孤思庵の仏像ブログ

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Takさんの投稿 4月中旬の展覧会、講座参加報告

Takさんの投稿  

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413日(土)奈良博「藤田美術館展」+興福寺佛教文化講座:(奈良博で金沢文庫・瀬谷学芸員にお会いしました。)
思い出したように、早朝に以前サントリー美術館で開催された「藤田美術館展」の「図録」をパラパラとページをめくってみて事前チェックはしたものの、途中で午後2時からのNHKETV番組「TVシンポジウム」の録画予約をしていなかったことに気付き、慌てて番組予約しました。今年2月に大阪で開催され参加して来た「司馬遼太郎『菜の花忌・シンポジウム』・梟の城」の録画放送です。荷物を纏めて走って最寄り駅に急ぎましたが、駅ビルの中央柱に作業用の柵が置かれてあり、鳥の糞の跡が目に付きました。「かわいい生き物の生活を守ります」とのメッセージがあり、天井と柱の鉄骨とケーブルの交差している場所にツバメの巣が出来ており、親鳥がケーブルにとまっていました。巣の中にヒナがいたかどうかわかりませんでしたが、もうこんな時期なのだな、と思いました。奈良市内の三条通りのビルの軒下のツバメの巣は毎年のように注目していますが今年はどうなっているでしょう。最寄り駅は旅行の帰りにも必ず寄るところなので、帰りにジックリ観察しようと思い、先を急ぎ改札を入りました。
奈良博・「藤田美術館展」
いつものとおりの行程・時間で奈良博には開館の午前930分には余裕で到着。暫く奈良博の扉が開くのを幾人もの拝観客と共に待ちました。この日の目的は午後の「興福寺佛教文化講座」聴講だが、それまでの午前中の時間を「藤田美術館展」の拝観に充てています。拝観時間的には短かいのですが、この展覧会は初日でもあり、前日までに展示リストをHPからコピーして、10点ほどの必要十分な出展作例をだけをとりあえずゆっくり拝観することで、他は流し拝観として、次回は奈良博「サンデートーク」開催日などに合わせて再度訪問する計画です。
会場内は展覧会初日、オープン直後ということからか予想外に入場客が少なめでゆっくり拝観出来ました。
藤田美術館」は、「藤田伝三郎」という人物によって設立された。伝三郎は現在の山口県萩市で誕生し、明治時代初期に「藤田組」という会社を興し、土木や滋賀から関西以西の多くの鉄道事業などの多くの事業を起こし、「西南戦争」にも事業の靴製造で財を築いたということです。広い地域の�唆箸箏从儚萋阿帽弩イ靴泙靴拭B膾紊痢峺淆緲Ц釗廚閥Δ法崑膾緇��餤捗蝓廚鮴瀘�掘�鸞緻棆馥�箸靴董�膾紊里澆覆蕕唆甬Δ鮹羶瓦忙�罰萋阿髪洞僧呂鮃④瓩胴圓辰燭里任后E��了�伐箸�修Δ任△辰燭茲Δ法⊆�蘆稙擦簀蹴擇覆匹鰉呂猜顕戎佑如¬声4釮瞭鐱椶諒顕修虜�陝�喃僉∋彊錣亡轅釮掘∧顕什發鮗蕕襪海箸冒曚い魎鵑察�爐梁���首鞜�瘤臀杜㏄咯下�鞜郛人と共に多くの文化財を蒐集しました。その集めた文化財を保管・管理、そして公開展示する目的で、「藤田コレクション」を大坂の中心地・網島に、1954年(昭和29年)に美術館を開館しました。藤田美術館が、今回の展覧会のタイトルにあるように「国宝の殿堂」と呼ばれる理由は、国宝指定の文化財9件、重要文化財53件という多種多様な領域の日本・東洋の文化財を所蔵していることによるもので、私立の美術館の中でも屈指の規模を誇るもので、広く知られた文化財があり、茶道をはじめ仏教美術品のその多くが今回の展覧会に出展されているのだから楽しみです。ちなみに美術館は新しい時代の美術館を目指して改築中で、2022年にリニューアルオープン予定だそうです。
 
脱線しますが、ちょうどタイミングよく、先日の大津歴博での「法明院―三井寺北院の名刹」展の関連講座で伺った講義内容を思い出しました。廃仏希釈以来、フェノロサやビゲローが啓発と危機感を強く訴えた「日本美術の散逸」に呼応して、藤田伝三郎はじめ当時の事業家の多くが一斉に文化財の蒐集ということで散逸を防ごうとしたのが、「数寄者」の共通した行動だったようです。三菱財閥岩崎弥太郎・小弥太、大倉財閥大倉喜八郎、根津の根津嘉一郎、時代は下って東急財閥の五島慶太など、多くの数寄者が輩出しました。その共通点は、幕末に誕生し激動の時代を若くして生き抜き、新時代に事業で成功した事業家で、共通する意識としては、欧米における「万国博覧会」に触発されたジャポニズムに繋がる日本に対するナショナリズムの高揚と、欧米人の影響による「ノブレス・オブリージュ」博愛精神と慈善事業の取組み、「フィランソロピー」、そして日本人の伝統的倫理・道徳観という3点が彷彿とし、文化財の散逸を憂い、同時に富裕者の義務としての貧者への救済や慈善や投資による社会・文化の担い手たらんとしていた意識が溢れていたのでしょう。彼ら先哲の慈善的な活動が現在の日本美術の公益性や大衆化の基礎となったのだと思うと感無量です。
 
会場入り口すぐに「曜変天目茶碗」の展示コーナーがあり、MIHO MUSEUM同様に拝観順路が特別に出来ており、そこだけ順路表示です。オープン直後でありジックリと拝することが出来ました。思い出したのは、藤田美術館曜変天目茶碗」や多くの仏画や茶道具、工芸品、厨子曼荼羅などの多くは、2015年(H27年)夏から秋にかけて東京・サントリー美術館で開催された「藤田美術館の至宝・国宝曜変天目茶碗と日本の美」展覧会で拝観した記憶がありますが、当時のことはうる覚えです。それでも、当時の「図録」の最初に写真家の「三好和義」氏の風景や美術品の撮影作品が数ページに亘って収録されていました。
 
曜変天目茶碗」(国宝)…瑠璃色の曜変という斑紋は、宇宙空間の星の輝きのようで他2碗の曜変天目茶碗よりも大きな曜変斑紋が際立ち、碗内面に大小斑紋が全体的に散らばり、他の2碗に見られない筋目も多く明瞭に表れており変化がみられる。また碗外側腹部にも細かい光彩状にちりばめられた斑紋が輝く。3碗のうちで唯一スッポン口という口縁部の覆輪を持つ形です。大徳寺茶碗の拝観の時も気の付いた、口縁部の覆輪と思しき場所に朱色の極く小さな欠損剥落らしき直しが認められます。そりゃー長いこといろいろな場所に持ち運ばれ、多くの人々に手に取られ、引く手あまただったのだから、無傷であることが稀有だろう。天目台は当時の茶碗との組み合わせとは雰囲気が違う意匠のようで、私の感想としては他からの流用かと思われます。
「交趾大亀香合」…大き目の香合で、形からもすぐに亀の甲羅の形と分かります。あまり精巧な出来の良くない香合に見えますが、盆の裏には「千利休の花押」があるそうです。藤田伝三郎はこれにご執心だったようで手に入れたいと思い込んでいたようです。明治45年の亡くなる直前に落札出来たのだが、残念にも香合を観ることも触れることも出来なかったそうです。
「古瀬戸肩衝茶入・銘・在中庵」(重文)…「小堀遠州」が愛用した茶入れの一つという。仕覆という茶入れを入れる袋が8種類、象牙で作られた蓋が8枚、渋柿色の横筋の巡る胴体に黒釉薬の掛かる、地味な意匠の茶入れという印象です。
「紫門新月図」(国宝、前半展示)…私はシモンと読んでいたのだが、後でサイモンと読むと知りました。「川沿いの村の夕暮れ、互いに見送れば、紫門のところに月の色が新たに表れた」という中国の詩に合わせた様子を墨書しているものですが、もの悲しい寒々とした強い風に吹かれた別れ、という雰囲気が好きです。
玄奘三蔵絵」(国宝):サントリー美術館で拝観した際に感動を受けた覚えがあります。…玄奘三蔵の生涯を描いた絵巻です。1月ほど前に文庫本「玄奘三蔵―西域・インド紀行」(長澤和俊訳、講談社学術文庫)を入手し、半ばまで読んだところでしたので、西域の砂漠を行く玄奘三蔵の悪戦苦闘する姿が偲ばれます。
両部大経感得図」(国宝)龍孟、善無畏が大日経金剛頂経を獲得した時の様子を描いた物語の仏画で、サントリー美術館では明治に廃寺となった「永久寺真言堂」(たしか永久寺の地図がパネルになっていたはず)に安置されていたことや、作者が分かる平安時代仏画だ、とのことだけが思い出します。…鉄塔の扉の前で龍猛が「金剛頂経」を得る為に中へ、五重塔の前で天空に浮かぶ色彩の雲の先に「大日経」の経文が浮かぶ様子を見上げる善無畏の姿から、両部の経の獲得した様子を知る事が出来る。
紫式部日記絵詞」…紫式部が記した貴族の華やかな生活を日記にまとめたものを絵巻に仕立てた。色調が場面によって複雑に切り替えて描かれているのが感心だ。
 
通路を通って展覧場所を移動し、部屋の入口正面から仏像展示が始まります。
地蔵菩薩立像」(快慶作、重文)…何度拝しても目が離せない素晴らしい仏さまだ。袈裟は橙色基調に胸元や衣袖部分を緑青色に表して全面に截金をほどこす。色調に溢れた均整の取れた、細部にまで拘った姿が目に焼き付きます。後方に雲の尾を引く雲乗来迎の阿弥陀様だ。かなり前傾して腰、背筋を伸ばして、衆生の救済に急ぎ向かうひっ迫した空気が感じられる。光背も全身を覆う透かし彫りの船形光背が印象的な仏さまですが、周縁部の円相の種字が文殊種字で仏さまと合致しないという、後世の後補の様だ。「MUSEUM
都合により、途中中断します。 後日編集修正します。孤思庵