孤思庵の仏像ブログ

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Takさんからの投稿11/29 「11月後半の公演会、寺院拝観報告。」

Takさんからの投稿11/29  「11月後半の公演会、寺院拝観報告。」

奈良学文化講座(東京講座):


30117日(水)1800~ よみうりホール



「飛鳥に咲いた仏教の花―曽我、物部の戦いと飛鳥仏のほほえみー」


1.「仏教公伝と曽我・物部氏の争い」 倉本一宏・国際日本文化研究センター教授


2.「仏像の黎明―飛鳥時代の仏像とその製作―」 山本勉・清泉女子大学教授


*いつものように2階最前列中央右端に席を取り、2講の講演を拝聴しました。倉本教授の講義は久方ぶりの聴講です。話しの展開と軽妙な話し方の旨さが気に入っている研究者です。でも今回はご自分から山本教授の講演の「前座」だとおっしゃっていて、少し引いた感じの話しぶりだったかもしれませんでした。


 


大津市歴史博物館・講演会:


①H301110日(土)1400~ 大津市歴史博物館・講堂



「大仏師湛慶の仏像とその周辺」 植村拓哉・元興寺文化財研究所研究員


*数度目のおめもじですが、落ち着いた様子は変わらず、講演後の私への応対も丁寧な感じでした。私は、以前佛教大学ミュージアムで頂いた「研究紀要」を持参して講義を聴講しました。


レジュメ:


  1. その生涯と課題……前半生の事績、後半生の事績
  2. 湛慶様と運慶様―如来形を中心に―……京都における湛慶様、東国における運慶様
  3. 受容者層の仏像観と仏師……志向性と嗜好性、平安貴族の仏像観


 


東大寺・友の会・講演会:


301113日(火)1400~ 東博・平成館・大講堂


1東大寺由来の書とその美―聖武天皇正倉院宝物―」 恵美千鶴子・東博150年史編纂室長


レジュメ:


1 大聖武東大寺由来と聖武天皇の伝承


2 正倉院宝物より聖武天皇光明皇后の筆跡 「雑集」、「楽毅論」、「杜家立成雑書要略」


3 鴨毛屏風~近代国民国家正倉院


2「称徳・道鏡政権の実態と東大寺 森本公誠東大寺長老


レジュメ:




3 尼天皇神仏習合


4 道鏡法王任命の内幕


5 宇佐八幡神託事件


6 西大寺東塔心礎破却の祟り


*講演後、恵美室長には書跡の文化財のことや光明皇后聖武天皇だけでなく、来年の「顔真卿」展についても伺いました。また、森本長老については明治150年ということで、「東大寺と明治150年」、「文化財の保護」といったテーマでも何かぜひ企画していただきたい旨お願いしましたが、すでに予定されているシンポジウム行事がGBS1124日~25日)です。司会役の上司永照師には挨拶出来ずじまいでした。


 


山形・鶴岡・善寶寺・特別拝観:


301115日(木)9001500 本堂・慈照殿・龍王殿・羅漢堂・五重塔初層・諸仏拝観。


善寶寺HP:   http://www.zenpouji.jp/wp/sanpai 


善寶寺秋の特別公開: http://www.zenpouji.jp/wp/rakanhaikan 




*先月の「東北巡拝報告・その1」の中で、披露した古書店?「阿部久書店」の立ち読みの時に逢った男性が「東北芸術工科大学」の学生で、彼との話しから紹介を受けて学生の苦労話を私の眼で見に行こうと思い立ち、新潟市の「會津八一記念館」見学の後山形・鶴岡へ向かいました。彼が学ぶ学校は、地方の美術工芸品や歴史的家財具までの修復や整備をしたり、新しい前衛的な美術工芸の創造をしているという大学だそうです。


鶴岡バスセンターから始発「湯野浜温泉」行バスで約35分。1020分にバス停を降りるとそこが境内です。「開基・龍華妙達上人生誕1150年祭」という幟がはためく寺域は、平坦な田圃と住宅地の中にバス通りに面して構えられています。見渡すと寺域裏手には丘陵が広がり遠くには「鳥海山」が微かに望むことが出来るそうですが、今日は残念。「龍王尊祈祷道場・龍澤山・善寶寺」は竜神様のお寺として1200年の歴史がある「曹洞宗三大祈祷所」の一つで、広い境内には多くの堂塔が立ち並ぶ立派な寺院です。お寺の主な建物である「龍華殿」、「五重塔」、「山門」、「総門」が平成27年(2015年)に「登録有形文化財」に指定されています。お寺の縁起は平安時代に遡り、「法華験記」や「今昔物語」などの古来からの文書や文学作品などにも登場する「妙達上人」という法華経の行者が草庵を結び「龍華寺」と名付けたのが善寶寺の始まりだそうです。立派な本堂内の寺僧に伺うと、妙達上人の前に「竜神」が現れて「法華経」の功徳を受けたいと願い、竜神は上人の法華経の読誦に聞き入り、善寶寺裏手の今も「人面魚」が棲む「貝喰いの池」(かいばみのいけ)に身を隠しました。その龍神は、延慶2年(1309年)の曹洞宗大本山總持寺二祖・善寶寺開祖の「峨山韶碩禅師」(がざんじょうせきぜんじ)の前や浄椿大和尚(じょうちんだいわじょう)などの前にも現れ、仏法の戒を授かったということです。その後歴代の住職は「奥の院」に龍神を祀り「龍王殿」を建立して今に至るということです。今年妙達上人の生誕1150年にあたり、閉ざされていた「奥の院龍王殿」が開帳されました。


「龍華庵」(りゅうげあん):善寶寺前身の龍華寺の本堂で貴重な建物となっています。明治13年(1880年)に建物内外の改修が行われているそうで、当時の善寶寺お抱えの棟梁がおこなったそうです。現在は隣りの「五百羅漢堂」安置の五百羅漢像修復のための作業所となっているようです。


「総門」安政3年(1856年)に再建された十二支を主体とした細やかな彫刻物を門全体に廻らしたような、ケヤキ造りの四脚門で精緻な多くの精緻な彫像は、息を呑むもので見惚れてしまいます。戦時中に十二支のうち酉(とり)像が盗まれ、一支欠けているそうです。また、辰像は龍の姿ではないそうです。最初は分りませんでしたが、そこかしこに「鯉」と思しき大きな魚と大きな波の形が彫像として配置されています。鯉の滝登りから波頭の中を龍に変化・変身していく龍の姿を表しているのでしょう。

「山門」
文久2年(1862年)に再建、慶應3年(1867年)に上棟式挙行されたものだそうです。構造が立派な造りで総ケヤキ造り、銅板葺き屋根の大きな楼門です。庇下周囲には多くの精緻な彫刻の立体的な複雑な彫像は眼を凝らしてみても観尽くせないものです。廃仏毀釈の際に、本来ならば安置されているはずの仁王像が無く、左右門内部には向かって右手に「毘沙門天像」、左手に「韋駄天像」が立ちます。廃仏毀釈によって羽黒山から避難されてきた両像をこの山門に安置したということです。両像とも等身大くらいの大きさかと思え、東大寺南大門仁王像のように向かい合っています。毘沙門天像は中国の甲冑装束を身につけ鉄鎖甲がハッキリと彫られて表わされており、左手に宝塔、右手に檄を持つ姿です。韋駄天像も最近重文になった岐阜の像と同じ様なスタイルと装飾をしています。正面円柱の「獅子像」も精巧な力作です。ちなみに山門二階楼上には「秘仏・宝冠釈迦如来
像」、「秘仏十六羅漢像」が安置されているそうですが、非公開だそうです。


五重塔:山門左手に立つ五重塔は総ケヤキ造り銅板葺きの屋根の塔高38mの大きな塔で、各層に「擬宝珠高欄」の縁をめぐらす塔です。塔の「相輪」は「水煙」が面白い形をしています。建立は新しく明治26年(1893年)だそうで、建立の趣旨が「魚鱗一切之供養塔」(ぎょりんいっさいのくようとう)として、海の生き物たちの供養塔として漁師はじめ海に関わる人々の願いと祈りを受けて建立されたそうです。この塔は日光東照宮と同じで、心柱を吊り下げることで塔本体が年月を経て沈み込んだ時に心柱が最上階に持ち上がってしまうことを防ぐとともに、地震の際には地面からの振動を吸収する効果を持っているものです。拝観は初層のみ可能で、内陣は「四天柱」があり各方向に「五智如来」が祀られています。各台座下には塔由来の海・波形の彫物があり、正面・北方・釈迦如来坐像、東方・阿如来坐像、西方・阿弥陀如来坐像、南方・宝勝如来坐像、そして中央の「心柱円柱」が大日如来像ということです。各像は大きな青色の枠取り彩色をした蓮華座に座し、全身金色で頭部は青色で彩色されています。各像共に頂部が大きく前方に湾曲した大きな渦巻き状の文様を刻んだ船形光背を背負う姿です。最近の彩色や修復のようです。心柱から天井までが金色で、荘厳は無いものの煌びやかでした。どういうわけか北方の天井欄干に「雲中供養仏」様の極彩色の雲乗の天女像が1体のみ懸けられていました。始めから1体だけだったのでしょうか?四面のうち3面の扉が開いているので、塔内内部ははっきりと拝観出来ました。正面唐戸扉の彫物は「玄奘三蔵」と「深沙大将」の姿が彫られていました。また初層欄干には4面にわたって1面に3体ずつの十二支が彫られています。しかし、この寺の由来からでしょうか辰像だけは龍の姿では彫られていませんでした。そこにはまた鯉の姿や波の砕け散る様子が彫られています。


「本堂」:石段を上がると「本堂」、「感應殿」を正面に、左手に「慈照殿」、「僧堂」、「鐘楼」が囲む広場になります。感應殿と慈照殿の間の間道を潜っていくと、奇抜な権現造りといわれる銅板葺きの屋根の「龍王殿」の建つ石段の下に行き着く。龍王殿は本堂の裏手から階段廊下でつながっている構造になっているようでした。靴を脱ぎ本堂内の廊下を進むと、幾つもの仏間が並び、中央に厨子の安置された大きな仏間が設えられている。ここで寺僧10名による祈祷を行なってくれるということです。途中の仏間には「邪紋石」と「八大龍王像」が安置されています。八大龍王法華経に登場する仏の教えを守護する八体の龍の眷属だそうです。そのうち善寶寺の龍王尊は「娑伽羅龍王像」だそうで、その像とされるものが安置されているのです。娑伽羅龍王とは大海の意で竜宮城の王で水を護る龍神とされるそうです。また本堂奥には「銅造聖観世音菩薩像」がガラスケースに入って展示されています。台座後ろに「應永253日 奉納羽黒山東元坊」の刻銘があり、室町時代に奉納されたものです。明治の廃仏毀釈の折に羽黒山から善寶寺に遷された可能性があるそうです。この像は新潟・関山神社蔵の銅仏のような姿で、像高3040㎝くらいでガラス扉の反射で撮影が難しく思うような画像が撮れませんでした。


鶴岡市内には小説家「藤沢周平の記念館があったり各地で、彼の「庄内・海坂藩」についての作品に由来する看板が立ってたりしていますが、この善寶寺にもいくつかの看板を眼にします。「藤沢周平 その作品とゆかりの地」という表題で作品の紹介をしているのです。善寶寺境内では「龍を見た男」(新潮文庫刊)の一節が看板になっています。お寺の近くにある「貝喰みの池」(かいばみのいけ)が出てくる短編作品で、その池はお寺からほんの10分程度だそうで、周囲にはうっそうとした木々に囲まれて森閑とした景色が、いかにも龍が出そうな景色だそうです。以前には「人面魚」ということで池の鯉の頭の様子から話題になったことがあります板が、お寺での龍神=辰を彫り物にせず鯉をかわりにすることにもつながる話題なのかもしれません。本堂内には「善寶寺物語」という作品の原稿用紙が数枚ガラスケースに展示されていたりします。


龍王殿」:階段廊下を進んだ先に堂内の内陣が展開されます。龍王殿は外観は権現造りの「亀甲葺き」と称する八棟造り形式の銅板葺きの大きな屋根は海の波型「うねり」を型取り、軒組には波に鯉、鯱、雲や草花で彫物が造られ、荘厳な建築美をしています。建物は室町時代後半の文安3年(1443年)に守護神の龍神を祀るために建立され、天保4年(1833年)に再建されたという荘厳な建物です。龍の棲む竜宮城を模したような感じで、そこかしこに龍の彫像が設えられていて、建物全体が龍王という感じです。堂内には中央菊の紋章の奥に「有栖川宮家御霊牌所」や、堂内左手のの須弥壇状の檀の幕の奥に仏具類が周囲に置かれており、厨子入りの秘仏である「龍道大龍王像」と「戒道大龍女像」の二龍神が祀られているというのですが、なかなかよく拝することが出来ませんでした。本堂で拝した龍王像のような姿だと拝したのだが、お寺にはパンフレットも関連の冊子資料もなく、よく判らないことばかりです。消化不良で龍王殿を辞して来ました。


「五百羅漢堂」(清浄殿):総門と山門の間に建つこの堂は、外観上は派手な組み物や彫物なども無いおとなしい地味な建物のようです。それでも四方の庇下から支柱を建てた姿が畿内にあるような荘厳な様相です。寺僧によると、この堂は安政2年(1855年)に松前藩を拠点に漁業と北前船で財を成した商人たちが、漁業の安全を願って寄進によって建てられたという総ヒノキ造りの建物だということです。江戸時代の北前船による航路の繁栄を偲ばせる貴重な遺産になっています。とにかく堂の正面扉から堂内に入った瞬間に眼を見張ってしまいます。堂内全てに羅漢像が祀られていて、足の踏み場もないくらいです。入口にいた女性職員はこの光景を一日中、毎日囲まれて過ごしているというのです。職員の話しでは、当時財力にまかせて堂内の仏さまはすべて木造で531体あり、京都の仏師に制作を依頼したとの記録があるそうです。荘厳な圧巻的なそれでいて異様な雰囲気を醸す堂内です。壇上だけでなく天井直下まで四周すべてが仏さまで埋め尽くされています。それもほとんどの像が綺麗な彩色に包まれており、お寺では珍しい極彩色の景色です。各像の大きさがハッキリしませんが、見た目には坐像は7080㎝くらい、立像は90100㎝くらい、四天王像は120㎝くらいかと思いますが、確信は持てません。正面壇上に「釈迦三尊坐像」、その前に「十大弟子像」、左右の柱の上部には緑青色の「風神像」、赤色の「雷神像」が懸けられています。三尊像は大きく前に湾曲した船形光背を背負い、釈迦像の光背頂上部には大きな宝塔が付くものです。向かって右手の「文殊菩薩坐像」は緑色の獅子像に乗る姿、左手の「普賢菩薩坐像」は白い象に乗る姿をしています。十大弟子像は三尊像の前に上下2段に分かれて立ち、各々像に円光を背負う姿になっています。十大弟子像の中央右手には「大迦葉立像」は顔部から半身まで金色で塗られ、左手の「阿難立像」は緑色の袈裟を纏っていて他の弟子像と共に綺麗な姿をしています。それだけでも立派な仏さまの世界を現していますが、堂内の左右に大きな檀を設けて極彩色「四天王像」や、左右の檀奥の階段状の檀にもやはり羅漢像が並びます。天井すぐまで梁に載せた板の上に多くの羅漢像が並び四周を巡らします。各像共に全く違った姿勢や相貌、着衣の様子、文様、色彩もまちまちで、それなりに肩や頭や膝などの部分にうっすらと埃が積もっていたりして、キラキラな姿ばかりでないのがよく、見飽きないものです。特に近くで拝することが出来る最前列の像は、着衣の文様や彩色が、盛り上げ塗装が施されていたりで、しっかり拝観するにはかなりの時間を要するものになります。左右の檀上の像の多くは堂内を巡る通路が往来出来ないために観ることが出来ないようになっていますが、照明のおかげで少しは垣間見えるようです。現在は「東北芸術工科大学」の協力によって、五百羅漢像の修復が進められています。531体の羅漢像の保存修復作業(現状維持修復)を約20年をかけて実施するそうです。まだ、現在は最初の年で14体のみが修復完了したばかりです。
何度も同じ像を観て廻っていて、五百羅漢堂に入ってから2時間近く経ってしまい、五重塔に叢林の陽の影が懸かり、黒いシルエットになってしまいました。寺僧にパンフレットや資料などの印刷物は無いのか?と伺ったが、あるのは御朱印帳とお守り、祈祷書くらいで、私が期待するものは見当たりません。別に図書館や教育委員会などを当たるしかないそうです。「善寶寺」バス停の前にある朽ちたままに放置されている「善寶寺駅」の駅舎と崩壊寸前の電車の錆びた様子が気味が悪いような感じです。鶴岡駅から「湯野浜温泉」へ通じていた昭和初期の「庄内電気鉄道」の駅舎の廃屋が見えています。一時は跡地を駅舎と「モハ3形」という電車を記念館として利用、集客で賑わったそうですが、現在では雑草に覆われて立ち入り禁止の看板があり、記念館としての役目も終わっています。バス停から午後530分のバスに乗り、午後6時過ぎに鶴岡駅に到着です。
 
大津市歴史博物館講演会:
②H301117日(土)1400~ 大津市歴史博物館・講堂
「仏師の実像―すがた・いのり・くらしー」 杉﨑貴英・帝塚山大学准教授
*午前9時前に「園城寺」境内を散策していたら、唐院付近の路で時代がかったトラック(昭和初期を思わせるカーキー色のボンネットタイプの)を走らせるシーンを撮影している映画ロケ現場に遭遇しました。何か近現代の時代設定の物語のようですが配役が居るのか居ないのか不明で、近くの男性に聞くと、配役として「要潤」という男優が主役だそうですがよく判らず、お寺のお坊さんから聞いた話しでも詳細は不明です。私には男優の名前だけではどのような人か分かりませんが、皆さん方はよくご存じの方が多いと思います。そこを過ぎたらすぐ今度は「金堂」前の広場では、折りたたみいすを並べてその前に大きなステージを設営し、大きなスピーカをいくつも設置して大音量でテスト調整をしている光景が眼に入ってきました。イベントの準備作業でした。ポスターには「三井の晩鐘・紅葉青空コンサート」(11/1718 11301600 無料)表示があり、2日間共に多くのゲストが出演するようで、写真入りで紹介されていましたが、私の頭に残るような名前のゲストやグループはありませんでした。もう少ししたらコンサートが始まり、境内中に騒々しい音楽が鳴り響くのかと思うとゾッとして身震いがしました。まだこの時間に立寄ったことが幸いだったと思いました。大きなお寺では最近、こうしたコラボが多くあるように感じます。時節のお寺での行事に合わせるようにこうしたイベントも行われるようです。勿論足早に園城寺境内を辞しました。
園城寺の寺僧にも職員にも伺った園城寺北院「法明院」への道順では、大津歴博裏手の「東海自然歩道」への山道を辿ることが近道であることを確かめましたが、大津歴博の建物の裏手にある駐車場の横手の東海自然歩道のネットフェンス入口には鉄条網が張られ、崩壊危険の看板が掛けられ閉鎖されていました。代わりに市役所前を通って入る道順が案内されていました。また機会を見て北院・法明院へは出掛けてみたいと思います。来年の「法明院」展も期待したいと思います。寺島学芸員の言では仏画、美術工芸品、経巻などの寺宝が中心で彫像はまず出展は無い(場合によったら神像くらいか)とのことです。
1110日の講演会にもお会いした覚えのある方とお互い挨拶をし、歴博ロビーで開講時間を待ちました。講演会は寺島典人学芸員の司会役で、杉﨑貴英准教授の講演が始まりました。はじめてお会いし聴講した杉﨑先生でしたが、私の抱いていたイメージとちょっと違っていつもニコニコ笑顔、でもしっかりと威厳ある風貌で何か奈良博・岩田茂樹研究員に似通ったイメージ(髭は無いけれど)で、軽妙な話しぶりで優しい感じです。講義内容では今までに検分した事のある事柄だけでなく、特に文学作品などからの引用では知らなかったことも多くあり、興味深く拝聴することが出来ました。『平安から鎌倉時代にかけて、たくさんの木彫仏が生み出されました。それらを造った仏師は、どんな姿をしていたのでしょう?彼ら自身の信仰を伺い知る事は出来るでしょうか?働く様子や仕事の報酬、家族や住まいはどうでしょう?仏師の姿・信仰・生活を探ります』というのが、講演の趣旨でした。
レジュメ:
○「更級日記菅原孝標女):
  1. 王朝女性のまなざしに映った大津の仏像
  2. 王朝女性の夢に映った仏師のイメージ
仏師のすがた:
1.仏師の肖像(六波羅蜜寺
はたらく仏師の姿―文献にみる:
1.中世の手工業社のはたらく姿(「春日権現験記絵巻」、「松崎天神縁起絵巻」、「長谷寺縁起絵巻」)
2.文献にみるはたらく仏師の姿(『中外抄』、「とはずがたり」、「養和元年記」)
はたらく仏師の姿―絵画にみる:
1.仏師定朝の造仏(「壬生地蔵縁起絵巻」)
2.仏師運慶の造仏(「頬焼阿弥陀縁起絵巻」)
3.名の知れない仏師の造仏(「矢田地蔵縁起絵」、「矢田地蔵縁起絵巻」)
中世仏師の名乗り方:
1.僧綱位を持つ、持たないほか
仏師のくらし:
1.「古今著聞集」巻16、「建春門院中納言日記」(たまきはる)、「長秋記」、「台記別記」、「山槐記」、「星光寺縁起絵巻」
2.運慶の住まいと所領(「如意譲状」ほか)
3.仏師の家族と童名(「運慶願経」ほか)
仏師のいのり:
  1. 説話に物語られた仏師とその家族、信仰(「大日本國法華経験記」、「今昔物語集」)
  2. 中世仏師の信仰、造像銘記が物語る仏師個人の信仰(雲辺寺千手観音坐像銘記、法華経8巻)
  3. 中世仏師の信仰、仏師集団の一門・家の統率と父祖供養に関わる信仰(安阿弥陀仏名号、法然教団)
4.仏師の人がら(「長谷寺再興縁起」)
公演後には一週間前のように、寺島学芸員と杉﨑准教授のお二人にお話しを伺いました。講演会聴講の方々が退室されたがらんとした講堂内に私たちだけでの立ち話しです。それも岩田研究員と杉﨑学 芸員と寺島学芸員3人の関係も浅からぬ縁があることも教えていただきました。寺島准教授からは山本勉教授への「ニュースの話し」は、ご自分から直接お伝えされたそうで他にも既に数人の研究者の方々に伝えられているそうです。
杉﨑先生からは、「仏像と日本人」誌のことで覚醒の感があったとの評価をされていることを聞き、話しが盛り上がりました。ご自分も「制作者の組織論」のような論文も著わして、特に「藤末鎌初時代の南山城地域」、「白山・立山信仰」への関心の深さを述べておられました。「僧綱」についても両先生によりお話しが出ました。また奈良のことでは「會津八一」や「日吉館」のことについてもお話しがあり、思わず話しが弾みました。杉﨑先生は「西山厚教授」とは学科が違うそうですが、同じような領域の指導者として多くのことを教授していただいているそうです。寺島先生と杉﨑先生とは、仏教信仰と日本美術研究・鑑賞の屈折点が「岡倉天心」にあり、また「フェノロサ」にあることを痛感していらっしゃるそうで、園城寺法明院のフェノロサの墓がある事にも触れて、ここ大津・園城寺が縁深く感じる場所であることを強調されていました。また個別には私の好みの京都・木津川の「現光寺・十一面観音菩薩坐像」と「四天王像」についての杉﨑准教授の論文(海住山寺サイト)への寄稿以外に調査報告状況について伺いましたが、その後には新たな研究発表は無く、これから再度分析改訂していきたい、旨のコメントがありました。また金沢文庫の瀬谷貴之研究員とも毎年交流があり、情報交換しているそうです。30分間の3人での立ち話でした。
 
20181129日 AM0:30  Tak



★ 孤思庵の都合で・・・、この投稿の ブログ掲載が 大変に遅れました。 申し訳有りませんでした。