孤思庵の仏像ブログ

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10/14 Takさんの投稿 ワーナービショップ・写真展のカタログと「仏像と日本人」

Takさんの投稿10/14   ワーナービショップ・写真展のカタログと「仏像と日本人」

予定していた1013日(土)の三井記念美術館・土曜講座「仏像の姿(かたち)・装飾にみる仏像の姿(かたち)(海老澤るりは学芸員)」は、急遽葬儀のため聴講出来なくなってしまいました。弧思庵さんが聴講されるとの広報を見て、機会があればお話しを伺える、いやまた広報があるのではないか、と期待しています。私はとりあえず、美術館宛てに前回と同様にレジュメの郵送をお願いし了承いただきましたので、前回同様に数日後にはレジュメに眼を通すことが出来るものと思っています。それで何とか様子を知ることが出来るものと思います。
 
私事ですが、13日の都内での葬儀は私の母方の叔母(私の母親は6人姉妹長女・叔母は四女で90歳になる)で、火葬と告別式をセットで行なう姉妹親族だけのもので、昼前から始まり午後半ばには終了しました。昨年も叔母(次女)の葬儀が同じ場所だったので、気楽に出掛けられました。なぜ同じ斎場で2姉妹の葬儀が行われたのか?それは2姉妹のお互いの配偶者も兄弟だったからで、同じ家族のように親しくしてきたからです。各々の配偶者である兄弟は既に亡く、この2年間で姉妹も相次いで亡くなったことになります。真新しい火葬場設備と住宅地内の通りを挟んだ眼の前が式場で、50mもない距離で霊柩車不要と思うほどなのに形だけの霊柩車送りで、参列者はゆっくり歩いて1分で火葬場という立地です。どちらが先に火葬場に到着するか?という感じです。奈良からの帰宅直後ではありましたが、叔母が私の母親の妹でもあり、6姉妹の子供の代では私が最年長になる関係もあり、13日(土)の午前9時過ぎには出掛けました。
12日の夜に帰宅して、すぐに叔母の関係した私が持っているいくつかの写真と資料を探しました。私が家族からひとり離れて、中学3年生の夏から新宿の中学校に通学する際に「居候」した浦和の母方の実家(既に裁判官・検事正公邸から自宅へ引っ越ししていた)では、祖母と四女以下の姉妹の世話になって過ごした経験もありました。毎年正月には、姉妹夫婦が子供連れで実家の母親・祖母のもとに集まるのが恒例でにぎやかに過ごしたこともありました。また叔母がニューヨーク不在時は別として、私が学生時代には神戸・六甲に居住中で、私が播磨・浄土寺ほかへ出かけた際の宿として世話になったこともありました。姉妹の家族写真などはともかく、これだけはというものを見つけました。その資料を持参しようかと思いましたが、当の本人でのことですから既に遺品にあると思い、持参せずに出かけました。
 
捜したものは「ワーナー・ビショップ・写真展・JAPAN・新しい日本と永遠なるもの 195152年」(昭和館特別企画展 開館10周年記念・H21年(2009年)2月〜4月開催)という写真展カタログです。
写真展当時のブログ(1): 
写真展当時のブログ(2):
写真展当時のブログ(3):
ビショップはスイス人のプロカメラマンで、ロバート・キャパとも深い親交があり、世界中で忌まわしい世界大戦の爪痕を記録するために写真家として活動し、人間の絶望と貧しさ、そして人々の持つ力強さ、意思の強さを求めて多くの人々に接して写真を遺しました。彼は1951年〜52年にかけて1年近く日本に滞在して日本各地で撮影活動をし、帰国後には日本展をチューリッヒで開催したりして、1954年に事故で急逝しています。私がキャパと並んで写真家として知る数少ない写真家です(日本人の山岳写真家は別として)。H21年春、55年後に日本で開催された写真展に、私も亡き妻と共に九段下の写真展会場へ出かけた思い出があります。その時の写真展のカタログです。カタログは、すべてモノクロ写真で、「占領下の日本」、「ヒロシマ」、「ジェネレーションX」、「永遠なるもの日本」と分節がされ、「占領下の日本」では靴磨きの少年、ミカン箱を机に勉強する子供たち、バラックの立ち並ぶ荒れ地で紙芝居を見る子供たち、ゴザ敷きのバラックの部屋内の生活、電信柱に寄り掛かってギターを奏でる傷痍軍人、米兵たちの中にいる小さな花売り娘の姿など、戦後の東京都心での人々の生活の混乱と苦悩ぶり。「ヒロシマ」も、戦後の被爆地や人々の生活の表情や天皇行幸時の子供の姿などの画像。「永遠なるもの日本」では、京都・龍安寺ののどかな和服姿の拝観客、復興の中での友禅流しの街中、珍しい東大寺・南大門のアングル、古びた自転車と子供たちに囲まれた1頭の奈良の鹿の姿、雪降るなか番傘を差して歩く神職の姿など。
「ジェネレーションX」では、2人の若い男女をモデルとしています。京都大学の男子学生「ゴロー」(仮名)は、貧しい学生生活の中で学内での友人と火鉢やダルマストーブを囲んでの議論や、古くからの因習に縛られない新しい活動、看板書きなどの大学内での活動、新しい出発を模索する姿を捉えています。すべての彼の写真が学生服姿で映っているのも時代を感じさせます。
そしてもう一人の女性のモデル「ミチコ」は、ビショップによると『イイヌマ・ミチコは東京の裁判官の娘さんである。彼女は、伝統的な教育と、戦後日本の社会経験のどちらも受けているので、ちょうど中間段階にいると言えるだろう』とある。私が補足すると、終戦までは古い家族社会の中で育ち、両親も横浜の山手の豊かな生糸商・貿易商の娘として何ひとつ不自由のない家で育った母親と、奄美から無一文で出てきて丁稚として苦学、書生として東大生となり裁判官(検事正)となった父親とで、彼女は6人姉妹の4女として戦前の初等教育を受け、疎開などを経験しながら両親・姉妹と共に終戦を迎えたのでした。その後の青春生活の1断面を、ビショップは被写体として、旧弊に埋もれない新しい世界を開く女性として、そして写真展の中では「最も外国、アメリカの影響を受けた日本人」として取り上げていますが、実はビショップ彼自身が、本当のところは彼女は自由奔放になってはいない、日本の心を失くしてはいないと感じてシャッターを切っていたというのです。私も居候で生活して今でも記憶に残る浦和の古い大きな家屋、他にも古く大きな台所や居間での両親・家族との食事風景、手回し式の電話機に向かう笑顔の和服姿、学校でのデッサンの授業風景、友人と電車を待つ神田駅のスナップ、銀座の通りを歩く姿や自動車の往来を待つ姿、友人とのデパートでの買い物姿などなど、叔母の結婚前の日常生活を捉えながら、あまり接写せずに一歩引いた距離を置いたカメラの立ち位置によるスナップが並びます。彼女はその後服飾学校の雑誌などでモデルとして広報活動をしたり、女性雑誌やファッション雑誌などにも洋服の写真モデルとして出たりしています。遺族たちは、そうした往時の記録の品々を大切に持って叔母を懐かしんでいました。
 
斎場から帰って来て、一息ついて写真展アルバムのすべての写真をまじまじと眺めていて、被写体になった人物の瞬間瞬間に表した表情、姿には、各々の魂・心が必ずあるのだと感じました。当然生きている限りは人それぞれの心があり、それが表情に現れてくるのだと思えて来ます。彼はやはりプロカメラマンでそうした瞬間を捉えて、皆に訴えているのでしょう。
それでは、「仏像と日本人」で引き合いに出された写真家である小川一真、小川晴暢、土門拳入江泰吉らは、仏像への信仰心をどう感じ、被写体に向かったのでしょうか?私が著書を読む前に記した感想文では、思いつくままに記してしまって、浅学で写真家についての心持ちまで学習してこなかったこともあり、今一つ仏像に向かう写真家の気持ちが分かりません。そこで、これから少し時間をかけて「神奈川仏教文化研究所」の写真家の著書関連の紹介をしたページを開いてみたいと思っています。フィルターを通した彼らの訴えていることや気持ちを理解出来ないか?彼らは写真集など多くの写真に関する著書を出していますから、それらを読んで少しヒントがあるかを探ってみたいと思います。ついでに、次章の「コレクター」についても読んでおいて損はないでしょう。また、「太田古朴」の仏像修理についても読んでおきたいところです。またまた宿題が増えてしまいました。
 
「神奈川仏教文化研究所」(埃まみれの書棚からー古寺、古佛の本— 第2話・古佛に魅入られた写真作家の本):
 
「仏像と日本人」著者インタビュー: 
 
 
21081014日 PM22:30  Tak