ配置の三堂が合致する。

観無量寿経サンスクリット原典は伝えられておらず、畺良耶舎(きょうりょうやしゃ 424~453年)の漢訳のみが現存している。インドで編纂されたと見ることが困難であり、おそらく四~五世紀頃中央アジアで大綱が成立し、伝訳に際して中国的要素が加味されたと考えられるとありました。

そして、中国では隋(ずい)・唐(とう)代に広く流布し、とくに善導(ぜんどう)(613―681)が本経の主意を称名(しょうみょう)念仏による凡夫(ぼんぶ)の往生を説いたものと解釈し、これが日本の法然(ほうねん)(源空。1133―1212)に受け継がれたが、史実として周知ですが、我が国への伝来はそれ以前にもあった事は、やぶさかではあるまいと思います。

これらの事から阿弥陀仏像の九品印認識は九品印が体系づけられたのは江戸時代の事と思われます。

古くは、法隆寺の金堂焼失した壁画の「阿弥陀浄土図」、橘 夫人念持仏などで古くから阿弥陀図像・阿弥陀仏像は存在しているが、それらを含め、後の隆盛浄土思想での阿弥陀仏像量産時期を含め、江戸時代に入るまでは、阿弥陀仏像の印相は九品印の体系付けでは無しに、定印(禅定)、転法印(説法)、施無畏与願印(来迎)の印相と定義した方のが、良いはずであります。