西山教授の「奈良の国宝仏に会う ー心にし みる、み仏の物語 ー」 を受講しました。
「仏像愛好の集」のOotさん、とKitさんが 御一緒でした。
幼稚園児に 仏教を解く・・・、的 ポリシーの 西山教授の 人柄にひかれて の受講でした。
帝塚山大学教授の西山厚氏を講師による、奈良にある多くの魅力的な国宝の仏像(肖像を含む)と、その背後にある「心にしみる物語」の紹介でした。
新知見の お話はほとんど無かったものの 西山教授 特有の易しさのにじむ 心地よい 講演でした。
同一会場の 昨年の公開講座の様子
帝塚山大学教授 西山 厚 氏
他のウェブですが、下段を引用します。
第 十 条 | 原文 | 十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/kyo.jpg能可定。相共賢愚。如鐶无端。是以彼人雖瞋。還恐我失。我獨雖得。従衆同擧。 |
読み下し | 十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独(ひと)り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。 | |
現代語訳 | 十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。 |
上段の説明をされたのです。西山 先生が注目された事にもですが・・・、解説を受けて、私も 聖徳太子の道徳的規範の言葉に胸打たれました。聖徳太子と崇められる人物が。。。、「われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。」 と云うのには 恐れ入り、とても納得でした。
太子や教授には、遠く及ばぬどころか、比較もおこがましい匹夫ですので、適当ではないのでしょうが・・・、 自分も 座右の銘 にしたく思いました。