孤思庵の仏像ブログ

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図像学自習 「十一面観音」

図像学自習  「十一面観音」

    
 五、六世紀ごろバラモン教の神が仏教に取り入れら、十一面観音菩薩 となる。 

梵名:  エーカーダンシャ・ムッカ    (11の・顔)

ヒンドゥー教      エーカーダンシャ・ルドラ  (十一面荒神)   
 ルド(吠える) ・・・ ルドラ暴風神 =シヴァの前身・化身

シヴァは「破壊/再生」を司る最高神  
破壊と救済という、恐ろしくも喜ばしいという  シヴァの持つ二面性(慈悲面・j瞋怒面)

玄奘訳の「十一面神呪心経 」(656頃)  他 の経典

わが国でも雑密の伝来とともに奈良時代から信仰 されていた。


十一面観音の頭上面 
前三面: 慈悲相 菩薩面         素直に仏の教えに従う人に,慈悲を垂れる。
左三面: 瞋怒(憤怒)面           仏の教えに従わないものに対しての怒り。
右三面: 菩薩の狗牙上出面   衆生を励まして仏道を勧める、讃嘆の表情。
後 一面:暴悪大笑面            「邪を笑う相」  煩悩だらけの 愚かさを嘲笑している。

頂上仏面: 如来面: 「如来の境地」を示す如来相 で尊名は持たない!   (一説には阿弥陀如来??)
                          cf, 宝冠上部、頭部前面の化仏は・・・、観音の仏本地仏を標識とする阿弥陀仏
 


「十一面の意味」  【A】 + 【B】


【A】
 対機的に、あらゆる衆生を救うため、周囲を見守る為 の多面と思いました。
八方8 +上下2    + 本面1   との合計で、十一面の多面!
それに 色々な衆生 を 救うために その面は同一でなしに、 異なった種類が在るらしいです。

頭上面の現世利益の(十種勝利)と、頂上面の来世での果報(四種功徳) により・・・、 頭上面菩薩面10 と頂上仏面 1 の構成になったかと思いました。

十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経によれば、10種類の現世での利益(十種勝利)と4種類の来世での果報(四種功徳)をもたらすと言われる。


十種勝利
  • 離諸疾病(病気にかからない)
  • 一切如來攝受(一切の如来に受け入れられる)
  • 任運獲得金銀財寶諸穀麥等(金銀財宝や食物などに不自由しない)
  • 一切怨敵不能沮壞(一切の怨敵から害を受けない)
  • 國王王子在於王宮先言慰問(国王や王子が王宮で慰労してくれる)
  • 不被毒藥蠱毒。寒熱等病皆不著身(毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病状がひどく出ない。)
  • 一切刀杖所不能害(一切の凶器によって害を受けない)
  • 不能溺(溺死しない)
  • 不能燒(焼死しない)
  • 不非命中夭(不慮の事故で死なない)
四種功德
  • 臨命終時得見如來(臨終の際に如来とまみえる)
  • 不生於惡趣(悪趣 、すなわち地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わらない)
  • 不非命終(早死にしない)
  • 從此世界得生極樂國土(今生のあとに極楽浄土に生まれ変わる)



【B】
並ぶ菩薩面、それが皆 同じでなしに、 種類が在るのは、【A】 と同様ですが、 頂上仏面 が在りますので、 大乗仏教の 菩薩の修行段階を52に分けた。華厳経や菩薩瓔珞本業経に基づくとされる。
①十信 ②十住 ③十行 ④十回向 ⑤十地⑥等覚(仏の覚りに隣接し、間もなく仏になろうとする段階) ⑦妙覚(覚りの境地、菩薩が到達する最高の段階)を合計して 五十二位となる。

この考え方で、頭上に並ぶ菩薩化仏、  十面は、 上段の内の十地 (現前地・難勝地・焔光地・現前地・難勝地・焔光地・発光地・離垢地・歓喜地・発光地・離垢地・歓喜地)の進歩昇階をあらわし、 その上の頂上仏面は、菩薩修行の仏果 = 成仏を示しているのではと思いました。

頭上に異なる面相の菩薩面が並ぶ理由を【A】の考察では、 色々な衆生 を 救うために その面は同一でなしに、 異なった種類が在るのではと考えましたが。 此処【B】では、菩薩の修行進行の段階の表現と考えてみました。


独学ではこの程度まででした、 御存じの正解を お教えいただけたら 幸いです。


【呟き】
多くの顔を持もつ、十一面観音の信仰は52段階の悟り(成仏)を目標とする、カルマ(業)への路程 表現であり、頭上面の現世利益の(十種勝利)と、頂上面の来世での果報(四種功徳) にという、現世・来世 の両方の御利益  の二面性が在り、 此れは悟りを進める 如来の厳格の教え=迷いを脱し、真理を悟ること ではなしに 、利益を念頭の 慈悲(慈悲を垂れる)の菩薩の教えと 感じました。

此処で、私達の 手を合わせる対象の「ほとけ」に・・・、 如来と菩薩が在って、(もちろん慈悲在っての)悟得を説く如来。 それに対して菩薩は慈悲の心で利益を垂れる の面が 在るのを感じました。

「ほとけを 感じながらの仏像拝観」 なんぞも 如何でしょうか?