孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

【改訂版】 普賢菩薩騎象像の三化人

Takさんの 適宜懇切な報告を楽しく読ませて頂き・・・、出光美術館「祈りのかたち ─ 仏教美術」展が、図像学的趣旨も重視を 認識できて、益々行きたく成りました。

実は小生はここ数年、月2回 船橋の二和公民館で活動する 社会教育関係団体の 教養講座「 仏像の見方」の受講生を続けてまして、 先日の普賢菩薩の授業で、 仏画で、普賢菩薩騎象像の象の頭に 3人の人物らしきが配されて居るを 初めて認識しました。 
  
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  Yahoo ・ Googlg の画像検索では 「普賢菩薩三化人」で検索して下さい。

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其処では その三人が、 三化人(さんけにん)と呼ばれるだけしか教われませんでしたが、興味を持ちました。 どうやら三化人が居るのは絵画の普賢菩薩騎象像でして、仏像では少ないか存在しない様です。「普賢菩薩」単独仏画でも三化人を書きこんだ遺作もある様ですが、皆さん画像検索の時には「普賢菩薩十羅刹女」も してみてください「普賢菩薩十羅刹女」の方が三化人が多く居る様です。
  http://www.narahaku.go.jp/photo/exhibition/D028662.jpg
  国宝 普賢菩薩像               重文 普賢十羅刹女像 部分
    絹本着色                     絹本 著色 截金 掛幅
    平安時代  12世紀              鎌倉時代 13世紀
  東京国立博物館蔵              奈良国立博物館蔵



そんな折、Takさんの出光美術館「祈りのかたち 仏教美術入門」 を読みましたら その文中に、2幅の普賢菩薩像に付いての記述が在りました。 六牙象の頭上には蓮華台座とおぼしき台上に立つ極く小さな3体の人物(仏?)を載せています。(中略)白象は顔をまっすぐ前に向け、6本の象牙を描き、頭上にはやはり台座上に極く小さな3体の人物(仏?)を載せています。

これこそ三化人です。三化人でネット検索してみましたなら、 『日本国語大辞典』によれば、〈化人〉は「仏菩薩が、衆生を救うために、仮に人間の姿になってあらわれたもの。化生(けしょう)の人。」 
普賢菩薩の〈三化人〉については、『日本の美術 269号』に、観普賢経の「象の頭上に三化人あり、一つは金輪を捉り、一つは摩尼珠を持し、一つは金剛杵を執る」を引用した解説があり。が出ました。
化人については上の解説で十分かと思いますが、 化仏は皆さん既によくご存知の事と思います。衆生を救うため、その機根に応じて現れる化生の仏や菩薩ですね。 化人の場合では、現れたのが化生の仏菩薩でなしに化生の人と云う事ですね。 普賢菩薩の三化人でネット検索では、白象の頭頂の三化人は普賢観の三智の無漏頂にあることをあらわすものと出て来ました。「三智」とは声聞( しょうもん)・縁覚(えんがく)の智である一切智、菩薩(ぼさつ)の智である道種智、仏の智 である一切種智。の3種類の智慧の事で、
「無漏」とは、煩悩のけがれのないあり方だそうで、頂を付けますと・・・、煩悩のけがれのないあり方の頂点 と解しました。
三化人は、普賢観の三智の無漏頂にあることをあらわすことで、咀嚼すれば、普賢観の煩悩のけがれのないあり方の頂点を示す三化人と云う事なのでしょう。

解りずらいので、簡単には?と 知恵袋に質問してみました。      
カテゴリマスターの  liebemuenchenerin_zweiteさんから お応えを貰えました。
2017/7/2711:29:57
『仏説観普賢菩薩行法経』
象の頭の上に当って三化人あり、一りは金輪を捉り、一りは摩尼珠を持ち、一りは金剛杵を把れり。杵を挙げて象に擬するに象即ち能く行歩す。

エピソードというより、解釈ですが、このは『摩訶止観』巻二上によれば(『摩訶止観』:仏教の論書の1つで、止観(止は三昧、観は智慧。仏教瞑想 はこの2つから成る。)の論書、「象有大力表法身荷負。無漏無染稱之爲白。 頭上三人一持金剛杵
。一持金剛輪。 一持如意珠。表三智居無漏頂(云云)。」とあって、普賢菩薩の三智を表す。とのお応えを頂きました

『智度論』:(
『 摩訶般若波羅蜜経) 』を註釈したもの)では「三智」を、①声聞縁覚の智である【一切智】:一切のものについて完全に知る智慧。・②菩薩の智であるの【道種智】:衆生を教化するために道の種別を知る。・ ③仏の智である【一切種智】:すべての存在について平等の相とともに差別の相を知る。  としている。

簡単では無かったですが、 どうやら独習は、大きくは違ってなかったような気がします。 liebemuenchenerin_zweiteさんから お応は難しく難解です。 理解された方は 孤思庵に、解説をお願います。 m(__)m


『仏説観普賢菩薩行法経』:普賢菩薩を観ずる方法と、六根の罪を懺悔する方法などを述べたも経典(未だ 悟りに至らない衆生は 不足を自覚し懺悔し 一心に菩薩行を実行しなさい という教え)
白象三化人の事を説く経典は、仏説観普賢菩薩行法経(普賢経、観普賢経と略す)
法華三部経の第三部。法華三部経はここで終わるため、結経とも呼ばれる。一般には略して観普賢経と呼ばれる。
其処には、六根の業障を懺悔して消滅させる行や、その行の意味について解かれている。その懺悔とは "端座して実相を思え"、つまり静かに端座し諸法の実相について深く思念すべし、と説かれている。この内容から、懺悔経(さんげきょう)とも呼ばれる。

ここで図像学にしましょう。 普賢菩薩を載せる白象 その鼻先に 赤い未敷蓮華を持つ、 象頭には三化人が居る。

 この事を語る経典翻訳本を探しました。 
その内で三化人の事を語る部分らしきを見つけました。 
真の心で本質をはっきりと見きわめ、大乗経を心に浮かべてよく考え、心を休めることなく絶え間なくするならば、華を見る、それは敷き詰められて、金色の光を放つ。
その蓮の花弁は、甄叔迦(けんしゅくが)の木に咲く花の色に似た赤い宝石や、不思議なほど神聖な珠玉によって花弁が出来ていて、金剛宝によって、雄しべが出来ている。
様々な姿となって現れた仏が、蓮の花びらに、お座りになっているのが見える。
多数の悟りを求める修行者が、蓮の華の雄しべに、お座りになっている。
さまざまな姿となって現れた仏の眉間から、また金色の光を放って、象の鼻の中に入る。
紅の蓮の華の色であり、象の鼻の中から出て、像の眼の中に入る。
像の眼の中から出て、像の耳の中に入り、像の耳から出て、象の頭の上を照らして、変化して金の花弁を作る。
象の頭の上に、三人の変化した人がいる。独りは金色の輪を持ち、一人は竜王の脳中から出て望みをすべてかなえるという珠玉を持ち、一人は金剛杵を持つ。
金剛杵を挙げて象に突きつけると、象はすぐに良く歩く。
脚は大地を踏まず、虚空を踏んで歩き回る。
大地から浮かび上がること七尺、しかも大地には印文のある足跡を残す。
足跡の印文の中には、仏が備えている三十二相の一つである、足の裏にある千の輻(や)をもつ車輪の形の文様がある。
一つ一つの車輪の形の文様から、大きな蓮の華が生える。
この蓮の華の上に、姿を変えて現れた一つの象を生じる。
また七つの足があり、大きな象に追随してゆく。
足を挙げ足を下げる度に、七千の象を生じる。
これらの全ての象は、大きな象に仕えて随従する。
象の鼻は、紅の蓮の華の色であり、その上でさまざまな姿となって現れた仏が、眉間の光を放っていらっしゃる。
その光は金色であり、前のように象の鼻の中に入り、
象の鼻の中から出て、象の眼の中に入り、
象の目から出て、還って像の耳に入り、
像の耳から出て象の頭の上に至る。
段々と上って象の背に至り、姿を変えて金の鞍になって、七宝によって飾られる。
鞍の四面に、七宝でできた柱があり、多くの種類の宝で飾られた台座となる。
台座の中に、七宝でできた一つの蓮の華の雄しべがある。
その蓮の華の雄しべは、百の宝石によってできている。
その蓮華の花びらは、竜王の脳中から出て、望みをすべてかなえるという大きな珠玉で出来ている。
一人の悟りを求める修行者が、結跏趺坐している。名を普賢という。(以下は省略)

止観に依り華を見る。その花びらは赤い宝石の色をして金色の光を放つ。その上に色々な化仏が居る。化仏の眉間から、また金色の光を放って、象の鼻の中に入る。象の鼻の中から出て、像の眼の中に入る。めから出て像の耳の中に入り、その耳から出て、象の頭の上を照らして、変化して金の花弁を作る。そして象の頭上に、三人の変化した人がいる。独りは金色の輪を持ち、一人は竜王の脳中から出て望みをすべてかなえるという珠玉を持ち、一人は金剛杵を持つ。と、白象頭上の蓮華座の三化人を表現してます。 此処で象が鼻先に執つ未敷蓮華が紅蓮華と認識しました。 頭に居る三化人の小ささは 逆に 普賢の大きさを表現していたのだと気付きました。 不勉強で解らないのが三化人の持物です。金色の輪の意味は法輪で良いのでしょうか? 珠玉は如意宝珠で良さそうです。金剛杵は煩悩を砕くバジュラで良さそうですが、 何となく巨体の像を操る 道具の様な気もしますが、三化人の普賢の三智の無漏頂にあることをあらわすと どう結びつくのかが???です。
「三智」とは声聞( しょうもん)・縁覚(えんがく)の智である一切智、菩薩(ぼさつ)の智である道種智、仏の智 である一切種智。の3種類の智慧 どの様に繋がるかも 解りません! で、普賢の乗る象の頭の三化人の事は 理解に及ばないのです。 それに普賢の現した三化人が化現の人 その人である理由が?です。 化仏で良いのではないですか? 

三化人の持物(金輪・如意宝珠・金剛杵)を持つ意味が良く解らないので、その説明をネット検索でさがしてみました。

六牙の白象 蓮崋の花 金色 化仏 金輪 魔尼珠 金剛杖 波邪力 www8.plala.or.jp/kanjizai/M167.htmlの解説に見つけました。

 六牙の白象の上にいる化仏 が持つ大きな金輪 は  すべての衆生を自由自在に治める 仏の神通力を示しています。
 そして ものごとの実相を見通す智慧の力の顕われが その金輪にあるー魔尼珠なのです。
 また 金剛杖 は 罪を打ち砕き悪人を改心させる力である 破邪力を示しています。
ですから 仏の教えを実行する衆生は やがて 摩訶不思議な神力が自然に身についてくるのです。
また 化仏 が金剛杖
を象に向けると象は歩きだす‥‥という形容は
 仏の教えの実行は まづ 悪や罪を打ち砕き吹き消す懺悔さんげ の行動から始まる という教えです。
また 六牙の白象が七支の足で七尺の空中を歩くと 地上にはその印文いんもん(足跡)が
 車の輪の形でくっきりと残り そのすべての輪には 美しい大きな蓮崋の花が咲きほこる‥‥という形容は  理想に向かい高く進む衆生には 喜びごとの現実が顕われ出る という教えです。
また その蓮崋の上に七千もの象が生まれ 皆 六牙の白象に従い進み行く‥‥という形容は
 一人が仏の教えを実行すると その真理の行いである善行が周りを感化しながら波及するので
 次から次へと 仏の教えに導かれる人々が生まれ 先人を手本にして仏の教えが実行されていく 教えです。

 その大白象の背中には 普賢菩薩がー結跏趺坐して乗っていて   象を静かに歩ませ進みながら 周囲の衆生に美しい普賢の行を行い見せ 衆生を感化かんか
していきます。
そして 大乗の教えを一心に修行する衆生を見つけると 普賢菩薩は大白象を衆生の前で立ち止めて  象の口を大きく優しく開かせて
仏の真理の教えと普賢の行を説くのです。
 その時には 白象の六牙の池の蓮崋れんげ の上で多くの楽器を弾き いい音色を奏でる美しい女性も  楽器を弾くのを止めて背筋を伸ばし やわらかに微笑みをうかべて  ー衆生よ 一心に修行に励むならば 必ず大乗の悟りを得ることができるのですよーと その衆生に  諸法実相しょほうじっそう の悟りを開く真理の大乗の教えを 声清らかに称とな えるのです」。と在りました。


観普賢経に、普賢菩薩が大きな白象に乗り、その象の頭に三化人が金輪・如意宝珠・金剛杵を持っている。書かれてます。 観普賢経とは 普賢を観想する経典と読めます。
この様に、経典記述に依りて、仏画・仏像が その形に在る、プロセス的が解ります。 私はその様な意味を知る仏像趣味が好きです。 図像学と思います。 同好の士の存在を期待します。 



仏典のお好きな方へ、「観普賢経」は短い経典です。 探して読んでも面白いかもです。 
現代語訳の

仏説観普賢菩薩行法経(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほう ... - 正法

syoubou.wordpress.com/..
が読みやすかったんで、お奨めに引用してみます。
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このように私は聞きました。ある時、仏が、インド中部の毘舎離国(ガンジス河の支流ガンダキ河の東岸にあるベーサール)の大林精舎の重閣講堂にいらしたとき、諸々の出家男子にお告げになった。
三ヵ月後に,私はきっと、最後の悟りを得た境地に入るはずだ。
尊者阿難は、すぐに座より起って衣服を整え、手を合わせ合唱して、仏の回りを右回りに三度回り礼をして、ひざまずき合掌して、注意深く如来を見奉り、まばたきもしなかった。
長老の摩訶迦葉と、弥勒菩薩摩訶薩もまた座より立って、合掌して礼をして、世尊の顔を見上げた。
その時に、三人の偉大な悟りを求める修行者は、口をそろえて同じように仏に向かって言った。
世尊、如来が世を去られた後に、どのようにして、生命のあるものすべてに悟りを求める修行者の心を起こさせ、すべての生命のあるものに平等な救済と成仏を説く経典を修行させ、物事の本質をあるがままに心にとどめ、常に真理を求める心を忘れず、絶対平等の真実である善悪の報いによって、各人が受ける境遇を心に浮かべてよく考えさせることができるのか。
どのようにして、この上ない悟りを求める心を失わせないようにさせるのか。
どのようにして、また当然、煩悩を断ち切ることなく財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲を離れることなく、生命活動や感覚の原動力を清浄にし、諸々の罪を滅して排除することが出来るのか。(続きますが、ここでは以下省略します。) と在ります。 その他にも 現代語訳が 幾つかある様です。 お経が好きな方は 探して読まれましたらと・・・、御紹介してみました。


今回のブログは背伸びし過ぎで、自身の咀嚼が充分と行かずで、解り易く書けてません、ただ参考に成る文章を見つけての引用紹介が主と成ってしまいました。 良い説明には成りませんでしたが、仏像のかたち探求の、自分の勉強には成ったと思って居ます。