孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

7月7日の 勉強会 【個人発表】 の追加 提案 「法隆寺」に関しての 提言

先のブログ日記   7月7日の 勉強会 【個人発表】 の追加 提案 (法隆寺 金堂 釈迦三尊 ディスカッション) を SNS「趣味人倶楽部」の方にも 投稿しましたら、 以前に仏像愛好の集に  参集されてました十四郎さんが  コメントを つけて くれました。 此処に 紹介 致します!」孤思庵


以下、十四郎さんの  コメント文

わたし(十四郎さん)  のいくつかの注目点を挙げれば、
① 7世紀前半(607,623)の造像とされるのはほぼ光背銘に由るのでしょうが、この銘の作文が問題で、日本紀日本書紀)が完成する8世紀前半以降でないと出現しない新語が、数多く用いられています(天皇、法王、皇后、王后など)。
 従ってこの銘の記載は、造像年より1世紀後以後に作成されたとのこと(福山敏男)。
 しかし内容が正しければ問題ないのですが、もし正しいとすれば下記のように決定的な矛盾や疑問点が出てきます。
② 伝造像年より半世紀後(670)、「斑鳩寺は落雷火災により、一屋も余さず焼失した」と書紀は記します。法隆寺ではなく、斑鳩寺が在った旧若草伽藍跡の発掘調査によると、焼けて溶けた金属の残骸が採取されたとのことです。
 あの重量級の薬師および釈迦三尊のすべての諸尊を、完全燃焼しつつある斑鳩寺から、一体だれが迅速に、しかも「無傷で」運び出したというのでしょうか。飛鳥大仏でさえ、あのように無残にやけ融けたというのにです。
 今、法隆寺金堂とされる堂宇に鎮座される諸仏は、一体どこに火災の傷跡があるでしょうか。どこにもなく、火災とは無関係に存在しています。。
③ 銘に由れば、薬師が推古12(607)年、釈迦が推古31(623)年の作とされます。
 どうして薬師が先なのでしょうか。
 そもそも薬師信仰とは、持統と天武が共にベターハーフの病克服を祈願して、薬師の霊験を信じて天武が薬師寺建立を発願した時(680)、および山田寺・薬師丈六仏開眼(685)などから始まるのでありましょう。
 もし推古12(607)年に薬師が成立していたならば、仏像および仏教史としては大きな変革となりましょうか。薬師は釈迦よりはるかに後のはずです。
④ 法隆寺金堂の諸尊はすべて、全体は北魏もしくは飛鳥様ではあります。しかしやや豊かな容貌はまちがいなく白鳳初期のものでしょう。どちらかが飛鳥調を残して白鳳初期に作られ、他方が後日、それを手本にして、擬古作である飛鳥仏を造像したようです。
⑤ 以上をまとめて、わたしは次のように考えます。
 ⓐ 斑鳩寺の落雷焼失(670)以前の丁卯の年(667)に、釈迦独尊が造られた。
 ⓑ 当釈迦(白鳳仏)はこの年、斑鳩寺とは無関係に「ある処」に奉納された。
   これが後日薬師とされるために、「丁卯の年、薬師成る」と銘に記された。
 ⓒ 斑鳩寺全焼により、鋳造仏や新羅などからの献上仏が焼失。(670)
 ⓓ 平城遷都(710)により、斑鳩寺跡に法隆寺(西院)が建立される。
 ⓔ 法隆寺弘福寺にて斎を設ける(715)。
   この時、「ある処」の釈迦を法隆寺の仮本尊として移したか。
 ⓕ 後日、行信らが法隆寺東院を建立し、救世観音を造像する(739)のと並行して、
   旧釈迦を手本として新釈迦独尊が金堂に鋳造され、
   「釈迦成る(癸未=743)」とされた。
   同時に旧釈迦を隣に移して薬師とし、「薬師成る(丁卯=667)」とされたか。
 ⓖ 唯一現存する天平19(747)年の資財帳(法隆寺伽藍縁起并流記資財帳)には、
   「釈迦像壱具」「薬師像壱具」と、いずれも独尊としての記載しかない。
   釈迦三尊は、同時には作られていなかったことを意味する。
   従って初期の独尊光背は、後日、三尊用の大型光背に入れ換えられている。
   その時に、資財帳に合わせる様に銘文が捏造されたのであろう。
   つまり光背銘には、「同時に完成した」と明記している。
 大体以上がわたしの視点ですが、一日、少なくとも半日かけてのQ&Aがほしいところですね。なぜここに比較的詳しく書いたかといいますと、じつは当日、わたしは参加できない予感がしています。
 そこで以上の様な点についてお教えいただけるお話があれば、ぜひ後日、貴兄の日記に採録戴ければありがたいと存じます。そのお願いをかねて申しあげた次第です。何とぞよろしく、期待しております。