孤思庵の仏像ブログ

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9/4Takさんからの投稿 「9月1日 東博館内を巡って」

9/4Takさんからの投稿 がありました。


  「9月1日 東博館内を巡って」

91日(土)の集いの会定例会ではお世話になりました。幸いに悪天候にも遭わず、久方ぶりに参加して皆様にお会い出来て楽しかったです。オフ会では、いろいろ失言まがいの発言等ご迷惑をおかけしお詫び申し上げます。
 
当日の午前中の本館拝観中に、一緒に巡っていた数名のメンバーの方とは、11室の「地蔵菩薩立像」や「不空羂索観音菩薩立像」(法隆寺蔵)、「菩薩立像」、「毘沙門天像」(道明寺蔵)など、また2階の会場でも「阿弥陀三尊画像」などの仏画や仏像なども時間をかけて観て廻りました。真面目にあるいはザックバランにいろいろと感想や意見が聞かれ、集合時間が気になるほどでした。またある仏さまのお顔について指摘があった件について、たしか小像だったかと思いますが、一見ではなかなか判別できないようなところをご覧・ご指摘されました。いわゆる「連眉」のお顔をした仏さまでした。私は自分の経験から南山城方面のお寺の仏さまを紹介しましたが、その場では眼窩や眉、瞼などの顔の造作でのことだけで細かい話しが出来ませんでした。帰宅してから思い出して以前の拝観時の資料を引っ張り出してみました。ここで紹介する仏さまは等身大の大きな仏さまでしたのではっきりと拝観することが出来ました。当時はお寺の関係者から史料も戴き、仏さまの詳細が分かった次第です。仏さまの姿は本メールでは見られない感がありますので、「サークル…・アルバム」にご案内しておきます。合わせてご参考にしてくだされば幸いです。
 
「常念寺・菩薩形立像」(薬師堂内)(南山城・精華町
精華町文化財愛護会の資料による)
慈観山常念寺、融通念仏宗、創立・不明、戦前まで多くの寺領があったが戦後の農地改革で減少。
天冠台をつけ宝冠をかぶり、条帛と裳を着け、天衣(遊離部は後補)を懸け、臂釧を付ける。左手を屈臂し右手を垂下(両手先は後補)する。ケヤキ材と思われる一木造り、肉身部と着衣部の痕跡から漆箔像と推察、彫眼、背面下半身に大きく内刳りを施し、蓋板を当てる。像高・169㎝。旧薬師寺の本尊であったことや現在でも脇檀上に薬師の眷属である十二神将像(12体・江戸時代作)が祀られていることから、本像は薬師如来として造られたと考えられる。菩薩形の薬師像は非常に珍しく神祇(神像)と仏像の融合現象である「神仏習合」の過程で生み出された仏像と考える。当初の深い彫りや神秘感の表情が良く残されている。神像は一般に僧形の姿を取るが菩薩形は例外的といえる。神仏習合の早い時期の仏像として貴重なもの。平安時代前期の仏像の特徴が表れていて、天衣は両膝の前で複雑に交差させている様式で、衣の襞にあらわれている翻波式の衣文とともに9世紀の特徴を示している。インドや中央アジア地域の民族によく観られる「連眉」(れんび)や瞑想的な細い目、ぶ厚く突き出した唇などみる重々しく神秘的な表情、右足をやや浮かし腰を若干左に捻って立つ、体躯の重量感溢れる姿。
 
拝観当時の私のレポートです。(2017112日・木、表題「今秋後半の巡拝旅行報告・第2弾です」)
常念寺(じょうねんじ・精華町
資料では、駅前からコミュニティバスで僅かとのことでしたが、バスで僅かなら歩いても大したことはないと思い、方向だけ目見当で朝のピーカンの天気のもと、徒歩10分と見込んで出発しま�靴拭0�澆法�愾阿離丱好拭璽潺淵襪琉篤眇Π�法△�獷帽圓�粘鵑蠅離丱皇笋鮖任辰燭箸海蹇△修鵑覆�獷亙垢い燭海箸�覆ぁ△箸里海箸妊丱皇簗召亙��蕕沙塗颪い任靴拭�海了獷盒┣饅藐��璉,任靴拭1悗�蘚綿��鹿齔瘤昭齔瘤�瘤臀杜㏄��跂洲肬銓∮蝴綺臼�頸紙闔�聲迚踟頃�逅資�槇�纈蜀祉闌闥財赱站Ь碓鹿齔瘤昭齔瘤��跂洲肬銓∮蝴綺臼�頸紙闔�聲迚踟頃MS Pゴシック";color:black'>分は正解でした。JR祝園駅の高架橋を跨いで、隣の近鉄新祝園駅」前から、とにかく広々とした通りをまっすぐに行くだけで、よいのです。大通りから「上水道事務所」というバス停すぐの路地に入り、住宅地の中に、協会が公開寺院には必ず立てている幟りを数本見つけたので、確信を持ちました。小さなお寺ですが、路地から一段高く綺麗な石垣を巡らした白壁のお寺でした。1キロほど離れた場所に、「祝園神社」(ほうそのじんじゃ)があり、地元では大きな歴史ある重要な神社だそうです。その神社と関係が深いお寺でした。お寺での様子によっては、後日に神社への参拝も考えて来ましたが、とりあえずはお寺だけとなりました。本堂は、昭和63年(1988年)落慶という比較的新しいお堂です。説明では戦前まではこの一帯に広く寺領を領していたようですが、戦後の農地改革で大幅に縮小したそうです。外陣に「億百万遍功徳円満」、「彌陀所儒融通念仏」との幡が左右の柱に掛かるように、このお寺は融通念仏宗です。開基、年代などは不明ですが、寺伝によると室町時代には天台宗寺院として創建されたようで、その後融通念仏宗に改められ、江戸時代後期に伽藍の再興がされているという。延暦寺良忍上人が、阿弥陀如来から融通念仏を授けられたという伝えがあり、「一人は万人のために、万人は一人のために」というラグビー競技のような教えで、念仏を広めたそうです。
山門をくぐると、本堂までの短い距離ですが、多くの植え込みが出来ており、綺麗な砂利が敷き詰められ、中央には、細長い方形の2列の石に挟まれて、列の中に正方形の石の組み合わせによって作られた石の道が、本�恩軸悗妨��辰討い泙后5�圓里匹海�領�匹覆�獷砲△襪茲Δ壁濱估擦如�柄任覆�薹觜遵採錣覆發里任靴拭�个瞭擦療喘羆�蠅法△海了獷任量楸未痢嵬�嫺押廚函峩綵点佚磧廚�△蠅泙后L�嫺夏發諒�気泙蓮∋笋�2鵑僚簀厠更圓量楸未琉譴弔砲靴討い詈�気泙任后8紊濃�屬鬚�韻毒劼靴燭い隼廚い泙后��鹿齔瘤昭齔瘤�瘤臀杜㏄��跂洲肬銓∮蝴綺庚稲�肬銓㊥瘢蛹倢▽瘢雹髟阡↑黼鱸羯竢跫鮑6橋橋凶昭鏈霈鹿鏈霈鹿齔瘤昭�昭�赱齠粛齒麗鴉瘡�跚芬曙繙��跂洲��〟跚芬碕繙�跚鈬㊧繪艾�渦�頸似闥筬碣縺觝碣縺覘瘡讌昭齔瘤��跂洲肬銓∮蝴綺臼�頸紙闔�聲迚踟頃MS Pゴシック";color:black'>本堂は、入り口左右に石灯籠と大きな水盤が置かれており、堂に上がって正面に須弥壇が設えてあり、天井からは天蓋、幡、華鬘(けまん)、羅網(らもう)下がり、荘厳な雰囲気を醸している。須弥壇中央に簡素な逗子に入った本尊「阿弥陀如来立像」、左右に「地蔵菩薩立像」と「阿弥陀如来坐像」が安置されています。何故か、本堂内の天井四隅に、まだ新しそうな小さな「四天王像」が、背板に囲われて安置してあるのが不思議だった。それにしても天井隅とは、床には安置するスペースが無いとでもいうのだろうか?そうは思えないのだが。「阿弥陀如来立像」は、江戸時代の作だそうで、頂上部まで綺麗な蓮華文様の舟形光背を背負う、端麗な姿の三尺阿弥陀像です。像高100㎝位、彫り出しの螺髪、来迎印を結ぶ、ヒノキ材の寄木造り、玉眼嵌入、着衣部は黒漆塗りで、肉身部は汾溜彩(ふんだめさい)という。着衣部の黒漆は本来は漆箔であったと思われるそうで、像全体の保存状態は、厨子に入っていたせいか、良好のようです。説明員の話しでは、旧本尊は、坐像のほうだったそうです。「阿弥陀如来坐像」は、像高90㎝のヒノキ材寄木造り、漆箔、彫眼で、彫り出し螺髪の江戸時代作との推定。偏袒右肩の姿で、定印を結ぶ。衣文線ははっきりしているが彫りは浅い模様。丸顔に小作りな目鼻や撫で肩の華奢な体躯は、おとなしい仏さまで、この像が以前の本尊と云われているそうです。「地蔵菩薩立像」は江戸時代の作と考えられているそうで、像高70㎝、体躯の割に大きめの顔で、彫眼。遠目で不明だが、左手で衣の端を摘み、右手に錫杖を持つ。袈裟下の衣は通肩のように観えるが、オペラグラスでも遠くて暗いのでよく観えない。
「菩薩形立像」(重文・薬師堂)
早々に本堂を出て、山門近くの「薬師堂」に引き返します。小さなお堂は堂内に菩薩立像を正面中央にして、左右に十二神将12躯と、十二神将像奥にそれぞれ毘沙門天立像、不動明王立像が安置されています。
やっとお目当ての仏さまとの対面です。これまで写真でしか拝したことがない仏さまですが、何故か気に入ってしまった仏さまなのです。午前中の陽射しが、小さなお堂の奥まで届き、かなりよく拝することが出来た気がします。本像は、旧祝園神社薬師寺境内の小堂に祀られていたが、薬師寺廃寺により常念寺に移り、現在の薬師堂に祀られているという菩薩形立像ですが、小さなお堂内にキツイ感じで立つのですが、それでも姿がすごく立派に観えます。説明では、平安時代前期の弘仁元年(810年)から貞観11年(869年)にかけて、仏師「春日」によって造られたという仏さまで、蓮華と返り花だけの台座で、台座を含めた総高が2m、像高1.7mという等身大の仏さまで、、ケヤキ材と思われる一木造り、彫眼、肉身部と着衣部の痕跡から当初は漆箔像だったと推定され、背面腰部下半身に大きく内刳りを入れ、蓋板を当てているそうです。ガッシリとした体躯で、大きな宝冠か髻?(素木の大きな髻かとも宝冠とも思われる単純な円柱状で、宝冠状の細工無しだが)、列弁を付けた天冠台、髪際の筋目が僅かにのぞき、条帛は幅広で、彫りのはっきりした衣�犬�ο栃△泙芭�譴泙后J�喇��苓綽��∧∩庵羆獷蚤腓④�泙衒屬気譴身庄濔�梁し舛蓮�運官濔�遼歿伴阿猟Δ蠅粘磴魄悊④泙后j綽�婉瓩盒呂�世�歿伴阿猟Δ蠅�僂蕕譟�鼎辰辛集修鮖椶靴討い泙后N掌��蘓�泙任猟垢づ薫瓩猟Δ蠅領�錣機�辰紡臑槁瑤�薺喇瑤砲�韻討瞭麩△療薫瓩諒�┐文鮑后△錣兇錣兇陵蹐澡餽隋△修靴椴消漆�料以�悗僚世蕕�箆儷覆靴仁�譴砲蓮∩飴�綸�癖薫狼い盍兇犬蕕譟�磴�I佞韻砲覆辰討靴泙い泙后E薫瓩涼爾�蚓�譴鯆匹辰胴圓�發里痢�喘罎罵蹐澡餽腓�鬚蕕覆�覆辰討靴泙い泙后��蕕牢欖蕕如¬槁[�舛和ず遒�腓④�⊂�,�イ辰心兇犬膿阿眤腓④瓩如⊃阿垢芦爾乏椶�紊�乕佞餌④靴燭�里茲Δ棒垢蠑紊�辰討弔い討い泙后�絢�里睚�釮�⊂絏漆阿�箸發砲瓩�貍紊�辰燭茲Δ砲覆辰匿粟茲�蹐辰心兇犬任后�泙拭∈戮瓩農�つΔ蠅玲�里箸靴心窿櫃任垢���受�ぢ「連眉」(れんび)という左右両眉が真ん中で連なっているように造られていることが、特徴的な顔つきに観えるようです。蓮眉については、「仏教芸術」のある号に関連の論稿があるそうですが、未確認です。この時、私と説明員の話しの間に割って入った男性が、「イモトアヤコ」だといったのですが、訳が分からずノートに書き留めておいたのですが、まだ調べまで及んでいません。全体に迫力のある顔付きに引き付けられる姿です。左手は屈臂し蓮華を持ち、右手は垂下しているが、一見して右肘から手首までが長く、手指は膝にまで達しています。両手首先は後補と思われます。また、現在は左手に蓮華を持つが、お堂内には、江戸時代の作とされる薬壺を持つ左手が残っており、いつの頃か繋ぎ直したようです。つまり最近までは薬壺の薬師菩薩だったことが知れるわけで、お寺では不確かなものとして、「菩薩形立像」として案内しているわけです。
薬師寺の本尊であったことや、脇檀上に薬師如来の眷属である十二神将像が祀られていることから、神将像が江戸時代の作であることを差し引いても、本来は薬師像として造られたものと思えるが、外見上は、いわゆる薬師如来像ではなく、菩薩形の薬師像であるのは不思議です。祝園神社との神仏習合の関係で生み出された仏像ということは確かだろうが、神像であれば一般には僧形などの姿となるのかもしれないが、菩薩の姿をとる例外的なもので、ここに祝園神社との解けない関連があるのかもしれません。とにかく印象に残る私好みの仏さまでした。これからもお会い出来る機会があると、うれしいのですが。拝観の最後に、忘れずに説明員にお願いして例の「学習用資料」を撮影させていただきました。
(薬師堂内の十二神将12躯、毘沙門天立像、不動明王立像の説明は省略。)
以上が拝観当時のレポートですが、ブログにも開催されましたので目にされた方も、と思います。
 
201894日 PM930  Tak