孤思庵の仏像ブログ

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Mさんの投稿 「運慶展に寄せて―その1 鎌倉の史跡巡り報告」

【仏像愛好の集のMさんからの投稿】



          「運慶展に寄せて―その1 鎌倉の史跡巡り報告」
 
9/26から東博で運慶展が始まり、また、来年早々には金沢文庫でも運慶展があります。この機会に運慶について日頃から感じていること、集いの会の皆様にお伝えしておきたいことなどを数回に分けて書きたいと思います。第1回目は1週間ほど前に行った鎌倉の史跡巡りについてです。
 
私が参加している地元の歴史研究会では、年に2回程度鎌倉の史跡及び発掘の専門家による吾妻鏡の豊嶋氏に関する講義を受けています。鎌倉市在住のこの先生による鎌倉見学会が2年に1回ぐらいありますが、私がこの研究会に参加するようになってから初めての見学会だったので、訪問場所についての希望を出した上で参加しました。講師の方針で、「観光ツアーにはしないで鎌倉の歴史に関するマニアックな場所に行く」という私にとっても願ったり叶ったりの鎌倉巡りなので、勝長寿院跡、永福寺跡、和田塚、大倉御所跡、釈迦堂谷などを希望しました。時間の都合や何も残っていないことなどの理由で、見学会としては鎌倉歴史文化交流館と永福寺跡をメインにして、大倉御所跡などはコースの途中にあれば見るということになりました。このため勝長寿院跡、和田塚、釈迦堂谷は個人で回ることにして、集合が昼だったので午前中にこの3ヶ所も見てきました。
 
勝長寿院永福寺は運慶や成朝が仏像を残した場所として、以前から一度は行っておきたいと思っていた場所です。勝長寿院の方は今は民家が建て込んでいて、しかも谷沿いの狭い範囲に広がっている地形です。石碑が残っているだけで何もありませんが、両側の山を見て、この辺に寺の建物が沢山建っていたのかと想像するばかりです。長年この場所に住んでいるという地元の方に話を聞いたところ、今の石碑のある位置は2030m上流側の位置にあったが、家を建てるために数十年前に現在地に移動したとのこと。この辺を掘ると大きな礎石が出てくるそうです。今回の見学会では鎌倉市役所の文化財関係の部署を訪問したので、この勝長寿院跡のことを質問したら、民家が密集しているので発掘の予定はない、遠い将来のために地下に保存されていると思っている、とのことでした。後で書く永福寺跡のような往時の姿を私たちが眺めることは不可能なようです。発掘されるのは50100年以上先のことでしょうか。源頼朝はこの場所で勝長寿院棟上げ式の最中に平家滅亡の報せを聞いて、鶴岡八幡宮を遥拝したのかとか、仏師成朝もこの場所に来たのかと思いながら勝長寿院跡を後にしました。なお、運慶も勝長寿院に仏像を残していますが、鎌倉へは下向していないと思います。成朝は下向しているので、この場所へは当然来ています。工房もこの近くに構えていたかもしれません。
 
永福寺跡勝長寿院跡とは全く違い、よく整備されています。9/25発売の芸術新潮が運慶特集号であり、この5153ページに永福寺の復元図と航空写真が出ていますのでご覧ください。今回の見学会で私が最も感動した場所がここです。奈良の平城京跡とか武蔵国分寺跡に行かれたことのある方はそれと同じような感じと思ってもらえばいいと思います。周囲にはいくつかの民家やテニスコートもありますが、大部分の土地は田んぼだったそうで、開発の手があまり入らなかったのが幸いだったようです。この場所は国の特別史跡にも指定され、鎌倉市世界遺産認定のために努力するはずですから、50100年先とは言わず、もう少し早く周囲の土地買収が進むかもしれませんが、私たちが生きているうちには無理かもしれません。また、この寺の建物が建っていた位置の向かいの山から経塚遺物が発見され、これが鎌倉歴史文化交流館に展示されていました。北条政子が埋納したものかもしれません。鶴岡八幡宮寺、勝長寿院永福寺源頼朝が建てた鎌倉三大寺院と言いますが、この永福寺跡が最も往時を偲ぶことができる場所だと思います。私も鎌倉では一押しの遺跡です。運慶も仏像を残していますが、多分下向しないで京都から送ったものと思われます。
 
鎌倉歴史文化交流館は最近できた施設ですが、ここの展示で特に目を引いたものが、上記の永福寺跡から発掘された荘厳具断片です。これについては以前大阪大学の三本周作氏が仏教芸術313号(2010年)、大阪大学発行フィロカリア29号(2012年)、金沢文庫運慶展図録(2011年)の3誌に岡崎滝山寺運慶作聖観音梵天帝釈天の荘厳具などとの比較として取り上げているものです。一度実物を見たいと思っていましたが、今回初めて見ることができました。なお、この永福寺跡発掘荘厳具断片についても、先に上げた芸術新潮10月号の95ページに写真と三本氏の解説が出ていますのでご覧ください。この意匠は滝山寺3体の他に、今回の東博運慶展の出品作である横須賀満願寺の菩薩像の右腕の臂釧でも類似品が使われています。(満願寺菩薩像は芸術新潮55ページと95ページ)金属製荘厳具は仏師本人が作るのではなく、専門の職人がいたはずですが、永福寺滝山寺満願寺と運慶工房の関わりがこの荘厳具を通して垣間見えるように思います。
 
この他、行った場所として和田塚は本当に和田一族の遺骨が葬られているのかは分かりませんが、鎌倉市内で和田氏の乱を偲ぶことができるのはここだけです。実際の戦闘は大倉御所や段葛、八幡宮周辺だったはずです。(和田義盛が浄楽寺運慶仏の発願者であることは当然皆様ご存知ですね。)
 
鶴岡八幡宮の正面に向かって右側、信号の位置から3050m程度海側へ行った商店街の一角に鎌倉時代都大路の段葛の位置と深さをそのまま見ることができる発掘展示があります。床面にガラス貼りで3mぐらいの深さ、かわらけの破片のゴミや道路の端を押さえていた材木が見えます。簡単に行ける場所なのでお勧めです。
 
釈迦堂谷は運慶とは直接関係ありませんが、今度10月末に目黒大円寺清凉寺式釈迦像の見学会を企画する予定なので、この関連として行ってきました。詳細な案内は後日投稿します。
 以上 by M