孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

Takさんの 投稿   4月9日 PM23:30 分

都合で,休止していました。孤思庵ブログ 再開します。 溜まってました投稿 を 順次掲載します。
 
まずはTakさんの投稿です。

3 月下旬に出掛けて来ました。

東博・本館14室(3月26日・火)「密教美術の世界」((3月19日・火~6月23日・
日)

平成館での「東寺展」の帰り際に、資料館から本館11室・14室を巡拝して回りまし
た。

14室展示案内:  
https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item
<https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=5751 >
&id=5751 

11室展示案内:  
https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item
<https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=5455 >
&id=5455 



●京都・宝積寺(3月28日・木)

宝積寺サイト:  <https://takaradera.net/ > https://takaradera.net/ 

宝積寺寺宝サイト:  <https://takaradera.net/treasure.html >
https://takaradera.net/treasure.html 

午前6時に新横浜駅出発、8時に京都駅着、JR乗り換えで「山崎駅」到着。駅前に千利
休の現存唯一の茶室「待庵」があるものの予約拝観ということで今回は拝観叶わず。
線路沿いに数十メートル歩き踏切を渡る。踏切の中央から小さな駅舎とホームを望み
カメラを構えた。踏切を渡って「天王山ハイキングコース」の標識を確認して、「宝
寺」の標識をまっすぐに道を奥へ進むと10分足らずで「宝積寺」到着。「宝寺」は
宝積寺の名前を地元では「宝寺」と呼ぶそう。現在は真言宗智山派、開基は行基菩薩
という。行基菩薩の「行基年譜」のような記録に、彼自身が開基したという「山崎
院」という寺院が知られており、行基菩薩に縁の深い土地だったようだ。その山崎院
が宝積寺の前身寺院だった可能性があるという。天王山ハイキングコースは宝積寺の
境内を突っ切って山頂へ伸びている。山門(京都府登録文化財)にはそれなりに出来
の良い「仁王像」が力を漲らせたポーズでお出迎え。仁王像(阿形=那羅延金剛力
士、吽形=密迹金剛力士、像高約2.8m)は大きな像で鎌倉時代の迫力ある像として評
価できると考える。この像についてもどこかに誰かの立派な調査資料報告があるもの
と思う。山門横には「聖武天皇勅願所」との大きな石柱が立つ。横に立つ案内板には
寺伝として、奈良時代聖武天皇が僧「行基」に命じて建立したという古寺で、若干
の上り坂を僅かで左手に「不動堂」、右手に「三重塔」(豊臣秀吉の一夜の塔、桃山
時代建立、重文)(*)が望め、視線をまっすぐに向けると正面奥に瓦葺・本堂が見
えてくる。

寺の由来は、聖武天皇が夢の中で竜神から「萬寶第一(何事の願いも叶う)という
「打出」と「小槌」」を伝来されたという。その夢により聖武天皇行基菩薩に命じ
て「宝積寺」を建立し、打出と小槌を奉納し「勅命」の寺としたという。本堂横に赤
茶色の屋根瓦で、軒瓦の獅子の姿の軒瓦が特異な「小槌宮(大黒天神)」があり、破
風屋根軒下には大きく帆を張り宝の文字を彫り出した、船倉にはいくつもの魚が積ま
れている構図の「宝船」の彫物が組み物の中に覗く。打出は「弁財天神」、小槌は
「大黒天神」の如意御神器だそう。堂内は暗く大黒天坐像とその奥に厨子あるいは塔
と思しき大きな屋根の建物が伺うことが出来たが、如何せんよく拝せない。上がり框
のところに置かれた一抱えもあるような、舳先に竜頭の彫りがついた七福神の乗り込
んだ「宝船」の置物が、彫りも深く精緻な仕上がりで彩色に金色が映えて綺麗だっ
た。現在も打出と小槌によって福徳がさずかるとのことから、現世利益を願う人々で
祭事がにぎわっているという。寺の建つ地は、眼下に木津川、宇治川、淀川の3川の
合流の様子が望める「天王山」の中腹にあり、この地理的な様子はその後訪ねる「大
山崎山荘美術館」からの展望で納得した。その昔に洪水で橋が流され地元民が困窮し
ているときに、一人の翁が現れ、川の水面を歩き回り新しい橋を架け、翁は天王山に
登り洪水の害の及ばない場所にある寺に赴いたことから、以来宝積寺の本尊は「十一
面観世音菩薩」(橋架け観音)となったという。



「閻魔堂・閻魔大王と冥府群像」

その向かって右手に「閻魔堂」が並ぶ。コンクリート造り耐火建築のしっかりとした
お堂で、堂内には簡素な仏具のみで素木の内装に意外な感じだ。安置されている諸像
には手の届くほどに真近くに拝せるが、若干堂内の照明が暗いのが難点か。堂内は総
称して「閻魔大王と冥府群像」の、5体の鎌倉時代像で移安されてきた仏さまとし
て、お顔を拝することが出来る。正面2段の檀上には「閻魔大王」坐像を中心に向
かって右手に「司命菩薩」坐像、左手に「司録菩薩」坐像、下段右手に「暗黒童子
半跏像、左手に「倶生神」半跏像が並ぶ。下段の2像の間には供花や供え物、燈飾な
どが並び少々邪魔な感じ。閻魔大王像は他を圧する大きさで存在感があり、堂内をど
う見まわしても視線に入ってしまう。閻魔大王は頂上に宝珠を載せた逆三角形の大き
な冠を戴き、中心に王の文字を表している。眉根をしかめた筋肉隆々の憤怒の顔立ち
に怒りの見開いた眼球は玉眼がひかり、道服を着て右手を大腿部に置き「笏」を執
り、左手は大腿部にあてがう。上半身の肉感的なボリューム感あふれる体躯に反して
座した膝脚部は思いの外肉感に乏しいが、着衣の襞皺の彫がシャープに深く掘られて
いるので、生き生きとした躍動感を感じる。見たところ右足を前に出す安座形式だ。
像高は160㎝と大き目の木造彫像だ。司命菩薩は帽子と呼ぶべき冠を戴き道服を着け
て安座している。道服は閻魔大王の着衣に比べて細密に布感覚を表現して袖部の皺襞
などが克明に著わされている。左手に小さめの巻子を握り、左手は筆を持つ。全体に
閻魔大王に比べて一回り小型の像態に出来ているがそれでも像高は120㎝という。司
録菩薩は顔部の大きさほどもある大きめの文様の細かな冠を戴き、他の2像には無い
冠帯を左右に垂下している、道服は司命菩薩のように腹帯の結び目が大きく現わされ
た、細かな皺襞を現した服飾感にあふれたもので、それなりに彫りのはっきりした彫
像だ。閻魔大王ほどではないがそれなりに厳つい厳格な表情をしている。司録、司命
菩薩の2体は名称から、もともとは十王思想に基づいた2体ではないか?暗黒童子は中
国絵画などに見られる烏帽子のような簡素化した冠(帽子)をかぶり、襟首の少し
立った丸首の道服を着ているが上段3像のような服飾ではなく職人が着るような袖の
小さい簡素な服として表現されている。右手を胸前に挙げて筆を持ち、左手に細長い
木簡を持ち木簡の下端を太ももで支えている。木製の組み立て式・折り畳み式の椅子
(交椅=床几)に右足を踏み下げて座する。椅子には頭部の跡をそのままに残した獣
皮(虎か)を敷きその上に座している。脛までのブーツ状の靴を履く。像高は120
㎝。倶生神は暗黒童子同様な冠(帽子)をかぶり、童子と同じ様な道服を着る。左右
の腕は胸高かに挙げられて開いた巻物の軸部分を持ち、巻物の紙面は両手の間でたれ
折れている。童子同様に獣皮の敷かれた交椅に左足を踏み下げて坐する。この暗黒童
子、倶生神像は司録、司命菩薩としての像ではなかったか?思えば同じ役柄の像が移
安先の関係からか、各2体づつここに集まったものなのか?とにかくカメラの被写体
として格好な距離とアングルが楽しめるお堂だった。この堂内でかなりのシャッター
を押してしまった。



「本堂・十一面観世音菩薩立像」

本瓦葺きの本堂(京都府登録文化財)へ移ると、閻魔堂とはうって変わっていかにも
寺院のお堂という感じで、内陣・外陣、須弥壇、天井、菊花紋の燭台、天井から下が
る大きな幡や荘厳類などすべてが「来たな!」という感じが一杯。外陣と内陣を隔て
る格子引き扉を開くと、ひんやりとした空気が気になるほどに人けのないロウソクの
灯りのみでうす暗い堂内は、太い柱間の中央の護摩壇の奥に、大きな破風屋根で黄金
色の組み物になる黒色厨子に安置された仏さま、厨子の両側にも仏さまが並ぶ立派な
内陣だ。お寺の方(ご婦人)から勧められて内陣奥の本尊足元まで近づいて拝観出来
ました。うす暗い厨子の中に安置されている本尊(十一面観世音菩薩立像・鎌倉時
代・重文、漆箔)はさすがに見事な仏さまだ。左右に侍る諸像もソレナリに注目出来
る仏さまだ。お寺の方に伺ったところ、仏さまはヒノキ材寄木造り、彫眼、像高約
180㎝の等身大という。一生懸命オペラグラスでしつこく覗き込んだが、如何せんあ
まり明るくない堂内で、仏さまを把握するのに苦労した。三十三変化仏の配された透
かし彫りの宝相華文様の船形光背を背負い、均整の取れた姿で立っていらっしゃる。
整ったお顔で、天冠台より上部には、正面に阿弥陀の化仏は認められなかったものの
化仏面部は正面から拝する限りでは欠落なども無く、ちゃんと揃っているものと推察
出来る。またよく観ると天冠台の周囲に小さな鈴状の装飾が取り付けられ、頭髪に掛
かるように下がっているのが認められ、細かい手が込められていることが知れた。顔
の表情は穏やかな整った目鼻立ちの様子がうかがわれ、ふくよかな頬ではあるが引き
締まった顔付きのようで、顔部の漆箔もかなり綺麗に残っている状態で、過去に何時
修復などの手が入ったのか判らないが、かなり良好に保存されていることが知れる。
幸いに全体的に保存状態が良好と見え、体躯全身の様子がよく判る。首から膝脚部ま
で下がる瓔珞も綺麗な形状のものが認められる。全身の漆箔の保存状態も良く、目
立った欠損、剥落なども見当たらない感じだ。全体にプロポーションがよく下半身の
衣文の状況も自然で無理なく流れる襞皺には感心される。また綺麗に流れる垂下した
2段の天衣、これは膝部前を横切ることになるが、上から二重に流れてくるものが、
下段の天衣が脚部中央で上段の天衣に絡んでW型になる意匠表現は、単純な天衣の処
理ではなく見事な感じだ。腹帯下部には膝脚部の中央に小さな渦巻き状の衣文の表現
も観られ、従来の観音像の裙の表現処理を踏襲しているかのようで、綺麗な仏さまを
拝することが出来た。

この像の胎内納入品に、十一面観音造営勧進現在帳他経巻数巻、結縁交名紙本、紙本
十一面観音摺仏などの外に、小さなヒノキ材の木片が2片あり、造仏時の残材木屑と
思われるが、そこに仏師名が墨書されているという。1片には「大仏師法印院範」、1
片には「法橋院雲」と読めるそうだ。帰り際に寺務所でご婦人にうかがい、ご親切に
奥から資料を持ってきて貰ったところ、ある紙面から「院範」は鎌倉時代初期の南都
復興事業で「法印院尊」に従い、「東大寺大仏光背化仏」の制作(1194年)に関わっ
たことが知られている。院尊は当時の造仏界の重鎮の仏師で知られ、確実な真作例は
無いが、その資料によると彼の制作像として「京都・長講堂・阿弥陀三尊像」が記録
にあるそうだ。私も数年前に長講堂特別拝観をしているが、院尊作との記憶がないの
は残念。院範は当時の記録からは長講堂像制作時は「法橋位」とのこと。院範の造像
作例は記録には出てくるが、現存作例は他には見当たらず、この宝積寺像は彼の唯一
の造像作例と見做されている。ちなみに宝積寺像は彼の70歳くらいの高齢で、晩年の
作例とのこと。比較すれば運慶と湛慶の間に生きた仏師といえようか。ここで慶派隆
盛時における院派仏師の作例を観ることが出来たことになる。帰宅してから再度博物
館や図書館で確認してみようかと思う。やはりパンフや一般に目に付く資料では分か
らないことも、寺院の方にうかがえば、それなりに引き出されるものだ、とつくづく
思った。カメラのシャッターを幾度となく押すことになり、バッテリーが切れること
が心配なほどだった。まだ次に行くところがあるのだから。



本尊向かって右側の厨子隣には満面笑みを浮かべた木造大黒天立像が素木のままでデ
ンと置かれていた。その外側に並んで千手観音菩薩立像(それも化仏を捧げる両手が
頭上に掲げられる清水寺千手観音菩薩立像=江戸時代、漆箔)が、結構綺麗に鮮明
に持物も脇手に捧げられている状態で、結構立派な像であることが判断出来た。ま
た、厨子外側向かって左手には、脇侍像として火炎円光を背負う、左手に宝塔、右手
に檄を持つ、甲冑のフル装備で胸甲・籠手・腹獅噛の綺麗な造りの、大袖を結んで兜
をかぶった武将立像(毘沙門天立像)(像高約170㎝)が少し前傾姿勢で守護してい
る姿を見せている。昔はさぞ彩色も綺麗だったことだろう。邪鬼も足元で覗き込むこ
とが出来た。仁王門近くのお堂には「不動明王像及び童子像」(鎌倉時代)が安置さ
れていたが、堂内奥で照明も十分でなく、1枚の不鮮明写真しか撮影出来ずに詳細判
別出来なかった。

因みに、お寺のご婦人のお話しでは、宝積寺の御朱印には、本堂、閻魔大王、大黒天
神の3種類があるそう。



(*)織田信長明智光秀に本能寺を襲われ自害した際に、備中高松に陣していた羽
柴秀吉は「大返し」の結果、天王山付近で光秀と衝突し、秀吉は宝積寺を本陣として
光秀の掃討作戦を行なった「山崎の合戦」で、その後光秀の首を取った秀吉は、三重
塔を一夜にして建立し戦勝記念とした。またその後秀吉は1年間、宝積寺に陣を解か
ず滞在したというが、秀吉が腰かけたという「出世石」も境内にある。秀吉は付近に
「山崎城」を築城したというが、天王山中腹に石垣跡が残るものの詳細は不明だそ
う。



宝積寺には、午前8時30分から13時までの拝観で、お寺のご婦人にはいろいろとお世
話になりました。





大山崎山荘美術館(3月28日・木)「バーナード・リーチ展」 

バーナード・リーチ展」:  
https://www.asahibeer-oyamazaki.com/tokubetu/41057/ 

アサヒビール大山崎山荘美術館サイト:  https://www.asahibeer-oyamazaki.com/
 

「宝積寺」の帰りの下り道で、途中から左手に道を折れると上り坂になり住宅地が途
切れたところから急こう配の路と鬱蒼とした叢林の世界に入っていく。崖の左手にト
ンネルが見えてきて、トンネルをくぐると手入れのしっかりとした坂道は既に「大山
崎山荘美術館」のエリア内となる。坂道の途中には庭園や別の建物に繋がる小路がい
くつもあり、自然と丘陵の上へと進む。そこここに奥の美術館の洋館と付随する一風
変わった建物が見えてくる。建物の周囲は庭園や池泉が配されており、のんびりとし
た雰囲気が気持ち良い。門からはすぐに美術館の玄関となる。宝積寺の拝観券を提示
して入館料が100円割引になったのはありがたい。洋風の建物は木造で、窓枠から扉
までも木造のしっくりとした感触で迎えてくれる。扉の取っ手にも開化期の洋館にあ
りがちな意匠をこらしたデザインで統一されているようだ。急な階段には木製の細か
い装飾の細工だったり、ステンドグラス窓の踊り場があったり、いわゆる欧州・英国
風の山荘です。2階ロビーに置かれたオルゴール柱時計は欧州から運ばれたもののよ
うで、シックな山荘風の建物の内装にマッチしている気がする。また2階の一隅は昔
の寝室だった部屋を改装した「カフェ」と、大きな屋根の軒下に当たるテラスでの喫
茶は、時間が止まったかのようでゆっくりくつろげるだろう。この土地は、大阪・両
替商の息子「加賀正太郎」が明治末年に欧州周遊後、大学(一橋大学)卒業後に家業
を継ぎ、その後「加賀証券」を経営した実業家のものだった。ちなみに彼はスイスア
ルプス・ユングフラウ(4,158m)という著名な高峰に日本人として初の登頂をした
人物。

加賀氏の手許を離れた山荘は、「民芸運動」にも理解・参画した「アサヒビール」初
代社長「山本為三郎」の手に遷った。山本は、運動を主導した「柳宗悦」氏、陶芸
家・河井寛次郎氏、バーナードリーチらの美術活動を支援した。現在山荘にある美術
品は山本氏の蒐集したコレクション。もうひとつの眼玉はクロード・モネの描いた
「睡蓮」の連作のコレクション。

バーナード・リーチ」は、22歳の時にイギリスを発ち来日する。東京でイギリス絵
画などを教える傍ら、「富本健吉」「柳宗悦」らと親交を深め日本文化の理解者・研
究者となる。その後「焼物」を体験したことから没頭することになり、日英間の交流
を進めた。イギリスでも陶芸製作活動を進め、新しい製作技法などを生み出すことに
なる、日本では益子(栃木県)を中心に「濱田庄司」と活動し、京都では河井寛次郎
と、松江では「舩木道忠」らと交流しながら陶芸製作活動をおこない、日本と欧州中
心に活動して、西洋の陶芸と日本の陶芸を融和させた作品を数多く世に出していっ
た。私の判断では、美術工芸的な観点よりも、日常使用するための製作で、彼の遺し
た作品は、あまり洗練されていない土臭い素朴な、それでいて個性的な主に皿や茶道
用小物や喫茶作品などが多く、今回の展覧会もそれらの作例がほとんど。私には彼の
作例は、大きな明るい展示会場ではなく、この山荘のような木の温もりのある部屋の
中で、薄暗い部屋の雰囲気の中で拝見することが出来るほうが、そして数少なく掌に
つつむくらいのものが、相応しい感じがして気に入っている。出来ればまた他の時節
(秋期、冬期)にも出掛けてみたいと思う。

大山崎山荘美術館には、13時過ぎから16時頃まで拝観と庭園散策をしてゆっくりと過
ごした。その後JR山崎駅から京都市内ホテルへ戻り。



●大阪・中之島香雪美術館(3月29日・金)「明恵の夢と高山寺」展

中之島香雪美術館サイト:  http://www.kosetsu-museum.or.jp/nakanoshima/ 

明恵展」広報:  
http://www.kosetsu-museum.or.jp/nakanoshima/exhibition/now/ 

JR大阪駅からは天気も悪くないので、歩くことにした。それでもウイークデーの出勤
時間でもあり地下道も地上の通りも通勤で急ぐ大勢の人々に出会う。田舎者の私は、
林立する高層ビル群を見上げたりしながら場所を間違えないようにゆっくりと歩い
て、「中之島香雪美術館」へ向かった。巨大なビジネスビルの1階正面フロアを入
り、4階が美術館だ。

大きなビルは、ドラマの世界に入ったように広大で、靴音が反響するような3階まで
吹き抜けのフロアロビーでエレベータがゆっくりと動いている。エレベーターを4階
まで登るとそのフロアは美術館のフロアだった。意外と簡素な大袈裟でないフロント
入口が出迎えてくれ、東京でもありそうなビル内の美術館の雰囲気は変わらない。そ
れでもしっとりとした空気は全体に誇大や華美な装飾などが少ないモノトーンのシッ
クな意匠の構えからかもしれない。入口の周辺には、大きな「明恵上人樹上坐禅像」
をレイアウトしたポスターが張られているだけの簡素なものだった。午前中の美術館
のせいか入場客は少なめで、拝観するには好都合。会場内は墨色のモノトーン調の内
装と説明・案内パネルも地味目。照明はかなり限定的に絞っており、展示している作
例によってはかなり暗い照度のもとでの拝観となるようだ。私は午前10時の開館前
に到着したが、開場前にフロア下の3階の「スナックコーナー」を見てきたが、軽
食、喫茶が出来るのだが、ビル内のテナント会社の社員のみならず一般の人も利用可
能だが、よく利用方法に眼を通したら専用のカードが必要とのこと。展覧会入場前の
コーヒーの1杯も手に入れることが出来なかったのが残念。この美術館は、神戸市の
東灘区御影(みかげ)という場所に開館し、この中之島に2館目の美術館をビジネス
ビルの中のテナントとして開館した。私は、美術館の名称だけで「中之島」の頭の文
字を気にしなかったので、自宅を出掛けるまで神戸の美術館だとばっかり思い込んで
いたのが冷や汗ものだった。朝日新聞社創業者の「村山龍平」の号が「香雪」だった
そうで、それが美術館名称の由来だそうだ。陶磁器、茶道具を中心とした日本美術品
や東洋の焼物などが多くコレクションされており、鑑賞するにはまたとない環境のよ
うだ。また、展示場の奥には村山龍平氏の遺品や収蔵品、日常の使用道具、業績の展
示(たとえば美術雑誌「國華」第1号)なども展示されている。また、茶室「中之島
玄庵」も常設展示されている。これは説明板によると薮内流家元の「燕庵」の複製
で、古田織部好みの茶室だそう。このような趣向を凝らした美術館は安らぐ場所にな
るはずだ。

明恵の夢と高山寺展」

京都・高山寺を開いた明恵上人は、修行に励んだ青年期から弟子たちに囲まれた晩年
まで、「夢」を記録し続けた。これを「夢記」という。夢想や瞑想など様々な形の夢
が含まれている。「夢記」は弟子に受け継がれその多くが高山寺に伝来された。「夢
記」では、明恵の生涯の軌跡は夢と分かちがたく結びついている、この展覧会では、
入場口早々から「鳥獣戯画」全4巻が展示される(展示替えあり)。高山寺に伝わる
明恵上人樹上坐禅像」や多くの仏画、古文書と共に「仔犬像」、「神鹿像」など僅
かながら彫像関係もあるが、むしろ彫像以外の作例に興味があるので、私のノートに
は数ページに亘って判読不能のような文字が並ぶが、詳細は長くなるので省略。

中之島香雪美術館には開館の午前10時から14時まで拝観し、その後は緒方洪庵やその
他大坂や神戸の幕末の学者の関係施設と資料館巡りを行なった。



●奈良・東大寺学講座(3月30日・土)「東大寺と鎮守八幡宮神仏習合と大衆の成
長―」(横内裕人教授)

1.東大寺八幡神の出会い(8世紀) 2.大仏修理と八幡神の勧請(9・10世紀)
 3.東大寺大衆と八幡神(11・12世紀) 4.手向山八幡宮の成立と神仏習合の完成
(13世紀) というように時代を区切り、寺の変遷についての説明や古書・記録の記
述の差異とその解釈や疑問点、などなどいくつもの例示を示しながら横内先生の説を
展開する。「東大寺起請案」など文献についても紹介引用し、読み下して当時の事柄
を説明された。「僧形八幡神像」についても少し時間をかけて状況を話されたが、ま
だまだ問題が多くあり解決出来ないことだらけだ、という。特に最後の鎌倉時代初期
の様子については、先生からもっと深く掘り下げて説明が伺えたらよかったのだが。

私自身が記録したノートのページを判読・復元するのに時間がかかるので、自分の手
許だけで納め、ここでは省略。



,019年4月9日 PM23:30    Tak