孤思庵の仏像ブログ

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10/3 Takさんの投稿 「木喰上人ノート」を開いて


Takさんの投稿です。

●「木喰上人ノート」を開いて:(サークル・スクエアの投稿画像も参考にしてくだ
さい)

H30年9月23日から、山梨・身延町で開催されている「木喰展 故郷に還る、微笑
み」を拝観に出掛けた際に、現地会場でいろいろとお話しを伺ったのは身延町教育委
員会主査・深沢広太氏と全国木喰研究会評議員・「小島悌次」氏でした。書き留めて
来たノートから拾って概要を整理してみました。



木喰上人の詠める歌、数首。 (私の好きな「種田山頭火」のうたに似た、親しみの
ある、物寂しい、それでいてユーモアのある歌が多い)

釈尊の 教えの道に 六道を 迷わぬものは 確かなり」

「いきなりに ころり丸まる そのよさは 寒さわするる 茶わん酒かな」

「木食は 書物も読めず 字は書けず いつも恥辱を 恥のかきやり」

「いつまでか はての知れざる 旅の空 いづくの誰と 問う人もなし」

「わが心 濁せば濁る 澄めば澄む 澄むも濁るも 心なりけり」



・木喰は、享保3年(1718年)~文化6年?(1810年?)の期間に生まれ亡くなったと
される。没時期は厳密には不明である。江戸時代後期の仏教行者、仏像彫刻家、歌人
でもある。今年平成30年は、木喰生誕300年にあたる。

・出生は詳細不明だが、彼自身が残した宿帳や遊行日記や自叙伝である「四国堂心願
鏡」、あるいは全国各地に残した仏像の背面に大きく書き留めた墨書銘から、うかが
い知れる。

・14歳に家人に「畑仕事に行く」と言い残して出奔して、江戸へ向かったという。

・「心願鏡」によれば、元文4年(1739年)22歳で相模国(現・伊勢原市)の真言宗
「大山不動」で得度・出家したという。

・45歳の宝暦12年(1762年)に「木食」と名乗った。常陸国水戸市真言宗「羅漢
寺」で師の「木食観海」(もくじきかんかい)から「木食戒」を受けた。「戒」は仏
教者の守るべき規律で、「木食」は五穀(米、麦、アワ、ヒエ、キビ)あるいは十穀
(五穀+トウモロコシ、ソバ、大豆、小豆、黒豆)を絶ち(=穀断)、山菜や生の
「木の実」しか口にしないという戒律だそう。

・ちなみに、古来より「木食上人」と云われた人物は数人いて戦国時代頃の「木食応
其」(もくじきおうご)がよく知られているという。

・彼のその後の修行時代については、記録が乏しく詳細は不明。木喰が廻国遊行(全
国を旅しながら修行する)に旅立つのは、木食戒を受けてから10年以上を過ぎた安永
2年(1773年)・56歳の時だったが、常識的に当時としては高齢での遊行だったとい
える。以降彼の足跡は数回に亘って日本全国に及んでおり、北は北海道・有珠山麓か
ら南は薩摩(鹿児島県)までに記録がある。これは大部分がこの年に伊豆国で木食と
出逢い戒を受けている僧で、彼の弟子となった「木食白道」(もくじきびゃくどう)
と共に巡ったと思われる。この弟子が木食とともに彫像活動を行なったものと考えら
れる。

・木喰の最初期の像仏としては、61歳の時に青森県六戸町の「海傳寺・釈迦如来像」
の造像が知られている。像態からは木喰仏とは判断しにくいが、赤外線撮影により背
面墨書銘の花押から木喰仏と判断された。その後は61歳の安永8年(1779年)蝦夷
(北海道南部)で制作されたことが知られ、陸奥国から北海道へ渡ったことが知られ
る。

・木喰は、生涯で長期間に亘って全国を遊行しているが、ほとんどが素通りのような
感じで滞留して修行をしたことは少ない。彼の克明な記録から、数少ない長期間の滞
留修行は「佐渡島」の4年間、「日向国」の7年間だけで、一つの土地に留まることな
く全国を遍歴したことが知れらる。

・弟子の木食白道が制作した木喰仏としてハッキリしているのは、北海道・八雲町の
「門昌庵」に伝来する諸像で、その背面墨書銘に「六字名号」があることから判明し
たとのこと。

・故郷の甲斐国丸畑には、全国遊行の期間中に4回立寄っていることが知られてい
る。寛政12年の帰郷では、念願の廻国(日本一周)を果たした後に立寄っていて、丸
畑の「永寿庵」の本尊・「五智如来像」を制作している。翌年に「四国堂」を建立し
た。四国堂は「四国八十八個所霊場にちなんだ八十八体仏の他「弘法大師像」、「自
身像」などを制作し、一部を四国堂に祀ったという。

・四国堂は、享和2年(1802年)に完成し開眼供養をしている。ここで彼の半生を回
顧した「四国堂心願鏡」を著わしている。(因みに四国堂心願鏡は、大正13年(1924
年)に「柳宗悦」によって発見された)。

山梨県内に残されている木喰仏は、彼の晩年期の「微笑仏」と云われる作風の特徴
が強く現れていることが指摘されている。特徴として、像高70センチ程度、縁に放射
状の刻みを現した円形の頭光背を付け、荷葉・蓮台・框(返花)で構成される台座に
は荷葉に列弁状の彫刻がある。

・木喰は61歳で初めて造像を開始して以来、80歳で1千体、90歳で2千体の造像を誓願
し、93歳の生涯を閉じるまでに多くの像を彫り、30年間の造像活動で現在では721体
の木喰仏が見つかっているという。

・「自身像」は、みな同じような像態であるが、大きな耳朶や、眼を細めにこやかに
笑みを浮かべ、両頬が丸く大きく張りだし、団子鼻で口元を緩め顎鬚を長く伸ばす姿
に、誰もが親しみを抱く。

また、尊格のはっきりした仏像でも教義に乗っ取っていない彼独自の制作での像が多
く、両手を衣に隠し印相が分からない(制作上デフォルメ化している?)、螺髪が無
いなど、普段見慣れない仏さまが多く拝せました。



疑問:

・木喰仏は、全国各地を巡りながらの造像活動だが、彫った仏像の樹種についての分
析はどうか?寒冷地での造像に使った樹種と温暖地での造像の樹種はちがう筈。

・展示作例では、樹種によってあまり彫法の違いが感じられないのは何故か?各作例
は其れなりに大きさがあり、4,50㎝から等身大以上もあり、モノによっては2m以上
もあるというが、短時間での造像はどのようにして出来たのか?昼間は村人の相手を
して講話をしたり世話をしたりし、子供と遊ぶ、制作は人が居ない夜間というが、白
道という弟子が居たにしても60歳過ぎから90歳までの高齢になって始めた制作活動
で、労力を必要とするはずで、30年間に同じような彫法で彫れるものか?

・木喰は、全国の村落を多くの仏像を彫って巡りながら、庶民の信仰心に答えながら
各地に仏像を安置していった。庶民の信仰に根ざして寄り添った活動が知られてい
て、ある自身像では顔面から上半身部分が削り取られているが、言い伝えによると村
人が病の際に像の一部を削り取って、高価な薬に代わって「薬」として飲む信仰が
あったという。また、ある場所では子供たちの「遊び道具」として仏像が玩具の無い
庶民のための代わりとなって、悪戯効書きまでされていたという。生木のムロ内に彫
られた仏さまも残っており、地方の庶民に慕われた木喰の姿が眼に浮かぶようだ。し
かし、彼はどのような教えを村人に諭していたのか?真言での得度僧から村人に教え
る事とは?

円空と木喰とは、北海道南部で遊行の際に行き交わしている、との説は如何?遊行
した地域はダントツに木喰が多くの地域を巡っていて、円空の行動はかなり限定的な
はず。

・「微笑仏」がすべてではないが、尊格に別なく微笑面相に刻しているのは、仏さま
の教えを脱線しているのではないか?木喰上人の独自仏として、寺院安置の礼拝の仏
像とは一線を画す必要があるのではないか?



「木喰仏の特徴」や「柳宗悦」のことや「円空」のことなど、まだまだたくさん伺っ
たことがあり、疑問にもお答えいただいたこともありますが、長くなるのでまたの機
会にご報告することにします。

ついでに思い出しました。「種田山頭火」についてももう一度思い返してみようと思
います。木喰上人との共通点は「酒」だけかも。


【以下省略】



2018年10月3日 PM20:00
    Tak