孤思庵の仏像ブログ

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安楽寺の軍荼利明王 開帳拝観

2011年08月16日18:17
学研の「東京近郊仏像めぐり」に掲載の仏像を仲間と訪ねることをもう随分している。また企画があり、この14日、安楽寺軍荼利明王は年に一度のご開帳の拝観に行った。

暑い最中でもあり、何よりも東博で「密教美術展」が開催中で何十点という国宝・重文が来ているのに、すでに一度、これから一度の予定があるからと言って、それだけで済ませ、いかに年1回のご開帳日だからといって「密教美術展」入場料以上の電車賃、拝観寸志を費やし、一日掛けて、都重文を観仏像だなんて、勿体ないと、内心ぶつぶつでしたが・・・お供してみた。

JR東青梅駅から数十分、成木一丁目自治開館下車、徒歩5分、安楽寺へ。
盆踊りのやぐらの奥に、茅葺を銅板で覆った本堂が一つ、8月14日のみのご開帳。すでに法要は終わっており、人気は殆んどなしわれらのほかに1か2人、内陣の中に簡素な大厨子の扉は開かれ 、黒々とした軍荼利明王が立っておられた。3mにほんの少しだけ欠ける 巨像は迫力がある。堂内には他に仏像はなく、荘厳もましで、簡素だ。


軍荼利明王鎌倉時代にしては動きは感じられず、以前に拝観した飯能市の常楽院の軍荼利明王平安時代)と同様の姿勢である。八臂像でありながらその各々の腕は止まるっている様で、顔も正面を向いて、すっくと立っているように感じられる。頭体 の幹部はケヤキで、腕などは別の材も用いられているらしいと・・・。

怒髪が独特の感じで、地髪部は硬い髪を上方へ梳った感じで四辺ほどがあり、その上段は宝髻の様に見える。そこに小さいヤギの角のような物も見える、されど明王像に角は聞かず、怒髪の一部であろうが私には角のように思える。髪際の上の髪は一列に渦巻状が6個ほど付けられている、その上の直剛毛との対比が抽象化も際立ちおもしろい。斯様な髪型は見たことがない。

目は大きが、通常の憤怒形のその形と少し相違、蒙古襞は無く、底辺の方が狭い台形の形の丸みを帯びている形状、そしてここのは二目で、第三の目は無い。先の飯能市の常楽院の軍荼利明王も同様二眼。この辺の様式なのであろうか?

頬が高く、全体彫りの深い顔立ちである。軍荼利明王の顔はすさまじい憤怒の雷電黒雲相といわれるのであるが、憤怒の面相の範疇なのだろうが、此方のお顔は押さえが利いている風に思える。鮮やかに朱の効いた口は閉じられており、左の牙は上に向き、右の牙は下を向くようにも見え、十九観想の不動明王の乱食い牙のようでもあるが、方向が逆、双眼鏡を使うと、向かって左の牙に見えるそれは彫られておらず、平面であり、牙では無しに牙形の金彩のように見える。なんとも曖昧なのだ。

顎の線は細く絞られた顔型に見える。然るに首は太く、左右の筋が出張り波型円錐台で、グリコの波型のプリンの型容器のようだ。その筋張りの下なので、体躯は筋骨が見合いそうだが、胸と腹は明王の体形のそれで、筋肉は付かない、かといって肥満ではなしにスリムで平面的で凹凸は無く、写実からは遠い。それに反し八臂のそれぞれの二の腕は筋張りが見られ、手の甲も皮膚の下の骨を感じさせるリアル感がある。膝小僧も同様に写実の妙がある。

よく見れば、義軌の尊様文章にある、虎皮と錦の布で腰を覆うとある処の皮と錦の表現には納得が行く。お顔の印象でデフォルメの強い像と見がちであるが、流石に鎌倉時代の像、よく観れば部分は写実なのである。

寺や世話人の方も堂内には居ないので、最初は下陣より眺めていたが、次第にその環境の雰囲気に遠慮が緩み内陣の中に踏み入りて観像する。遠方からは黒く見えたのでしたが、弁柄の混じった漆塗りかと、荒れた様子が無いのでおそらく、そんなに遠くない時に修理、漆が掛けなおされたと思う、先述したが、口の右下に牙と見間違いそうな形の金彩が残る、おそらく修理時にこの像が元々は漆箔像の説明的に添付されたのかと見た。他に僅かも金彩が残って無いのが根拠となる。それとも掘り込まずに金彩のみで牙を描いているのだろうか???正直私にはもう判断がつかない。


このランクでは財団法人美術院国宝修理所での扱いではなく、おそらく芸大文化財保存学の辺の修復りかと・・・、また他にどの様な修理所があるのかとも思う。

ここは修理仏師をやってる彼に聞こうと早速に電話してみた。話をしたら40年ほど前に、文化財指定の調査で慶応の先生で西川 杏太郎の調査の手伝いでその像に登ったことがあり、登頂から寄木の状況が良く解ったと記憶しているとのことだった。
修理をしたかと聞いたがその像はそれきりで修理は知らないとのことであった。文化庁(当時は文部省)の仕事を請け負う仏像修理の民間会社が存在することを教えてもらった。私の知る籔内佐斗司氏の東京芸術大学大学院美術研究科 文化財保存学専攻保存修復彫刻研究室の卒業生の就職先の一つなのであろう。

彼いわく、懐かしく見に行きたいが、開帳の頃は盆の入りで、多忙で行けないとのこと、本の写真を今度逢う時に見せる事と成る。軍荼利明王、彼が見たときは彩色像の記憶があるとのこと、塗りの浮き等も有ったと言うので、修理は間違いない。修理に先立つ洗浄過程で何か発見があって、いまの塗りの方針が決められたのであろう。

今回観仏像仲間の皆も、写真よりも実物の方が数段良いと言う。ある人は「本の写真では、好きではなかったが、この後で廻る延命寺阿弥陀坐像の写真が美しいので企画に参加したが、観てみたら素晴らしい」との言葉であった。私も同感でこの日記を長々と書いてしまった。

過日の東博の「空海密教美術展」の観覧日記で、五大明王像のなかで軍荼利明王のことも書いたが、ここで補足させてもらう。

観仏像現場で交差する印を結ぶ両手の小指が曲げられているのが最初の話題となった。次に誰かが、その小指は親指と合わせている様と発見した。その場で見極めは着かぬままで終わったが・・・ 大正解であった。

帰宅後、調べて見たらその印相は伐折羅印というらしい、伐折羅といえば十二神将の一将の名、何故だか解らない。降三世明王の印はそのまま降三世印というのに?ちなみに大威徳明王のは檀荼印、大元師明王が結ぶ印は大怒印との事 

降三世明王の伐折羅印は本来は同明王お得意の蛇を掴んでいるとの事だ、右手には二匹、左手には一匹の赤蛇を握るとある。同明王の手足に蒔きつく蛇は煩悩の象徴という、この明王はその煩悩を征服する明王ということだ。胸前と両足には赤蛇を現すとあり、赤蛇=煩悩は解り易い。伐折羅印は煩悩を握り締める印相だったのである。ここの像にはその印相・伐折羅印にも蛇は省略されている。手足の蛇も省略、前の日記の醍醐寺降三世明王も同様で蛇は居なかった。

またこの明王は虎皮と錦の布で腰を覆うという、このことを知った上で、初めてこの像の下半身の彫刻の妙を味わえる、この事は仏像観賞には知識は必要の好例と言えよう。

この像の持物には金剛杵、金輪、戟が見える。持物を持たない手は先述の伐折羅印の他、下に下げた腕の施無畏印、人差し指を突き立て残る指で親指を握り隠している手。腕を下に伸ばし親指を外に向け掌を見せているなどと皆儀軌に忠実の様である。

斯様に観て行くとなかなかの像でして、秘仏であったので持物などの保存も良いのであろうが、本の解説には江戸時代には江戸出開帳がされたとある。その時にこの光背が新に付けられたらしい。平面的ではあるが大柄に掘り込まれた火炎光背は、まだ色鮮で黒身の躯体を対照に良く映えさせている。

帰り際に、仁王門の仁王を見る。向って左には金剛力士像・吽形像が安置されていた。像高約210センチ、カツラの一木造平安時代の古い仁王像と考えられていると、 裸身の仁王で古いのは、いままで観たことがないのでは?鎌倉期以降の筋骨隆々を見慣れているので、何かその すんなりさに物足りぬ感を禁じえない。

対の像は不思議な像だった。腹部の玉が寄る様な筋肉表現は時代が下がる像の様式で、お顔の表情から転用での仁王の代用と思うが、何尊からの転用かは判らない、ただその不思議は強く感じた。

ここまで書いて思い出した、修理仏師に電話の時に聞いた話だか、ここ安楽寺には、大きな像ではないが平安時代の古像が幾つも残されているとの事であった。いずれに置かれて居るのだろう、その様な気配は境内では感じられなかった。

ただ古刹には違いないようで、この軍荼利明王は、中世以降、いくさの神として、平将門源頼朝足利尊氏などの崇敬も受けたという、ちなみにこの場所は成木という、これには逸話がある、奈良時代行基がこの地へ来て、鳴動するクスノキの大木の下で軍荼利明王の姿を感得した。そしてそのクスノキを用いて像を刻んだのが、安楽寺のはじめだという。「成木」は、クスノキが鳴ったことから生まれた地名だそうだと、寂土善夫氏のブログ仏像探訪記にあった。

そして次の観仏像の為、青梅の禅刹 延命寺にまたバスで向かった、そのお話はまた今度にしょう。・・・