孤思庵の仏像ブログ

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【続】 観仏像紀 鶴林寺 聖観音立像

2011年06月29日08:55
過日の受講で鶴林寺 聖観音立像が出て来ました。今月初めに拝観致し、14日に日記にしたばかり、そこでは盗難話を二つしたが、それに関する重大な手がかりの思惑が出現してしまいました。

飛鳥・白鳳期の金銅仏は蜜蝋による蝋型鋳造は存じていましたが、中子は必ず用いられ、中空の像ばかりと思ってました。中には中子無しで、蜜蝋型のみで造形され必然完成金銅仏は、無垢の像となります。という像もあるを初めて認識いたしました。小さい像ならそのほうが工程的に楽かと納得しました。

そんな訳で、そんな像は小さい像に決まっていると思いましたら、遺作の紹介に鶴林寺聖観音とあったのです。

普段なら聞き流していたでしょうが、前段の日記を書いたばかり、その法量(仏像の大きさ)は記憶に新しい、像高82.5センチメートルもあり、小金銅仏ではなく当時の金銅仏としてはかなり大きいほうではないか、それが中空で無しに無垢の像ですと!!さすれば重さは?金属の重さに無知な私ですが、人間一人より重いはず、100キロほどになるのでは??到底一人では運び出せないのでは・・・そんな重い像が・・・伝説にせよ、盗まれたとの逸話が残るとは!それよりも昭和18年に実際にあった窃盗事件を思うと改めて、日記の続きを書かずにはいられませんでした。

一方、あの人気の興福寺の阿修羅の脱活乾漆像は像高 153.4cm 重量は25.4kgである。芯材の重さがが半分以上なはずである。これならば火災の際、運び出せます。乾漆像の作られる理由はそこにあるかもですが、いかにに軽く出来るといっても、唐招提寺盧舎那仏は搬出は無理、軽さのメリットよりも金と同等の価値といわれる漆を大量に使用の意味はステイタスと思われます。

火災の話が出ましたので、前述の金銅仏についても申し上げましょう、金銅仏、他の素材より、一見堅牢に思われがちですが、火災に弱く意外と感単位、以下流行の言葉で言えば、メルトダウンしてしまうのです。奈良の大仏様然り、古くは飛鳥大仏然り、興福寺の旧山田寺からの仏頭、然りです。それらは飛鳥大仏 興福寺(旧山田寺)の仏頭は完全近く、部分的とはいえ飛鳥大仏のお顔、胴体は消失なのに何故残ったとお思いですか?

火災の熱で、仏像が溶け始めますと、首の部分が細く、また頭の重さがかかっているので首から折損、折れ落ちてしまうのです。火災の炎は上に向かい、案外に地面近くは比較的低温に保たれます。ですから落ちたお首(頭部)は案外に残ることもあるのです。東大寺大仏の蓮弁部の遺産も同じ理由です。

メルトダウン像といえば、西大寺 四王堂の四天王が、仲間内で論争になっています。度重なる火災で上部鋳造四天王像は焼失、足下の邪気部分が焼け残り、後に鎌倉期に鋳造で補作されたは周知です。(なお現在の内一体は室町時代の補作で木造、)残り三体の四天王は鎌倉期の鋳造後補は見解一致する処ですが、焼け残りの創建当初の邪鬼が問題に成ってまして、私は邪鬼三体ともに創建当時ものが残っていると読んだ知識の記憶にあるのですが、仏像仲間の一人が西大寺、拝観の折、寺の説明の人から、四天王像・増長天に踏み付けられている邪鬼のみが創建当時のものと説明を受けたと言い譲りません。

それで多くのブログを見て調べても、増長天の邪鬼が創建当初と取り上げられているのが多く見られます。残ったは増長天像の足下の邪鬼のみなのでしょうか?残りの二体の邪鬼も創建当初のものなのでしょうか、それとも違うのでしょうか?どなたかお教え願います。

西大寺といえば木心乾漆阿弥陀如来・釈迦如来・阿シュク;如来・宝生如が高名でついで騎獅文殊菩薩及脇侍像5躯や愛染明王坐像が人気です。 叡尊の肖像彫刻も有名です 、四王堂では大きな木造十一面観音立像が目を引き、孝謙上皇恵美押勝の乱平定を祈願して金銅四天王像の造立を発願したという、当寺の創建に関わる中心の像ですが、人気薄ですね、我々重箱の隅をほじるような細部に拘るはオタクなのでしょう!

【続く】
 
  • 地蔵十福2011年06月29日 18:32 http://img.mixi.net/img/basic/icon/message_trash002.gif
    はじめまして。 
    仏像に関する興味深いお話が書かれていますので時々お邪魔しています。 
    西大寺の四天王像の邪鬼については増長天像のみ創建当時のものだという荒唐無稽な説が流布していて嘆かわしく思っています。 
    「奈良六大寺大観」の解説に有るように四躰とも邪鬼は創建当時のものと考える方が、その損傷状態を見ても妥当ではないでしょうか。 
    逆にお尋ねしたいのですが三躰の天部が鎌倉時代のものだとする根拠は何でしょうか。 
    僕は自分なりに西大寺の歴史を調べた所、平安時代前期(貞観二年、860年)の火災が推定出来るので、その後、それほど遠くない時期に再鋳されたと想像しています。
    ご教示いただければ幸いです。
  • 仏像好きの孤思庵2011年07月14日 18:25 http://img.mixi.net/img/basic/icon/message_trash002.gif
    ヤマンダイさん 拙日記「【続】 観仏像紀 鶴林寺 聖観音立像」に6月29日にコメントを頂きながら、発見が遅れ、ご返事せずのままで、大変に失礼致しました。

    「三躰の天部が鎌倉時代のものだとする根拠は何でしょうか?」のお尋ねに関して、お答えします。

    当方、もとより、さほどの見識は持ち合わせませんので、知識部分は概ね、書籍からの知識の受け売り状態です。



    調べますうちに在りました、西大寺四天王の再鋳の記事をご紹介致し、お答えとします。



    集英社 日本古寺美術全集 6 西大寺と奈良の古寺 126頁

    (前略)現四王堂安置の四天王像はこの邪鬼上に立つ再興像である。その服制・姿態は当初像を比較的忠実に襲っているようで、このためもあって、鋳造時期を明確にしがたい。平安時代とする説もあるが、建永元年(1206)の東大門の造営、建保六年(1218)の塔供養と本寺復興の機運をみせはじめた鎌倉時代初め頃と考えたい。多聞天のみ木造であるのは、文亀二年(1502)の兵火による一山焼亡の際、再興像の本体が失われたため、広目天像を手本にして造られたとする説が有力である。 - 松島 健



    ②里文出版 「もっと知りたい奈良の仏像」 村田靖子 27頁

    (前略)つまり、多聞天の左脚の一部と四邪鬼が天平末鋳造、持国・増長天・広目の本体が平安時代の補鋳、多聞天の本体が文亀二年(1502)以降の室町時代の木造である。(後略)



    ③(図書館でコピーを撮ったもので、書籍名調べ漏らし)

    (前略)今、四王堂に安置されている四天王像がこれに当たるが、多聞天は後世の木彫像に代わっており、他の三躯の鋳銅像も本体は文亀二年(1502)以降に補作されたもので、三像の足下の邪鬼のみが再三の火災による痛ましい傷痕を見せながらも造像当時の姿を伝えている。(後略) - 田中義恭



    ④(友人がくれたコピーで 保育社西大寺の単行本らしいのですが、詳しい書籍名・著者名を問い合わせ中です。)

    (前略)四天王像のもつ一種の重厚さは、奈良仏師の作品に通ずるものとしてその制作時期を考える上で、注目してよいであろう。(以下4躯の邪鬼の古様を言いますが、四天王本体の制作時期の件はそれ以前に書かれている様子。コピーを貰いなおし追跡調査します。




    いずれも書かれた内容は相違するところも多く、困惑です。当初自宅蔵書の①を参照で鵜呑みに致し、本体補作は鎌倉時代と書きましたが・・・、現時点の私としては②の天本体3躯平安時代の補鋳説に(著者のファンでも在り、中で最新の出版でもあるため、また、端的明快な表現に思いまして)賛同したいです。 本文中に補鋳は鎌倉時代としましたはヤマンダインさんのご指摘の通り、平安期の補鋳と訂正させていただきます。



    ③の田中義恭氏の文は宜しくないですね!著書も沢山ある大先生でしょうに、???です。





    なお、調査中ですが、邪鬼に関しても、4躰とも創建当時のもの、多聞天邪鬼は含まない3躰が古いとの見解と在り、困惑です。



    寺の説明係員が増長天の邪鬼のみが、古いと説明しているのは事実らしく、他の知己の調査協力では、4躰とも天平期の遺作ではあるも、同一創建時の邪鬼ではなく、天平期といっても、そこに僅かのタイムラグがあるらしく、4躰とも天平期の作とはいえるものの創建の遺作はの増長天の邪鬼のみという説も入ってきておりまして、そんなところが寺の説明員の増長天の邪鬼のみが古いと言う原因かもです。



    私としては、もう御手上げ状態です。



    貴殿の見解の根拠をいま少し詳しく、又その他知識も含め、お教えいただければ幸いです。