孤思庵の仏像ブログ

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Takさんの投稿 「石清水八幡宮」本殿昇殿参拝

【以下、Takさんの投稿文です】

石清水八幡宮」本殿昇殿参拝に行って来ました。
 
 
平成281217日(土)
いつもの通り、早朝自宅発、新横浜駅・新幹線午前6時始発の列車で、京都へ向かいました。京都駅に着くころには、曇天の空模様も雲が無くなり、青空が顔を覗かせてきました。
午前8時に京都駅到着後、そのままJR奈良線で「東福寺」駅へ、待ち時間わずかで京阪電鉄に乗り換え「八幡市」駅下車。午前9時過ぎに駅前広場に到着しました。駅前の観光案内所で、「八幡市マップ」と「石清水八幡宮パンフレット」をもらい、スタートです。眼の前の小高い山、「男山」(おとこやま)の叢林に囲まれて鎮座する「石清水八幡宮」(いわしみずはちまんぐう)があります。駅からは社殿などの概要は、全く叢林に囲まれて遠望も出来ません。もう時期的には、黄葉紅葉の景色には期待が出来ませんでしたが、それでもあちこちで、眼にも鮮やかな残りの風情を望むことが出来ました。駅前には「京阪男山ケーブル」という、多くの参拝客が利用するケーブルがありますが、案内所では、そちらの利用のほうが展望がよく、片道200円で頻繁に発車しており、鳥獣保護区になっている地域なので、降車してからは自然いっぱいに満喫出来るそうです。しかし、私は例によって「歩き」です。駅前バスターミナルを越えて、静かな駅前からの道を辿ると商店街のすぐに、「石清水八幡宮」の石柱と、「一ノ鳥居」と奥に向かう「表参道」が眼の前に広がります。いつの間にか雲一つない、かっこうな上天気となっていました。ここから標高約150mの山登りというか、登拝が始まります。
今、何故に「石清水八幡宮」なのか?一つには、昨年・平成27年(2015年)10月に「国宝」に新指定されたこと、また、同年12月の「奈良博・講座」での奈良博・岩田茂樹上席研究員の「東大寺・僧形八幡神像の再検討」講座での、「東大寺大仏造立時の黄金産出の託宣」、「東大寺鎮守の八幡神像のやり取り」などについての、いきさつなどの歴史説明が気になり、そして何よりも私は、まだ出かけて参拝したことが無かったからです。まずは、奈良に縁の深い「石清水八幡宮」に行かなくちゃ。ただ単に出かけても、何も分からないで見終わって帰ってくるのでは、つまりません。ふと眼にした「石清水八幡宮」の国宝指定記念によるパンフレットの下に、「昇殿参拝」の案内が書かれていたので、飛びついたのです。1日の午前と午後の2回約40分で、神職による説明を受け、巡拝が出来るというものでした。そこで、いざ出かける段になって、幾つかの資料に、事前に眼を通しましたが、短時間では頭に入りませんが、それでも大略を押さえたつもりで、出掛けました。
司馬遼太郎の「街道をゆくNo.34 大徳寺散歩、中津・宇佐のみち」編では、「宇佐の裏道」の章に、石清水八幡宮についての、以下のような若干の説明があります。 『自分は外来神だが、日本国の領域を守る。という意味のことを、宇佐の八幡の大神は何度も託宣してきたために、平安遷都(794)から65年経った貞観元年(856)、京都の南のほうの、京都の御所の裏鬼門に当たるといわれる、男山(おとこやま)の山上にまつられるようになる。語ることの多い神だから、そのことの託宣はあった。奈良・大安寺の僧行教(ぎょうきょう)が宇佐に参篭するとき、「われ、都の近くに移座し、国家を鎮護せん」と託宣されたという。石清水八幡宮が造営されるにあたって、木工権允(もくのごんのじょう)の職にあった橘良基がその衝にあたった。これより前、そこに石清水寺という古寺があったのでこれを神宮寺とし、神社とも寺ともつかぬ性格のものが出来たが、大神(おおかみ)ともよばれ、また大菩薩ともよばれるこの神にはむしろふさわしかった。型式は宇佐にならって、正殿と礼殿とがそれぞれ三宇で、計六宇のものができた。平安時代、朝廷の石清水への尊崇はじつにあつかった。荘園の寄進が相つぎ、伊勢神宮に次いで国家第二の宗廟といわれるようになった。私は石清水八幡宮の山に何度かのぼったが、殿舎の荘厳さは宇佐におとらない。おなじ八幡造ながら、石清水のほうは、瓦ぶきと檜皮ぶきが混用されているあたりに、かえって変化のおもしろさがある。八幡の神は、鎌倉幕府がひらかれると、鶴岡にも勧請された。』
「月刊 文化財」平成2712月号には、平成27年に新しく「国宝」に指定された文化財のうち、「建築物」のジャンルについて説明しています。石清水八幡宮は、『桂川宇治川、木津川の合流点にある男山に所在する』との出だしから、『創建は貞観二年(860)に遡り、当初より神仏習合八幡宮寺を構成していたとみられる。創建以来、皇室による行幸啓や社殿修理が繰り返され、平安時代中期以降は、源氏が八幡神氏神としたことなどにより、武家の崇敬も集めた』とあり、以下は本社殿などの構成や構造上の詳細について説明されています。この説明文には、今まで馴染みのない用語などが溢れていたので、現地で使えると思い、コピーしてザックに詰めて行きました。
 
午前920分「石清水八幡宮」に足を踏み入れます。朝日を浴びた「一ノ鳥居」には、上部に「八幡宮」の扁額(神額)がかかり、金色の額縁の中に、青色の楕円形の地板があり、青地の真ん中に「八幡宮」の文字が金色で鮮やかに張り付けられており、説明板を観ると「平安の三蹟藤原行成」の書を、「寛永の三筆・松花堂昭乗」(しょうかどうしょうじょう)が書写したものだそうで、例によって「八」の文字が神の使いの「双鳩」(そうきゅう)、「神鳩」の姿を現しています。鳥居をくぐり、右手に「放生池」を観ながら砂利道の表参道をしばらく進むと、眼の前に「頓宮殿」(とんぐうでん)の門に着き、門を入ると回廊に囲まれた、ガランと広い境内の中に、神宮には似つかわしくないような、彩色や装飾の無い地味な「頓宮殿」の建物がデンと構えています。頓宮とは、「仮の宮」ということで、普段は使われていなく、建物だけが扉を閉じていますが、年に一度の「勅祭・石清水祭」で、山上の本殿から御神霊が御遷しされる重要な場所になっているということです。巡らした塀の先の奥の朱塗りの門から出ると、表参道のすぐ右手に「高良社」(こうらしゃ)(神職の話しでは「徒然草第52段」の逸話が有名だそうです。
あとで時間をかけて話しを聞いてみようと思います)が小さな鳥居の先に鎮座していました。その先左手には「安居橋」(あんごばし)という太鼓橋が小川にかかっています。一見すると「宇治橋」のミニチュア版のような感じで、素の木組みの、欄干柱には宝珠がついている、若干湾曲した太鼓橋風になった橋で、手摺の外下側には板塀のように薄板を張り巡らして、橋の半ばに一か所だけ、凸型に手摺付きの張り出しを付けているのも、「宇治橋」を真似たようです。古絵図には太鼓橋ではなく平橋になっているそうですが、架かる場所は、同じ場所だそうです。案内板には、元禄時代には「安居橋の朧月」は「八幡八景」のひとつとして、この橋が選ばれ、数々の歌が詠まれている、ということです。幕末の「鳥羽伏見の戦い」で焼失したが、再興されたそうで、現在は、石清水八幡宮の神事「石清水祭」(放生会・ほうしょうえ・生類を憐れんで川に解き放つ催事)の舞台となっているそうです。まっすぐ進むと、右手に「裏参道」の坂道を見送り、「二ノ鳥居」と左右に「狛犬」が鎮座しています。このあたりからは少し道が狭くなり、手入れが行き届かないのか、落ち葉の落ちるのが早いのか、落ち葉が降り積もっている、うっかりすると歩いていても、落ち葉で滑ってしまいそうな、緩やかな登り道となります。そしてさかんに眼の前、鼻の前にさらさらと落ち葉が降ってきます。その眼と鼻の先の右手に、「七曲り」という、急な崖や石垣に沿った階段状の石畳みの道が、幾折りにも続きます。少し喘いで登ったところで、「影清塚」(かげきよつか)という、一本の大木を囲んで、石塔などが置かれた小広い場所に着きました。そこは、参拝前に己の影を映し心身を拭い清めた場所だそうです。七曲りからは鬱蒼とした雑木林の中の道で、そこここに紅葉黄葉の鮮やかな色彩が眼に入ってきます。影清塚からは先に進まず、塚の裏側に回りました。あまり人の往来が無い、と思われるような、落ち葉のいっぱい積もった、踏み跡もないような石段を奥に行くと、「泉坊松花堂跡」(しょうかどう)という碑があり、雑木林の中には、杭で囲まれた住居跡の遺跡が広がっていました。「松花堂弁当」でよく知られている、江戸時代前期の真言宗文人僧・松花堂昭乗が晩年庵を結んで隠棲した住居の跡地だそうです。茶室の間取りが分かる跡地もあり、この間取りが大きな四角い区画の中をいくつもの区画が直線で仕切られるところは、なんだか松花堂弁当の折詰めを見ているようです。昔の人は、こんな雑木林の中の狭い敷地の庵で、生活しにくかったでしょう。八幡宮から少し離れた場所には、「松花堂庭園」、「松花堂草庵茶室」、「松花堂美術館」などを併せ持つ「松花堂昭乗」の史跡跡地があり、時間があれば寄り道して、「松花堂弁当」を食べに行きたいと思いました。
表参道に戻り、ひとしきり緩やかな上り坂を辿ると、頭上には、眼にも鮮やかな紅葉黄葉した樹々が参道に張り出し、覆い被さるように、最後の秋の輝きを競っているような風景が、しばし楽しめました。「神馬舎」という厩が左手にひっそりと建ち、建物を右手に曲がるとすぐに、「三ノ鳥居」が建っています。まっすぐ続く表参道の石畳みの左右には、多くの石灯籠(後で聞いたところ、八幡宮内には450基の灯籠が、あるそうです)が並び、左手に「鳩峯寮の庭」の木札が立つ、昭和の名作庭家・重森三玲(しげもりみれい)による枯山水の小さな石庭があります。四角張った石の数々と細かい砂は、八幡宮の「海神信仰」にちなむ「海洋」が表現されている、ということで、三玲氏は、以前台風で倒れた三ノ鳥居の石材を用いて作庭された、と記されています。三ノ鳥居を過ぎてすぐの表参道の真ん中に、石畳みを数枚外して柵で囲った中に、自然石が一つ埋め込まれており、石の上には多くの一円貨が乗っています。立札には「一ツ石 お百度石 勝負石」とあります。かつては参道を駆け抜ける競馬の出発地点だったそうで、そこから勝負石となったという説があるそうです。そして、現在は無いが南総門前に「五ツ石」という石があり、それが競馬の終点だったそうです。また、本殿参拝後に一ツ石の前で振り返り、拝礼して帰るという習わしがあったそうです。両側の雑木林が覆う参道の先には、わずかな石段で高くなった段差上のその先に、「南総門」が建ち、門の両袖から外回廊が巡らされている様子が分かります。ちなみに、ここまでは今回の「国宝」指定対象にはなっていなく、従来の通り「重文」指定だそうです。ところがすぐに気付いたのは、参道から南総門を望むと、南総門の正面奥に「本殿・楼門」が正面に観えないで、極端に言えば、半分しか観えないような状況です。地形的な問題からか不明だが、一直線上に建物が並んでいない、ということです。これも疑問点の一つとして後で聞いてみましょう。
さて、午前1030分過ぎに、南総門から域内に入ると、予想以上に狭い感じの境内正面に、本社社殿と左右に巡らした廻廊、正面の入り口部分に楼門があり、左右には幾つかの社殿が建ち、その各々は、檜皮ぶきや瓦ぶきの屋根が重なるように入り組み、荘厳な雰囲気を感じました。「謡曲・弓八幡」の由来を説明した立札があり、八幡宮の神徳をたたえた謡曲、ということで、八幡大菩薩が源氏の氏神弓矢の守護神であるから、弓と矢と幡との三つの兵具に準えて「弓八幡」と名付けた、とありました。曲の作者である「世阿弥」は平和論者で、兵具に寄せて武威・戦勝を祝うのではなく、武威を収めることを祈った、「厄除け」ということです。未知のことが、こうして少しでも教えられるのはうれしい限りです。しばらくは、パンフを見ながら、境内の建物や大きな神木などを観て廻りました。祀られている御祭神は、「神功皇后(じんぐうこうごう)」、「応神天皇(おうじんてんのう)」、「比咩大神(ひめおおかみ)」だそうです。
午前11時になり、指定された場所をうろついていたら、同じ様に「昇殿参拝」希望者の2組み4人が待っていました。若手の神職の「吉田」さんから挨拶があり、すぐに本殿に上がり、いろいろと巡りながら、お話しを伺うことが出来ました。最初に舞殿に入り、拝殿での神職のお祓いがあったのですが、左足の具合が悪く正座が出来ず、苦闘してしまいました。説明で分からないことを確認するために、吉田さんにいろいろ尋ねることとなりましたが、他の参加者からは、拝観途中でも何も質問が無く、吉田さんからの説明を頷いて聞いているようで、個々に感心して観て巡っている様子でした。何故か拝観の最中は、私と吉田さんの二人で観て廻っている感じになりました。お陰でいろいろと教えていただき、大変有難かったです。吉田さんからご教授いただいたことを整理すると、以下のようなものです。聞いたのだけど忘れたこともあり、主だったものだけを「メモ」を頼りに拾ってみました。こんなにいろいろと教えて頂けるとは考えず、「メモ」が雑駁なものだったので、思い返すのが大変です。
順路の最初に、「石清水」の由来について伺ったところ、「男山」山上に八幡宮を建設するきっかけとなったのは、男山の山上付近、「東総門」付近に清水が涌く場所が発見され、建設の端緒となった、そこから「石清水」との名前が遺った、というような話しがあるそうです。話しには、「行教和尚」が「宇佐神宮」に籠り日夜熱祷を捧げ、八幡大神の「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との託宣をうけたという話しがありました。でも、そこには男山に「石清水」が涌くことまでは、言及されていません、とのお話しでした。しかし考えるに、初めは何より「水」の有る場所が、活動の場所・拠点だったのですから、八幡大神は清水が涌くことを知っていたうえでの、託宣だったのでしょう、と自分勝手な解釈をしてしまいました。




  1. 「南総門・回廊」の先が途中から「築地塀」になっていることに気づき、尋ねたところ、もともと南総門からの回廊は、本殿を囲んでいなくて、本殿奥の「若宮社」などをつなぐ敷地境界塀でしかなく、簡単なものだったが、現在の壁は、戦国時代に織田信長の寄進によるものと云われており、瓦を幾重にも土を挟んで重ねて築いた耐火性、耐久性に優れたものとなった、と云うことだそうです。このような塀は、法隆寺東大寺などお寺でよく観るもので、お寺に多いものと思っていたので、興味がわきました。戦国時代には信長や秀吉など、多くの武家との関係があった証拠になります。 
     
  2. 本殿前の「幣殿」(へいでん)と「舞殿」(まいでん)に上がり、お祓いを受けて、周りを見渡していたところ、吉田さんから、質問されました。「幣殿と舞殿」の中にいくつもの八幡宮の神紋である「勾玉型の文様」が三つ組み合わさった「三つ巴」の紋があるが、巴紋の尾の流れる向きが違う、というものでした。見渡すと梁や柱、屋根裏の蟇股などの各所に彫物があり、その中で神紋は「尾の流れは左回りの三つ巴」であるというが、幣殿の蟇股にある4つの三つ巴神紋の中に、1つだけ右回りの巴紋があるというのです。それが何処に架かっているかすぐに分かりましたが、これは、社殿を建設して完成してしまうと、後は朽ちるだけとなるので、朽ちるのを恐れることから、あえて何時までも完成させないために、間違えた個所を造っておく、というものだそうです。日光の東照宮などでも、同じような話しがあるようで、人間の信仰として、何処でも同じことが為されているのだな、と思いました。
     
  3. 「幣殿、舞殿」に上がった際に、両殿ともに仕切り壁や窓が無く、吹き曝し状態なのでよく周りが見えたが、舞殿に上がってお祓いを受けた時に、最初に気付いたのが、舞殿の両側の狭い場所に、廻廊から頭を出すほどの、少し大きな木が植えてあったので、吉田さんに伺ったら、「橘」の木だということでした。秋から冬にかけて黄金色の実がなるそうです。そういえば京都御所では「右近の橘、左近の桜」というが、何故両方とも橘なのか?と伺ったところ、石清水八幡宮宇佐八幡宮から勧請した行教和尚の紋が橘だったことと、創建時の殿舎を建設したのが、木工権允の職にあった橘良基であったことと関係があるのではないか、ということでした。とにかく、由来については何も記録が残っていないような、あるいは手掛かりが少ないということで、吉田さんも説明に苦慮しているそうです。
     
  4. 「本社殿」の「楼門」前の石段に、板材で作ったスロープが設けられているのは何故かと伺ったら、普段は、参拝客でも何処の誰でもが、楼門前の石段は利用出来ない、写真撮影用にはスロープを外すけれど、という。これは、楼門前の石段は、神事の際に、神のお使いである神官や、宮中の関係者が入殿するのにしか使えない、ということでした。
     
  5. 「本殿、幣殿、舞殿」の屋根が檜皮葺、そのほかの武内社(たけうちしゃ)などの建物の屋根が瓦葺ということが気になりました。パンフを見ながら吉田さんの話しを聞いたのですが、早いのでメモが満足に取れませんでした。話しでは、今回国宝に指定された「八幡宮本社」は、貞観元年(859)に、木工寮権允・橘良基が社殿を完成させたが、以降幾回も造営、修理を繰り返し、現在の社殿は、徳川3代将軍家光の時代の寛永11年(1634)の修造によるものです。本社は、東西南北約40メートル四方くらいの高い石積みの基壇上に建てられた、廻廊で囲まれた内部に楼門、内殿と外殿を前後で組み合わした、瑞籬で囲われた「八幡造形式」の「本殿」と「武内社」が並び、幣殿と舞殿が楼門と外殿をつなぐ形になっています。正面楼門は、入母屋造りの建物で、唐破風屋根の拝所を備えているものです。幣殿と舞殿は切妻造り屋根で、舞殿の屋根は、楼門の屋根と噛みあい状態で重なることから、楼門から外殿までは、雨に濡れずに移動出来るようになっています。本殿を囲む瑞籬には、欄間彫物をはじめ、各種の極彩色の花鳥類などの彫物、紋章などが施され、荘厳な雰囲気の楼門から左右に伸びる廻廊は、廊下通路の中央に、柱を立てて、左右を分ける形になっており、朱漆塗りと金色の錺金具(かざりかなぐ)が鮮やかな構築物となっています。この「八幡殿造り社殿」形式は稀少で、同様の形式の遺構建築では最古で最大規模の建築だそうです。現本殿は、平成24年(20125月まで8年掛かった修理が終わったばかりで、朱漆塗りがキレイでした。

    司馬遼太郎の「街道をゆくNo.34 大徳寺散歩、中津・宇佐のみち」編「宇佐の裏道」の章に、宇佐神宮は『屋根は黒っぽい茶の檜皮でふかれている。建物のほうは朱塗で、黄金の金具が打たれ…、八幡造のおもしろさについては薦神社のくだりでのべた。二棟がセットになって、屋根が流れづくりの曲線をえがいているのである。この本宮には、そういう二棟セットの社殿が三つあり、ほかに申殿や渡殿、廻廊などがあって、そういう組みあわせが、本宮という建築空間をいっそうはなやかにしている。ともかくも全国四万余といわれる八幡さんは、すべてここから出ているのである、ということがおもしろい。』とあります。宇佐神宮にも本当に行ってみて、比較してみると、面白いでしょう。

     


    6. 「本殿、幣殿、舞殿」の屋根が檜皮葺、そのほかの武内社(たけうちしゃ)などの建物の屋根が瓦葺ということが気になりました。パンフを見ながら吉田さんの話しを聞いたのですが、早いのでメモが満足に取れませんでした。話しでは、今回国宝に指定された「八幡宮本社」は、貞観元年(859)に、木工寮権允・橘良基が社殿を完成させたが、以降幾回も造営、修理を繰り返し、現在の社殿は、徳川3代将軍家光の時代の寛永11年(1634)の修造によるものです。本社は、東西南北約40メートル四方くらいの高い石積みの基壇上に建てられた、廻廊で囲まれた内部に楼門、内殿と外殿を前後で組み合わした、瑞籬で囲われた「八幡造形式」の「本殿」と「武内社」が並び、幣殿と舞殿が楼門と外殿をつなぐ形になっています。正面楼門は、入母屋造りの建物で、唐破風屋根の拝所を備えているものです。幣殿と舞殿は切妻造り屋根で、舞殿の屋根は、楼門の屋根と噛みあい状態で重なることから、楼門から外殿までは、雨に濡れずに移動出来るようになっています。本殿を囲む瑞籬には、欄間彫物をはじめ、各種の極彩色の花鳥類などの彫物、紋章などが施され、荘厳な雰囲気の楼門から左右に伸びる廻廊は、廊下通路の中央に、柱を立てて、左右を分ける形になっており、朱漆塗りと金色の錺金具(かざりかなぐ)が鮮やかな構築物となっています。この「八幡殿造り社殿」形式は稀少で、同様の形式の遺構建築では最古で最大規模の建築だそうです。現本殿は、平成24年(20125月まで8年掛かった修理が終わったばかりで、朱漆塗りがキレイでした。


    7.「黄金の雨樋」についての説明がありました。本殿の内殿と外殿の建物の軒下に当たる「相の間」に、横に架かった金色の半円柱の、構造物が見えました。垣間見えるのは、「織田信長寄進の黄金の雨樋」というもので、普段は見られないそうですが、このような時だけに拝見出来るそうです。織田信長が山崎の寺に逗留していた時に、八幡宮の雨樋が朽ち、雨漏りが絶えないことを聞き、翌年に木製の雨樋を黄金に造り変えさせたということです。現在見せてもらえるのは、軒の下に飛び出して見える真鍮に金メッキをしたもので、本物は、長さ二十センチ程度の半円筒形のものだそうです。本殿社殿の屋根からの雨水を外に排出するのに、軒下を黄金の樋を設けて外まで出して、軒から垂直に水を落とす木筒を木枠で囲んで本殿基壇まで落としています。これは、天災等の有事の際は、黄金の雨樋を換金し、八幡宮の復興に充てる、という言い伝えがあるそうです。そういえば、先に紹介した、司馬遼太郎の「街道をゆく
    No.34 大徳寺散歩、中津・宇佐のみち」編の「宇佐の裏道」の章に、宇佐神宮は『建物のほうは朱塗で、黄金の金具が打たれ、樋までが、黄金であることにおどろかされる。「宇佐の黄金樋(うさのきんとい)」というのは、神社建築のなかでも、聞えたものであるらしい』とあるのを思い出し、吉田さんに伺ったが、宇佐神宮のことは詳しくは知らない、とのことでした。
    8.「神鳩」は、最初に観た「一ノ鳥居・扁額」だけでなく、「楼門」の錺金具(かざりかなぐ)や「本殿」の梁や柱など、瑞籬(みずがき)の欄間などの一部に、至る所にと云えるほどに、さりげなく彫刻されています。吉田さんによると、何処に彫刻しているかの法則や決まりなどは、不明だそうです。それにしては描きすぎ? それでも何処の神鳩も朱地の壁や柱に、金色の木材で彫られて貼られているのは、鮮やかで綺麗です。楼門の正面蟇股に、一対の向かい合う神鳩がかかっていますが、よく観ると向かって右側の神鳩は少し嘴を開けています。これは、「狛犬」やお寺の「二王像」のように、「阿吽」の形になっているのではないでしょうか。その双鳩の上の梁の欄間に架けられた欄間彫物は、東方に当たる向かって右側に「虎」が、西方に当たる左側に「龍」の彫物が嵌め込まれています。これは、中国の四神(神獣)思想である、「青龍・白虎」(東方が龍、西方が虎)というのと、逆の架け方になるのではないか、と思って伺ったところ、なんでも、ご祭神を祀る位置と順番に合わせて逆に配置している、とも言われたり、あるいは徳川家康が寅年生まれで、八幡宮社殿を修復した徳川家光辰年であったことから、徳川家光が自分の干支よりも方角が、上位の位置にならないように配慮した、と云われているそうです。昔の人達は、古くからのしきたりやら、祖先を敬うという関係とやら、いろいろと単純でなくて、気配りせねばならず、厄介なことですね。

    9.「鬼門封じ」は、「東総門」に面する「廻廊・東門」の右手、東北の方角の社殿の石積み基壇の端に、牛の角を持ち虎の皮をまとった「鬼」がくるという丑寅の方角に、石積みを切り取ったように石積みを斜めに造った形になっています。これは角を持たないようにする習いで、「京都御所」の「鬼門封じ」は、角を凹型に壁を作るのと同じ考えだそうです。京の鬼門は、東北の比叡山延暦寺とともに、王城鎮護神様として朝廷から篤く尊崇されたことから、「伊勢神宮」に次ぐ「第二の宗廟」と称されるまでになっていました。時代は下りますが、源氏の「源義家」は、ここ石清水八幡宮元服の式を挙げたことから、「八幡太郎義家」と呼ばれました。よく知られているように、鎌倉時代には源氏一門に尊崇され、源頼朝は鎌倉に幕府を開設する際に、石清水八幡宮から八幡神を鎌倉に勧請して、「鶴岡八幡宮」を創建しています。

    10.「左甚五郎の目貫きの猿」という彫物について、吉田さんから話しがありました。瑞籬の西門の扉枠上部の、蟇股にある彫物は、琵琶の木に登り実を咥える猿の彫物が、極彩色で設えてあります。これは周りの欄干や瑞籬に架かる、他の150点もあるという欄間彫物が、樹木や花鳥、昆虫の図柄なのに、一つだけ違い、一説では、左甚五郎作ということですが、やはり作品の出来が優れているということです。猿の彫物に魂が宿り、夜な夜な蟇股から抜け出し、畑の作物を荒らし、困った百姓が八幡宮に相談したところ、八幡宮側では、猿が動けないようにと、右目に釘を打ち付けたので、その後猿は出かけられなくなり、畑を荒らさなくなった、という逸話があり、その逸話から目貫きの猿と、云われるようになったそうです。左甚五郎作の猿以外の彫物は、左甚五郎一派、あるいは一門の工人によって作られている、とも言われているそうです。「伝運慶作」ではないが、名の通った人物の威光は、何事につけても、良くも悪くも、利用されるものなのですね。


    11.忘れていました。参道から南総門を望んでも、本殿・楼門が正面に見えないということについてです。吉田さんもはっきりしたことは分からないそうですが、一般に言われていることは、建築上のミスではなく、南総門に入る前から本殿がすべて見通せるのは好ましくない、また、参拝後に八幡大神に背や尻を向けて帰るのは失礼だとの配慮から、中心線を外した、というものでした。古くから日本人の神様に対する思いは、並々ならぬものだったのですね。  

    12.今朝スタートした際に、「高良社」を通って来ましたが、そこでチラと聞いたお話しを、昇殿参拝後に、立ち話しですが伺ってきました。吉田兼好の「徒然草」の第52段に、仁和寺の僧侶が石清水八幡宮を参拝したことが無いと嘆いた時のことが書かれています。その後僧侶は、石清水八幡宮に参拝に行ったのだが、男山に登らず、麓の高良社に参拝して、そこが八幡宮の本殿だと勘違いしたまま帰ってしまった。帰ってから参拝していないのに気がつかないまま、参拝して来たかのように、得意気に参拝したことを披歴した。そこで、「私は本殿に参拝したが、他の者はその先の山へ登って行ったが、何があるのか?私は参拝が目的なので、余計なことはせずに山に登らずに帰ってきた。」と、言わなくてもよいことを云ってしまった、という話しだそうです。

     

    もっと教えて頂いたことも多くありながら、克明に記憶出来ず、メモ程度の記録では不十分でした。こんな調子で、吉田さんに話しを伺いながら、本殿昇殿拝観が終わり、午前1150分には、二人で一緒に楼門前に退出し、説明して下さったことにお礼を言って、別れました。その時には、一緒に拝観した2組の拝観客は、先にさっさと退出してしまったのか、もう姿は見当たりませんでした。

    その後、域内の諸施設を廻って、午後2時過ぎに、八幡宮を退出しました。八幡宮の域内には、「エジソン記念碑」なるものもあり、エジソンが発明した「白熱電球」は、試行錯誤の結果、フィラメントに当地・八幡地域の竹が最適だということで、使用されて実用化し世界的に普及したもので、発明50周年記念として、域内に記念碑が昭和9年に建立され、現在の記念碑は昭和59年に再建されたものだそうです。大幅に予定時間をオーバーしており、時間が気になっていて、幾つもの見どころを省略して来てしまいました。主だったものでも、「石清水社」、「石清水井」、「伊勢神宮遥拝所」など。松花堂弁当も食べず仕舞いになりました。本殿周囲のハイキングコースの自然や「男山ケーブル山上駅」、「神応寺」、「杉山谷不動尊」、「善法律寺」、「上津屋橋」などや、八幡宮周囲の史跡なども巡っていないことになりました。こんな状況が初めから分かっていれば、最初からすべての見どころを廻れるように時間配分の計画を立てればよかった、と準備不足を悔やみました。もう一度時期をみて、見落としたところや、特に本場の松花堂弁当を食べに、周囲の史跡を訪ねてみようと思いました。

    これから、八幡市駅から京都駅へ向かい、京博「泉涌寺展」に出掛けることにします。


20161227楼門から左右に伸びる廻廊は、廊下通路の中央に、柱を立てて、左右を分ける形になっており、朱漆塗りが鮮やかな構築物となっています。

【以上、Takさんの投稿文でした】
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