孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

2回目 於東博 仏像観賞勉強会【1】

2011年07月12日11:05
 
過日に2回目の私設の東博仏像観賞勉強会をしました。ご案内致しました方々からは、今回は諸事情で不参加のご連絡を数件受けるも、前回よりも参加が減少は、真摯に反省材料としなければ成らないでしょう。

10時から本館11号(彫刻)室の観覧しました。今回展示の前半は珍しく金銅仏が多く展示されています。ご周知の如く金銅仏隆盛は我が国仏像の黎明である期飛鳥・白鳳期多く造られたが、その後暫くは金銅仏の像造の少ない時期続きます。次に鋳造仏像造が盛んに成るのは鎌倉期(この頃関東には鉄仏も・・・)です。今回展示物も鎌倉期のそれが4躯あります。


◎重文 銅造如来及両脇侍立像(法隆寺献納) 
朝鮮三国時代・6~7世紀  銅造鋳造鍍金 3躯
(如来および両脇侍像のうち)
像高(中尊)28.1 (左脇侍)20.9 (右脇侍)20.6
東京国立博物館
www.emuseum.jp/detail/100717/000/000?で画像が御覧になれます(但し只今「e国宝」「研究データベース」のサービスを休止中。6月22日(水)9時以降、再開予定 )

通常は当博物館の法隆寺館に展示の像ですが、当期間中は、ここに移転展示されています。

これは朝鮮三国時代の像であるが、我が国飛鳥時代の遺作にも多くあります「一光三尊形式(中尊と両脇侍(きょうじ)の三尊仏が一つの舟形光背を負う仏像の形式。法隆寺金堂釈迦三尊像などにみられる。)」です。
中尊の左手は、この時代に多く見られる飛鳥印と呼ばれる、密教の九字にする刀印と同じ形で、ひとさし指と中指を伸ばし、他の指を屈し、伸ばした指先を外・下に向けた印(意味的には与願印の一種と考えて良いであろう)を取ります。右手は上げ掌を外に向ける施無畏印です。両脇侍は胸前で両手の掌を水平にして重ね、見えませんが手の中には宝珠を有している意味合いの梵篋印という形をとります。また高い独特の宝冠をかぶっています。 通常の多くは阿弥陀三尊なのですが、これは両脇侍の冠に化仏、水瓶が認められないので、名称は「如来及び両脇侍像3躯」と成っています。ちなみに両脇侍の冠の天辺の厚み小口部分に、この時代の冠や光背装飾によくある日月の印(しるし)が見えます。わかりずらいので、卑近な説明をしますと、、楕円の容器の中に団子あるいは丸いアイスクリームが乗っている様に小さく見えます。

通常の多くは阿弥陀三尊でして、善光寺阿弥陀三尊と呼ばれ、仏教公伝時に蘇我氏物部氏によるの崇仏廃仏論争の対象となった、日本初伝の仏像と言われる信州善光寺の本尊(絶対秘仏で公開されない)を模した像でして、鎌倉時代以降に盛んに制作されています。当博物館にも次の展示や、2階3号室などに展示が見られます。




◎重文 :銅造阿弥陀三尊立像  3躯 銅製鋳造,鍍金
(中尊)像高47.0髪際高43.8/(左脇侍)像高33.0髪際高29.6/(右脇侍)像高33.0髪際高29.8
鎌倉時代・建長6年(1254)  東京国立博物館

www.emuseum.jp/detail/100420?で画像が御覧になれます(但し只今「e国宝」「研究データベース」のサービスを休止中。6月22日(水)9時以降、再開予定 )

この像も一光三尊形式の善光寺阿弥陀三尊ですが、光背は亡失しています。前項期述の如来及両脇侍像に通じて居るので、朝鮮半島三国時代その影響を受けている可能性が有ります。鋳模で古式を示ますが、それでも面貌、螺髪の細かさ、躯体の厚みなどに鎌倉時代の時代の様式が随所に現れています。

中尊の背面に「善光寺如来〈一光三尊〉于時建長第六〈甲寅〉正月廿日/下野国那須御庄内東与世村/勧進上人西忍生年廿七/奉安置之依夢相之告鋳模之」/(左脇侍)背面刻書「建長六年〈歳次甲寅〉正月廿日鋳移勧進西忍生年廿七」の刻書銘があり、この像が一光三尊の善光寺如来であり、建長6年(1254)下野国那須(現在の栃木県那須)において僧西忍の勧進により造られたことと「鋳模」は善光寺像の模造であることが記されています。

【続く】