孤思庵の仏像ブログ

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「仏像愛好の集」のMさんより投稿  運慶展に寄せて―その2 運慶展見学報告

「仏像愛好の集」のMさんより 投稿です。

 
             運慶展に寄せて―その2 運慶展見学報告
 
 
東博運慶展開催2日目の9/27に見に行ってきました。全体的な印象記や感想は他の方が投稿するでしょうから、私は先日の美術史分科会で説明しきれなかったことや注意点などを書きます。
 
まず混雑具合ですが、平日の開館20分ぐらい前で正門の行列は、一列4人の並びで正門向かって左側の大きな運慶展の看板ぐらいまで(200人ぐらいでしょうか)。9:20ぐらいから係の誘導で平成館の前までゆっくり移動し、平成館前でまた待機して数回に分けて入場させ、結局中へ入ったのは9:40頃でした。しかし、この行列も朝のうちだけで、少ししたら正門前の行列も解消したそうです。中はそれなりに混んでいましたが、鑑賞に支障が出るほどではなかったと思います。
 
今回の運慶展では2階のロッカーが撤去されていて、荷物は切符を切る前に1階階段付近のロッカーに入れることになります。何度も出し入れする場合は切符の半券に日付印を押してもらう必要があるので要注意です。混雑が予想される展覧会の場合は、今後も2階のロッカーを撤去するかもしれないそうです。
 
今回私が注目していたのは東福寺多聞天三十三間堂本尊光背の三十三身3体、宝冠などの金属製荘厳具を着けた状態で初めて展示される滝山寺聖観音3件です。これらは最後の方に展示されていて、入場したらすぐに展示品を一通り眺めながら三十三間堂本尊光背の像の前まで行き、他の入場者がほとんど来ていない状態でゆっくり見ることができました。
 
三十三間堂本尊光背三十三身3体は30cmぐらいの小さな像ですが、金箔や夜叉の髭の墨書などはよく残っています。壁側のガラスケース内なので背面は見えません。迦楼羅については二十八部衆の像との違いを、執金剛神については蔵王権現と同じ形態を取る高野山の快慶作品との違いを思い浮かべながら見るようにしてください。木寄せ構造等の基礎データは美術史分科会で配布した基礎資料集成鎌倉8の抜粋資料をご覧ください。
 
東福寺多聞天は今回最も見たかった作品です。山本勉氏がMUSEUM591号で書いている通り、高野山八大童子の中に混ぜてもいいような出来の良い像です。MUSEUMの抜粋は美術史分科会配布資料に載せていますが、いくつか追加すべき注意点を書きます。まず、最も言いたいことは興福寺南円堂の四天王と比べて欲しいということです。現南円堂四天王については後述しますが、今回は無著・世親像の周囲に並べてありました。東福寺多聞天とは少し場所が離れていますが、会場内を往復しながら見比べるようにしてください。ポイントの第一は東福寺多聞天の両足の脛当てを覆うように袴を足首まで降ろしている点で、これは南円堂四天王多聞天、神奈川県曹源寺十二神将巳神像と同じ形式です。神将形の像では古くは天平時代の新薬師寺十二神将中の摩虎羅像がこの形であり、鎌倉彫刻では建保五年1217銘の奈良円成寺四天王中多聞天像、東国では神奈川県日向薬師宝城坊十二神将中の子神、巳神など全国で数件の例があります。曹源寺十二神将も運慶様が強い作品であることが要注意です。(曹源寺の巳神像が源実朝の理想像と考えられるという文化庁奥氏のMUSEUM論文のことは先日の美術史分科会で説明した通り。)
ポイントの第二は東福寺多聞天の足に履く靴が紐を編んだ形であること。これも南円堂四天王多聞天、神奈川曹源寺十二神将巳神像と同じです。ポイントの第三は東福寺多聞天の右手の親指を立てて戟を持つ形が南円堂四天王多聞天と同じです。ポイントの第四は東福寺多聞天の腹部の帯喰の龍の形が南円堂四天王広目天の龍の形と同じです。この龍の形については今回の出品作である海住山寺四天王持国天も同じです。東福寺多聞天、南円堂広目天海住山寺持国天3体の龍の形を見比べるとよく似ていることが分かります。この龍は身を低く構え前脚を左右に広げた独特の形ですが、さらにこれと同じ形のものが横須賀市瀬戸神社の舞楽面陵王にも付けられています。瀬戸神社の舞楽2面はもう1面の抜頭の裏側に建保七年運慶夢刻の銘があるものですが、金沢文庫の瀬谷貴之氏はこの銘と龍の形が南円堂四天王と同じであることから、この面についても運慶作としています。(芸術新潮10月号92ページ)来年1月の金沢文庫運慶展にはこの面も出ますので、金沢文庫に行かれる方はこの面のことを覚えておいてください。そして今回の東福寺多聞天、南円堂広目天海住山寺持国天3体の龍と同じ形であることを思い出してください。なお、私は平成23年の金沢文庫運慶展の時にこの面を見ましたが、その時は運慶夢刻の銘については半信半疑だったこと、龍の形のことも知らなかったので、陵王面のことはあまり注目しませんでした。来年の金沢文庫運慶展ではしっかり見ようと思っています。また、瀬戸神社の舞楽面が重文に指定された時の月刊文化財平成136月号解説では、陵王面について「鶴岡八幡宮、奈良氷室神社の面が同形式で、特に鶴岡の面は大きさ、形式とも極めて類似していて、同時期、同作と見ることができよう」とあります。この解説と瀬谷説とを信じるならば「鶴岡八幡宮の陵王面も運慶作か」ということになります。毎日新聞社重要文化財彫刻5に掲載されている小さな写真を見ると確かに瀬戸神社の陵王面と鶴岡八幡宮の陵王面はよく似ています。私も過去に鎌倉国宝館かどこかの展覧会で鶴岡八幡宮舞楽面は見ていると思いますが、全く記憶もないので、今度機会があったら注意して見てみたいと思っています。話がそれましたが、東福寺多聞天に戻ると、ポイントの第五は東福寺多聞天の甲の最下端(腿から尻のあたり)の下側に丸みのある花弁を連ねた飾りをつけることが南円堂四天王多聞天と同じです。
以上、東福寺多聞天の脛、靴、右手親指、甲の帯喰の龍、甲の下端の花型飾りの5点について、興福寺南円堂四天王(及び海住山寺持国天)と比べてみてください。
また、美術史分科会配布資料では枚数の都合から彩色のことは載せていませんが、東福寺多聞天の下半身には彩色がよく残っています。煤けて黒くなって見にくいのですが、拡大鏡などを使って見るようにしてください。また、分科会配布資料では願成就院毘沙門天高野山八大童子との比較について、山本氏の説明を載せていますので、よく読んでから実物を見るとこの多聞天の真価が理解できると思います。
 
次は興福寺南円堂四天王について、今回の展示で思ったことを書きます。展示では「この四天王を北円堂の本来の像とする仮説に従って、無著・世親の周囲に展示した」とわざわざ大きく表示してあります。この展示方法については博物館側と興福寺側でいろいろ調整があったのだと思いますが、四天王を「北円堂の運慶作」として展示したい博物館側の意向に対し、「仮説による展示」ということを大きく表示することで寺側が了解したのだろうと思っています。
私自身がこの南円堂四天王を運慶作と認めるかどうかですが、今まではどちらかというと否定的に考えていました。今回の展示で無著・世親と同じ空間に置いたというのは初めての試みだったのではないかと思いますが、これは結果としてとても良かったと思っています。(弥勒仏が来なかったのは残念です。その代わり法苑林・大妙相の両脇侍菩薩を含む大きな写真が展示してあったので、北円堂内の雰囲気は出ていました。)私には四天王と無著・世親は違和感なく調和していると感じられました。そして大阪大学の藤岡穣氏の言う「南円堂広目天東大寺南大門金剛力士吽形像の顔の類似」、「南円堂増長天と南大門阿形像の顔の類似」(大阪大学発行フィロカリア30号「興福寺南円堂四天王像の再検討」)ということも念頭に、更に上記の東福寺多聞天海住山寺四天王など運慶風の強い作品との細部の一致ということも考えると、「南円堂四天王は本来の北円堂四天王として運慶作でいいのではないか」と、展示を見終わった今は考えています。無著・世親と並べるという展示方法を主張した博物館側とそれを承認した興福寺側の英断に感謝したいと思います。(芸術新潮10月号運慶特集号の表紙が南円堂多聞天ということも象徴的です。)この運慶展が終わる頃には専門家の間では「南円堂四天王は運慶作」ということがほぼ完全に承認されるのではないでしょうか。
このことに関連して思うのは、専門家による作風の検討というのはあまり当てにならないというのもまた事実ということです。今回の出品作である興福寺木造仏頭については、運慶説、成朝説の後、類聚世要抄の記録が発見され運慶作と確定しました。同じ頃の願成就院や浄楽寺阿弥陀如来との作風が違うことが今後の課題とされ、木造仏頭を「低めから撮影すると頬の肉付きは豊かで抑揚があり、願成就院像との差は縮まる」と2009東博阿修羅展図録のコラム228ページで浅見龍介氏が書いています。今回の仏頭の展示ではそのへんのことを考えてか、かなり高い位置に置かれていました(運慶展の展示責任者は浅見氏)。運慶だと思って見るとそう思えてくるものです。
 
次に滝山寺聖観音についてのことです。20年以上前にお寺では見ましたが、今回は初めて宝冠や胸飾りなどを取り付けての展示です。この金属製装飾品については、重さがあることから文化財保護の観点(地震による落下、損傷など)から、長い間取り付けないで安置されていました(梵天帝釈天の装飾品はあまり大きくないので取り付けてある)。取り付けた状態は写真で見るだけでしたが、最近大阪大学の三本氏が注目し、いくつかの論文も出しているので、一度取り付けた状態を見たいと思っていました。昭和57年に出た文化庁の故松島健氏(東大寺南大門金剛力士修理の担当者)による美術史112号の論文では光背や装飾品は後補とされていますが、三本氏は後補部分と当初の部分を仕分けして、当初部分について他の慶派作品との比較をしています。今回の運慶展の図録では浅見氏は聖観音の光背は後補で、当初は東寺の二間観音の中尊と同じく挙身光だったという説がある、としています。三本氏はこの光背は当初のもので飛鳥時代と同じ宝珠形なのは、源頼朝聖徳太子同体説という点から捉えています。(なお、東寺の二間観音の両脇侍梵天帝釈天の光背は挙身光ではなく、飛鳥時代と同じ宝珠形です。)私には実物を見ても当初品か後補かどちらが正しいか判断できません。皆さんはご自分の目で見て考えてください。また、この聖観音の装飾品の意匠や形、肉厚などについては今回の展示品である満願寺観音菩薩の両腕に付けられている臂釧が当初のもので、滝山寺聖観音の装飾の類似品であるので見比べてみてください。更に9/25投稿の「運慶展に寄せてその1 鎌倉の史跡巡り報告」で書いたように、鎌倉市永福寺跡出土品の荘厳具断片がこの滝山寺聖観音満願寺観音菩薩の荘厳具との類品です。この出土品は来年の金沢文庫運慶展にも出るようですから、皆さんも覚えておいてください。
こういった金属製荘厳具、装飾品については今まであまり注目されなかったようですが、今後もっと研究が進むと思います。また、金属製でなくても例えば今回の出品作である六波羅蜜寺地蔵菩薩の胸飾りは木製の同様品です。系統的な分析が進めばこれらによる作家系統の検討も進むでしょう。(金工作家は仏師ではありませんが、快慶の建保度長谷寺再建記録を読むと金工作家は仏師の雇用の下に入って、その指揮下で働いたようです。)
 
高野山八大童子については多くを述べる気はありませんが、目の表現について一言だけ書きます。現存する当初像6体の玉眼の描き方に3通りあることは覚えておいてください。ガラスケース越しですが、すぐ近くで見ることができるのでよく分かります。制多伽、矜羯羅、恵喜、清浄比丘の4体の眼では瞳の黒目の外側の赤い部分の周囲に黒い墨線を入れています。恵光童子では外側の黒い墨線がありません。烏倶婆カでは赤と黒線の間に緑色が入っています。高橋沙矢佳氏の「金剛峯寺八大童子像について像とそれをめぐる営み」(仏教芸術311号)によれば「修行の過程で特に重要視される菩提心の二童子像(恵光と烏倶婆カ)には、他と異なる形式の玉眼が採用されている」そうです。私には難しいことはよく分かりませんが、この2体の表現、特に恵光童子はその眼の表情が印象的です。皆さんも眼の表現の違いをじっくり眺めてみてください。
以上

 
「仏像愛好の集」のMさんより 投稿です。