孤思庵の仏像ブログ

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仏像の美術史的概要勉強の 独学自習 を開始

仏像趣味なのでは在りますが、仏像の誕生や、その系譜の知識は弱いので、粗く勉強し直そうかと思いました。


仏像の趣味人は多く居ますが、その多くの関心は、 日本の仏像に限られる様です。 私も、日本の仏像ばかりに関心で・・・、 その源流の印度、中国、朝鮮のそれは ほとんど無知な状態です。 しかし 仏像の源流は知らなければならないとの思いで、村田 靖子の仏像の系譜 ガンダーラから日本まで―顔貌表現と華麗な裳懸 座の歴史。を昔に乱読をしましたが、所詮に興味が薄かったので、行き着くところ、殆ど身に付きませんでした。 
仏像の起源で覚えて居ることは、釈迦入寂後の当時のインド社会では、主流であったバラモン教は祭祀を中心とし神像を造らなかったとされています。また、その他、仏教以外の宗教も存在しましたが、どれも尊像を造って祀るという習慣はありませんでした。釈迦が出生した頃の原始仏教もこのような社会的背景の影響下にあり、仏像はつくられていませんでした。その理由には、仏像をつくる事は、タブーとされていたと教わったのですが、最近は少し論調が変わってきてまして・・・、往時の、まだまだ実在の釈迦の素晴らしさが強く残って居る時には、その釈迦の尊厳さを表現は不可能との思いが強かったのではと思われて来てます。 人身の像は作れても、それに 常人とは比べ物にならない 尊厳さを現す術がなかったように思えていたとされて来てます。 
その様な中、しかし釈迦の信者たちは、なんらかの具体的な形として釈迦の教えを残したいと考えました。
崇拝・礼拝・信仰できる対象として考え出されたのが、象徴物での表現でして、具体的には(釈迦がその下で悟りを開いた)菩提樹・(釈迦の説法を象徴する)法輪・(釈迦の足跡)仏足石などです。
しばらくの間は上記の様にの象徴によって表現され信仰されていましたが、時間がたつにつれ信者達は実際の釈迦像をつくり始めました。 しかしその像のモデルの釈迦には、並の人に在らずの表現の必要が出まして、それで其の方策、手段として考え出されたのが、三十二相八十種好で、
釈迦には常人とは異なる32の大きな特徴と80の細かな特徴があるとする、三十二相八十種好を持つとの表現に至ったのでした。 そこで人物像とは相違の人を超えた仏像が誕生したのです。
 
仏像が作られ始めたのは紀元後1世紀後半~2世紀頃で,そのキッカケは,異文化の影響が大きいといわれています。釈尊カースト制度を否定した考えだった様です。輪廻思想は仏教のつくった思想では無く それ以前からインドに在った考えです。カーストのもとでは、低い階層のは高い階層と比べて遥かに悲惨でした。そんな下層の民衆が革命を起こさない様にする「諦め」と「来世への希望」によって下層階級の爆発を防ごうとマインドコントロールだったのが、輪廻思想はだと思われるそうです。

釈尊カースト制度否定的は社会制度そのものではなく、個人的・実存的な危機感であったように思われます。もし、釈迦が社会制度に対して影響を与えたとすれば、それは、目的としてそうなったのではなく、彼の思想の間接的な影響であったと思われます。

そして、そのカースト制度(ヴァルナ・ジャーティ制)の外側にあって、インドヒンドゥー教社会において最も差別されてきた人々の不可触民が居ます、未だ勉強が進んでないのですが・・・、不可触民のルーツは外国系奴隷に在りはしないかと推察します。 その異国奴隷の中に ギリシャ、ローマ系は居なかったのでしょうか? 居たでしょう、居たとすれば、 ギリシャ、ローマ系外国系奴隷は不可触民であり、カーストに否定的な 仏教の信者になる事は、大いにあり得ます。 ギリシャ、ローマ系の仏教信者ならば、仏像の概念に、 ギリシャ、の神像の概念を持ち込む可能性は 大いにあると思われます。 その考え方に間違いが無ければ、 人間型の仏像の誕生に 大いに根拠となると思うのですが・・・、 残念ながら、その辺には詳しくありません!どなたかお教え頂けたらと思います。

仏像が作られ始めたのは紀元後1世紀後半~2世紀頃で,場所は西北インドガンダーラ地方と北インドマトゥーラ地方(現在はパキスタン)に仏教が伝わり、仏像が盛んに造られるようになったは周知です。当時、インドでもっとも大きく権力をもっていたクシャーナ王朝は,西北インドから中部インドにかけて広大な領土を支配していました。
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       ガンダーラ地方 と マトゥーラ地方を探してください!


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ガンダーラ 仏像                    マトゥーラ仏像

その西北インドガンダーラが、その南、中部インドにマトゥーラ地方が位地してます。クシャーナ王朝の避暑地にガンダーラ、冬には南のマトゥーラにクシャーナ王朝は季節移動したと考えられます。 さすれば、クシャーナ王朝が 仏教に傾倒したとすれば、 冬夏の時間のズレだけで、同時期に仏像が二か所で作られ始めたは納得が行きます。 制作名当たったは ガンダーラとマトゥーラの工人で、一方のガンダーラにはクシャーナ王朝の首都があったガンダーラ地方は、紀元前4世紀のアレクサンダー大王の侵入以来,間断的にギリシア人が支配していた地域でもありました。
クシャーナ族が統治する前から異文化、特に彫刻芸術で名高いギリシア文化と接していた場所であり、インド文化だけに縛られていませんでした。クシャーナ族は、インド人と同じアーリヤ系の民族でしたが、もともとはイラン系騎馬民族です。異民族、異文化であったため,従来のインドの「仏像をつくらない」というタブーに左右されなかったのかもしれません

それがガンダーラで仏像が誕生の理由と云われてます。 その様な経緯ですのでガンダーラで作られた菩薩像、その風貌、髪型にギリシア的なものが強く残り、衣文もギリシア彫刻のように動的であります。もう一方のマトゥーラの仏像はギリシャペルシャ、インド等の影響を受けたガンダーラ美術とは異なり、「マトゥラー美術」と称されるそれは土着的なインド特有の美術様式を備えている。特にインド中部における仏像製作に関しては中心ともいえる都市であった。マトゥラー美術はグプタ朝時代に最盛期を迎えたが、5世紀頃に侵攻して来た遊牧民エフタルによる仏像破壊によりその幕を下ろすこととなる

その様な経緯もあるので 仏教の東進に 伴う仏像の伝播でして、その尊榕はガンダーラ仏像の様式が伝播し、更に中国、朝鮮の仏像に影響していったのです。http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/images/image-1/0801-04.JPG





【誤謬が在りますかと思います、ご指摘、御教授願います。m(__)m】