孤思庵の仏像ブログ

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【11/18 文末に追記】 11月3日定例会議事録

海蔵寺菩薩像の記事 の 訂正  11月22日 追記

11/13投稿の「【11/18 文末に追記】 113日定例会議事録」冒頭部分<< 午前
の鑑賞会 >>海蔵寺菩薩像の記事の最後のところで (Mさんより)の2箇所に
ついて、私の発言と多少異なる部分や間違って記載された部分について、より正
確な内容にするため、以下のように訂正をとの連絡を頂きましたので 、広報のため、の件掲載します。
 
 
……………………………………………………………………………………………
 
(Mさんより。筒状の冠を本体と共木の一材から彫っている像は9世紀末頃から見られ、東博
出ている大阪・観心寺聖観音がその頃の代表作である。滋賀県満月寺浮見堂本尊聖観音
10世紀前半頃、大津の九品寺聖観音10世紀から11世紀(滋賀県善水寺梵天帝釈天
九品寺像と同系統の像で990年頃の作)。海蔵寺菩薩像と近い頃の基準作としては滋賀県守山
市真光寺菩薩像が10291038年の像内銘、奈良県融念寺聖観音1069年の板光背裏の
銘を持つ。海蔵寺の菩薩像は真光寺の菩薩像とほぼ同じ11世紀前半頃の作か(但し真光寺像
は筒状冠ではない)。なお、山本先生によれば「一材の筒状冠を持つ像」は完全な都作というよりも、その周辺の滋賀、大阪、奈良などのやや地方的な像に多いとのこと。

(Mさんより。東京23区内に現存する平安時代の仏像で最も古いと推定されるのは豊島区勝林
寺の小さな薬師如来坐像9月に金沢文庫で展示)。次は上野寛永寺の本尊薬師如来立像で滋
賀県石津寺伝来の10世紀の像(秘仏)。この海蔵寺の像は3番目と思われる。)

                    113定例会議事録

 
                      << 午前の鑑賞会 >> 

 11月3日は、東京文化財ウイーク・品川区海蔵寺「菩薩像」の公開日でした。当日限定でしたのでメンバーは三々五々海蔵寺に集合(午前中定例の東博見学は休会となりました)。山本勉氏の解説付きで、氏作成のパンフレットも配布され楽しい体験となりました。海蔵寺は現在「時宗」のお寺で、江戸時代、品川にあった溜牢(牢屋)で亡くなった人々の遺骨を集め、宝永五年(1708)に築かれた塚があります。


 
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山本勉氏の解説とパンフレットより
海蔵寺には昭和の初めに寄進。座高66.3㎝。頭(冠を含む)と体の中心部分をカヤの一材から彫りだした一木造です。ただし両耳と耳の上で渦巻きになっている髪の毛矢印右肩にかかるまでの垂髪、左の袖口と手首先、右手肘から先、両脚部は後補。表面にも黒褐色の塗料があとから塗られています。
(ですから本来は漆箔か彩色かはたまた檀像だったのかわかりません。後補脚部の翻波式衣文もいささか強調されており、美術史に通暁した古美術商が“古くて良いもの”に仕立てた印象があります)。
 冠を含む一木造は京都周辺地域で平安時代1011世紀に多く見られたもの。顔だちや衣のひだの形状などは10世紀末~11世紀前半の滋賀・京都の作例と共通するので、この仏像の制作年代は11世紀前半を中心に考えてよいでしょう。
 髪を結い上げ冠をいただき、右腕に腕飾りをつけているところは菩薩像ですが、偏袒右肩の衣は如来像の着け方。当初の手の形がわからないこともあり、この仏像が菩薩像なのか、如来像なのかを含め今は決めることができません。密教が伝えながらその後の日本では定着しなかった特別な仏像の姿を伝えているのかもしれません。
★山本氏の「後ろから見ると、お尻のラインがとってもまろやかで、豊かでいいですよ」という言葉が印象的でした。
(Mさんより。冠を含む一木造の類例としては大阪・観心寺聖観音があげられる。滋賀県琵琶湖の浮見堂本尊、滋賀県大津の九品寺の像、滋賀県善水寺木造梵天帝釈天なども作例として近いので、一つの系統をなしているのかもしれない)
(Mさんより。関東地方に現存する仏像で最も古いと推定されるのは豊島区勝林寺の小さな薬師如来。次は上野寛永寺の本尊で滋賀からきた10世紀の仏像《秘仏薬師如来重要文化財。寺の縁起では最澄作》。この海蔵寺の像は3番目ではないか?)

clip_image004     観心寺 聖観音 9世紀末から10世紀ごろ







                 << 午後の勉強会 >>

★Kさんより、岐阜・名古屋の拝観報告
①岐阜大仏 黄檗宗金鳳山正法寺
岐阜城の近く。通称は籠~かご~大仏(ウイキペディアによれば釈迦如来) つまり「はりぼて」です。竹で籠のように体全体を作り、粘度を塗りその上にお経を書いた紙を巻いて漆を塗って、最後は金箔を貼るという作りの大仏。鎌倉の大仏に近い大きさ。高さ13.7m お堂にいっぱいの迫力。大仏の中に入って目の部分から下をみることができます。
江戸時代1791年発願で、熱心なお和尚がお金をかけずにコツコツと計画をすすめ、次の和尚が引き継いで1832年に完成。胎内仏としてお腹のあたりに薬師如来坐像が安置。
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②名古屋 栄国寺(浄土宗) 
名古屋市内。尾張徳川家2代目光友のゆかりの寺(初代は義直)で、お寺の造作が派手。
本尊は丈六の阿弥陀如来坐像。戦時中の空襲でも焼けなかったことから、火伏の阿弥陀として有名(前に安置されていたお寺でも火事で焼けずに残っていたという逸話が)。鎌倉時代の仏工・春日の作と伝えられます。県指定の文化財。丈六の阿弥陀名古屋市内に3ヵ所。名古屋3大丈六仏の一つです。 
このお寺には他にもいろいろな仏像があり、涅槃像、五臓阿弥陀(江戸時代の作。内臓だけでなく骨組みも作られている)、清凉寺式の阿弥陀如来鎌倉時代)、馬頭観音、千手観音、如意輪観音善光寺式三尊像(鎌倉以降に急激に模刻が増えている)、弘法大師が彫ったという弁天様、苦行仏、お地蔵さま、 弘法大師が子供の頃の姿を現した像などてんこ盛りです。
(ちなみに苦行仏は、東京では護国寺でみることができます)
 
③ 名古屋 七つ寺 (長福寺)
徳川家以前、信長や秀吉時代の尾張の中心地は清州。当時は長福寺を中心に門前町として栄えていました。家康が清州を捨て、名古屋を中心にする方針たて、それらのお寺を移築。長福寺は七堂伽藍を備えた立派なお寺だったので、別名「七つ寺」と呼ばれるように。
1945319日の空襲で本堂(旧国宝)と本尊の丈六の阿弥陀如来像は焼失、かろうじて観音菩薩像・勢至菩薩像の本体と勢至菩薩像の光背のみが搬出されて焼失をまぬがれ、これが本尊に。この時の空襲では本堂内にあった木造持国天毘沙門天像(旧国宝)も焼失しました。
勢至は向かって右側に 観音は左 普通と逆の並びです。持仏は持っていません。
 
④ 観音の里の一部 大平観音堂円空仏 (一体のみ)
  ちょっと微笑んでいる十一面観音像。大きさは人の背丈ほど。説明によればこの地は伊吹山麓の山岳信仰で修業したお坊さんがふもとに住む地域。円空もその一人だと思われます。 
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⑤ 華厳寺 (西国三十三カ所の結願所)
本堂本尊の十一面観音立像は、厳重な秘仏で、写真も公表されておらず、制作年代、構造等の詳細は不明。紅葉の名所としても有名。山門に仁王様が並び、閻魔堂に12体が(多くは十王)。阿弥陀堂には阿弥陀三尊と周りに菩薩がずらり。それとは別に阿弥陀三尊があり、ここも観音勢至の並びが逆でした。魚籃観音は鯉の上に乗ってるお姿。十一面観音は頂上仏が万歳していることで有名(清水式とは違う万歳スタイル)。
“見ざる聞かざる言わざる”の、猿ならぬ「三狸」も。
本堂本尊の裏には観音様と四天王、愛染明王の像が。この観音は持経観音(左手にお経を持つ、三十三観音の一つ)
 
⑥ 横蔵寺 天台宗
仏像の写真は取れませんでした。多数の文化財を有し美濃の正倉院と呼ばれることも。ミイラが有名でお堂に祀られています。三重塔や宝物館あり。本尊は薬師さん。延暦寺が作られたとき最澄が2体の仏像を彫ったが、織田信長の焼き討ちで延暦寺の薬師さんは燃えてしまいました。そこで、横蔵寺の薬師さんを延暦寺に移設。横蔵寺では胎内仏の薬師さんを残して本尊として祀っています。秘仏で60年に1回の御開帳。厨子の両側に深沙大将(じんじゃだいしょう)と大日如来が並び、十二神将もずらり。金剛力士像は肥後定慶作。大日如来筑前講師作 1183年に三重塔の本尊として作られたと銘文が。(孤思ブログ2014年4月20日にこの大日如来に関する記載があります)
clip_image012  横倉寺の深沙大将参考写真
 
⑦ 東京都文化財ウイークで印象に残ったもの
◎木造如意輪観音 足立区梅田 明王院  
像胎内に「願主直空 作者法眼院秀 応安二年大呂十七日」の銘があり、室町時代の彫刻としては作者や製作年代が明らかな点で貴重。いわゆる院派の仏師の作風がよく伝わっており、当初は6本の腕があったと推測されるが、現在腕は2本のみが残っています。
髻は後補。絵葉書は冠なし。展示は髻が付いている状態。一時期は冠を被っていたことも。お不動さんもあるが、御開帳な別の時期でした。
 
◎妙定院  芝増上寺別院 
徳川家重と家治の位牌を安置する。土蔵が2つあり毎年交互に公開。本尊は阿弥陀三尊 裳かけの阿弥陀で快慶作。ガラス越しに拝観することができます。丸山応挙の釈迦出山図? も公開されました。
 
⑧ ガンダーラ 仏教文化の姿と形(松戸市立博物館 11月25日間まで) 
レリーフが特に素晴らしい。内容は添付された物語の説明を読まないと理解ができません。
(仏伝=釈迦誕生後の話と、本生譚=ジャータカ、前世の話の主な話は知っておくとよいでしょう)
※松戸で有名なのは「仁王さまの股くぐり」。法王山萬満寺の祭礼に行われる行事。境内の中門に安置されてる金剛力士像の阿像の股の間を子供がくぐり抜け健康を祈願するもの。春季と秋季の大祭と、正月三ヶ日には仁王門が開帳される際行われます。中気予防になるとも。国の重要文化財に指定されており、運慶作という説もあります。
 
⑨ 山梨 大善寺 御開帳へ。
葡萄をもった薬師さんを拝観しました。奈良時代の仏像で最初から葡萄を。 仏教の教えに関係があり、葡萄はインドでは大地の豊穣の象徴。千手観音の持仏にも葡萄があります。
 
  ちなみに千手観音の持物に「髑髏」があるが、その意味を誰か調べてください。
 
Sai Saiさんより 東博東洋舘「斉白石」展
18641957年 画家、書家、篆刻家。日本なら横山大観、欧州ならロートレックと同時代。
    なぜ中国で有名なのか
近代中国の絵画だが油絵ではない。日本で言えば文人画に近い画風。日常生活の中にある平穏と、面白みを含んだシャイな作品が多い。きちんとした絵も描ける人で人物画を書いていた時代も。若い時は指物師もしていたとのこと。「中国のピカソ」と呼ばれてる。
     ビックリ! オークション 中国市場で○○億円
2011年春、篆刻書が54億円で落札され、ピカソの値段を追い抜いた。彼の作品はすべて億単位。
2017年には山水画12幅で158億円超え。以来、日本の骨董品市場で中国のコレクターが探して回っている。日本は偽物がなく、いいものがある。それに伴い清朝の時代の古書などもバカ売れ。(中国は偽物だらけなので騙されることが多い)
斉白石は1922年に日本で「日中共同絵画展」に出品されて、当時もよく売れた。
※ちなみに今年は手塚治虫生誕90年。ちょっとした色紙の絵カラーでも20万円(たとえば鉄腕アトム火の鳥の肉筆)
③ 日本の007(諜報機関)と斉白石
京都国立博物館になぜ斉白石がたくさんあるのか? コレクションの寄贈をうけたから。元の所有者は
戦後に代議士になる須磨弥吉郎(18921970)。戦前は外交官。A級戦犯容疑者。改進党や日本民主党 などから立候補し衆議院議員
外交官時代、イギリス、ドイツをへて中国に。1932年、在上海日本公使館情報部長となり、対蒋介石政権の情報収集に努める。その後、南京総領事に転じる。その間、絵画コレクション1万点。明から清に変わった時代の文人画、近代の一流画家を集めた。
次いでスペイン特命全権公使として赴任。日独伊三国同盟の時代。スペインはフランコ将軍の頃。ヒトラー派という立場ではあるが内戦で苦労したので戦意はなく第2次世界大戦参戦していない。ここで須磨は諜報活動のため東機関を設立。アメリカの艦隊の動きやイギリスの国情を探る。スペイン絵画も2000点収集。これは長崎市に寄付。
 
斉白石は現在、中国で一番売れる絵画。
ちなみに日本にある中国絵画で注目したいのは、泉屋博古舘の八大山人(16261705)。
ウイキペディアより。朱統𨨗(しゅ とうかん)、幼名または通称は朱耷(しゅ とう、耷は明代に驢馬の意味で使われた)。号は雪个(せきこう)。明王朝の一族 清の時代の辮髪を嫌って禅門に入る。のちに還俗後書画三昧。花卉雑画特に鳥、魚 蔬果の独特の画風を確立、新たな水墨表現を切り拓いた。重要文化財。この影響を受けた画家は多く斉白石もその一人とされる。
 
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南都焼討──平家の業火が生む、憎しみと復讐。著者渾身の歴史小説
高貴な生まれながら、興福寺の僧兵に身を置く、範長。
興福寺を守る使命を背負う範長の従兄弟、信円。
そして、南都焼討からの復興に奔走する仏師、運慶。
時は、平家が繁栄を極める平安末期。高貴な出自でありながら、悪僧(僧兵)として南都興福寺に身を置く範長は、都からやってくるという国検非違使別当らに危惧をいだいていた。検非違使が来るということは、興福寺がある南都をも、平家が支配するという目論みだからだ。検非違使の南都入りを阻止するため、仲間の僧兵たちとともに、般若坂へ向かう範長。だが、検非違使らとの小競り合いが思わぬ乱戦となってしまった。激しい戦いの最中、検非違使別当を殺めた範長は、己の犯した罪の大きさをまだ知らなかった──平家が南都を火の海にし、人々を憎しみの連鎖に巻き込もうとすることを。
 
※ 孤思庵より
会として奈良、京都へ年に1度は定例的に出かける計画を進めたい。
仏像は見るたびに違う。それは自分が変わっているからだと思う。観る自分が変わってきている。誰でも最初に仏像に興味を持った最初のころと、今は変わってきたはず。私は、最初は天平仏から。わかりやすいのは鎌倉仏。次は平安初期の弘仁貞観期。醍醐寺薬師寺。一方、私に影響を与えた人は定朝様式の藤原仏が至高だという意見。言われてみれば一番難しいが、そこに本質があるのかもしれないと思えるようになってきた。
会の一人ひとりにも「仏像のここが好き」「こんな変遷が」といった声を聞きたいと思っている。
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