孤思庵の仏像ブログ

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最終日の前日に三井記念美術館の「松島 瑞巌寺と伊達政宗」展に、


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「孤思庵」                    

2016年11月15日 21:48
バクさん、
コメント有難うございます。御高説、ごもっともです。
勉強に成りました。

                    

Bakさん

2016年11月15日 06:53
                                                           
私も東博の後で立ち寄りましたが、ご指摘の通りだと思います。東北の秘仏で、たとえ秘仏で無くとも、簡単には拝観できませんので、また東京駅の近くでもありましたので訪れました。
中央の第一級の仏師の作は、これは仏像というだけではなく、彫刻として世界何処に出しても恥ずかしくない作品です。若い頃は、私もこうした一級品だけを見て回りましたが、年と共に裾野が広くなりました。
ここ数年、何組かの五大明王像を見ましたが、東寺講堂像が凄すぎて、これに比べれば他のはどれも稚拙に見えます。しかし、それでも何百年と受け継がれてきた仏像には、その地方の人々の想いのようなものを感じます。この仏像群も確かに漫画チックだと思いますが、こうした異形の仏像を見た事の無い地方の人達には訴え掛けるものは有るのだと思います。私は微笑ましく感じました。
先日も富山県の安居寺の聖観音像の御開帳に合わせて訪れました。暗くて良く解らないタイプの御開帳でしたが、それでも訪れて良かったと思いました。私は秘仏ハンターという訳では有りませんが、御開帳という機会が寺院を訪れるモチベーションとはなってはいます。
                  




【本文】
三井記念美術館の「松島 瑞巌寺伊達政宗」展(11月13日(日). 迄)を最終日の前日 11日に行ってきました。この瑞巌寺店に関して、仏像ファンとしては、五大堂の五大明王しかターゲットがなさそうで、そのポスター画像で見て・・・、

あまり迫力ないし、秀作なの?の感を持ちましたので、迷って居ましたが、「仏像愛好の集」の会メンバーからの誘いも頂きましたし、今年の春でしたか、千葉の仏像教室の研修旅行で瑞巌寺にも行ってまして、五大堂にも立ち寄りましたが、33年スパンの秘仏こと、当然にその五大明王は見られませんでした。そんな事も在り、次の33年後の御開帳に生きているはずもなく、まあ東京で見られるのだからと、重い腰を上げる事にしました。 

最終間際の土曜日 混雑を予想しましたが、開場時刻直ぐの時間帯の勢か、空いて居ました。時刻の勢と云うより、近年東京での公開の阿修羅・日光月光の両脇侍・仏頭・中宮寺の半跏思惟像とは知名度、ファンの垂涎が違うからと思います。他の陳列に目をくれず 直ぐに 五大明王像の所に直行しました。付いた時には殆ど人が居ませんでした。ゆっくり鑑賞できました。

2014年秋に松濤美術館醍醐寺展でも観ました。醍醐寺五大明王(元中院安置、「五大力等仁王会」の五大明王)に 何となく近い感じがしました。大きさも近い し、醍醐寺像と瑞巌寺像、共に10世紀の作と見られる点でも似た印象を与えるのかもしれない。しかし何といってもそれそれ漫画チックな顔立ち的な点が 大きい様です。そうは言っても、一方は門跡寺院塔頭に持つ真言宗醍醐派總本山、片方は勅願寺が出発であったかも知れないが、東国も奥州の寺院 、その競争は無理なのではないでしょうか? まず知名度からして違います。我が蔵書の中に、醍醐寺像は数多見ますが、瑞巌寺像は見えません、これは33年ごとの開帳の秘仏だからかもしれませんが、格が違うのだろうと思います。瑞巌寺像に付いて書こうと思ったのですが、「松島 瑞巌寺伊達政宗」展は既に終了の為、三井記念美術館のHPも変わってしまい、その他ネットで画像も探しづらい状況と成ってまして、思うに任せません。 やむなく、認知症気味の頭で思い出してみますに、同じ諧謔味のある顔でも、相違は歴然で、諧謔的には、醍醐寺像の方が上を行くように思います。瑞巌寺像には、脱しきれない中での諧謔と云うよりは、可愛らしさが在るように思えました。醍醐寺瑞巌寺いづれ五大明王像も教令輪身でありながら、何か怖くないです。教令輪身に相応しいと言えるのは、醍醐寺のもう片方、上醍醐の五大堂安置の 五大明王像でして、

此れとは歴然の差があります。怖い像に諧謔を持たせる。意味をうまく説明しがたいですが、
其の方のが、私としては、救われる気がします。 

瑞巌寺瑞巌寺五大堂の五大明王 を「仏像愛好の集」のお仲間と見てて・・・、 感じた事を少し書きます。翻波式衣文であるも、彫りは浅く、簡略なのです。不動像での、もっとの特徴は衣皺が尾を引かないで、突然に終わってしまうのです。幾つか並行に走る衣皺が、その終わりがなだらかな裾を引くのでは無しに、同時に数本の衣皺が突然に終わるのです。 結跏趺坐の膝小僧は衣(正確には裳裙)の皴が無いのは道理ですが、脛部分に在る衣皺は並行の襞の長さと言いますか端の終わりは上下でずれて行くはずですのに、この像では同じ垂線上に揃って、突然に終わるのです。

「瑞巌寺 五大明王」の画像検索結果




五大明王ですので、降三世明王軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王が居るのですが、それを比べると、各像に いささか出来の良し悪しが在るのです。 総体に、第一手の印相を組む臂は良いのですが他の多臂は実に丸太ん棒なのです。それでも我慢できそうな像と同にも良くない臂の像があります。そして足の出来もそうでして、良い方の像の足にはくるぶしが表されて居て、悪い像の足には、くるぶしが無く、生気が感じられません、きっと二人以上の仏師の分担製作と、帯同のお仲間とひしひそ話をしました。こんな事は、行かずにポスター横目にでは、解りませんので、行って良かったと思いました。

しかし、(お仲間に、お誘い頂いてて、申し訳ないですが、)今回の五大明王は余り感心出来ませんでした。秀作とは感じられませんでした。 人によっては33年毎開帳の秘仏に関心なのでしょうが、どうも私は秘仏開帳、公開に悲観的なのです。自分の鑑賞は、希少の機会では無しに、好みの中心の様です。 差しさわりもあり、言いずらいですが、 「秘仏開帳を何年ごとで、もう見られ無いからとの事だけで、ターゲットにする方も多いですが、その秘仏に、見るべきものと、そうで無いものが在る。 見極めてからの拝観であるべき!」と 物の本に先哲が言われてまして・・・、自分もその流儀の様です。自分は此処の最初に書きましたような、阿修羅・日光月光の両脇侍・旧山田寺 焼残
 仏頭・中宮寺の半跏思惟像などの様な,知名度が高い像が垂涎です。 あくまでも好みの問題でして、もう何百、千以上かもの仏像を鑑賞された お仲間に、多くの仏像をご存知のリスペクト大です。自分には、それが出来ない、また出来たとしても、その拝観記録の整理や仏像の記憶が出来ないので、逃げ道の的、嗜好・志向なのかもしれません、 てなわけで自分は、結果的には多くの本で紹介される仏像の鑑賞が好きでして、それは、仏像ミーハーなのかも知れませんが、北円堂の無著 世親像・興福寺の阿修羅像・薬師寺東院の聖観音像・興福寺東金堂焼残の仏頭・中宮寺の半跏思惟像・神護寺の薬師立像・法隆寺壇像九面観音・大御堂観音寺の十一面・円成寺の大日・願成就院の運慶仏等々の、結果的に知名度が高い仏像の鑑賞が好きです。そう、室生寺の十一面さんも良いですね!この様な仏像は何度見ても、長時間見続けても、飽きが来ません。

この我論は、学術、芸術、美術史論でなしに、あくまでも嗜好・趣味ですので、お気に障ったら、ご容赦下さい!若い頃はこうあるべきと持論を振り回していましたが、この頃は、やっと 個々人、自分流で仏像を楽しむが、趣味の仏像の本道と思えるように老成して来ました。老成でなしに老衰なのかもしれません! 生意気を言って済みません。m(__)m ご容赦を・・・。

忘れてました、五大明王像に並んで 鎌倉期の不動明王三尊像が陳列されてました。県文にも届かずで町文の扱いなのですが、なかなかに思えました。特に眷属の矜羯羅・制多迦の二童子の顔の表情が良かったです。確かキャプションにも、現代彫刻風に見えると云うようなの事が書かれて居ました。仏菩薩の他のこの様な像は、儀軌に縛られない分、彫刻芸術の人物表現的に鑑賞が面白いと思う様に成りなりました。東博開催中の「禅展」でも、高僧像に人物表現が楽しめましたっけ。昔は仏菩薩ばかりに関心で、羅漢像や高僧像に関心が無かったのですが、最近は様なと思う様に成りました。今年の国宝新指定で東博展示されてた木造叡尊坐像善春作) などは良いです。良くは分かりませんが、芸術性を感じます。