孤思庵の仏像ブログ

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Takさんの投稿 東京国立博物館・連続講座「仏像三昧」に行ってきました

【以下「仏像愛好の集」メンバーのTakさんからの投稿 
東京国立博物館・連続講座「仏像三昧」に行ってきました。」】

東京国立博物館・連続講座「仏像三昧」に行ってきました。3日間の中には、陽射しが強く汗ばむほどの良い天気に恵まれた日もありました。、快適な「お出かけ日和」となりました。
3日間ともに会場はほぼ満席に近く、後方に少し空席がある程度で、東博ならではの集客状況でした。3日間の「集いの会」からの出席メンバーは、Mさん、KBさん、FWさん、私の4名でした。めいめいに出かけて、各々別々に席を取り、バラバラに聴講しました。私はいつものほぼ定位置に着席していました。各講師の講義内容は、親切にも講師毎にレジメ(諸尊の画像は全く無し)が配布されていて、講義の進行もほぼその記載内容順になっていて、各講師ともにレジメには無い画像を多用した講義を行ない、参加者のレベルに関係なく講義を受けることが出来ました。あまり一生懸命メモを取らずに居眠りをしていても、レジメを見れば概略が分かるようになっていました。それでも、講師の説明を聞き洩らさないよう、個々の仏さまについての駆け足での説明には、耳をそばだててついていくのがやっとでした。
講義後演壇下まで行って、各講師には、私から思いついたこと感想や質問らしからぬことを語りかけて、講師から身近かにいろいろと話しを伺うことが出来ました。
 
 
1021日(金)13001430 第1講「仏像入門1 如来・菩薩」 
東京国立博物館アソシエイトフェロー・西木政統(にしきまさのり)氏。
最初の講義は、西木正統氏(「櫟野寺展」の展覧会の中心担当者)から始まりました。西木氏は滋賀の守山市の地元出身で、彼の父親が看板作成をなりわいとしていて、櫟野寺の案内看板を作った経緯があり、今回の展覧会のお寺とは、浅からぬ縁があるそうです。
・仏像の起源 ⇒ 仏教の成立、仏像があらわされない時代、仏像の誕生
如来と菩薩
仏像の発生、仏教の教えの流れ、如来像、菩薩像の概要説明など、いろいろ作例を紹介しながら詳しく教えて戴きました。東博2Fで展示中の頂相「重文・惟賢和尚坐像・宝戒寺」についても解説があり、最後に像の胎内納入品のことで、代表例として、清凉寺釈迦如来立像などの作例を紹介し、その時に櫟野寺・本尊・十一面観音坐像の納入品の話しがありました。昭和45年(1970年)に美術院国宝修理所が解体修理を本堂内で行なった際に、(先日、展覧会場で西木氏に伺った時に、西川杏太郎氏が当時文化庁技官として修理監督に当たられていたと教えてもらいました。)台座内部から明治45年の台座製作木札と修理文書が出て、明治の修理は岡倉天心高村光雲などの人々によって行われた作業だったことが分かりました。像底から垂直に内刳りの首のあたりまで1.7mくらいの角材が入っていたそうで、関係者は昔の本堂が焼失した際の材か、あるいは塑像造りの古像の心木(しんぎ)ではないか?などの議論があったそうですが、結局まだ決定的な確証がなく、説明不足で不明だそうです。材以外にも、像を動かしたところ台座の中から、「観音」と書かれた木札が蓋になった「木箱」が2箱入っており、明治45年の修理文書と合致するそうです。木箱は、釘が打ちつけられていたが、CTスキャンで調べたところ、かなりの量の脱穀前の籾が入っているのが分かり、、もう一箱には籾の粒のほかに文書、巻物が入っているのが分かり、箱の中身については明治の修理文書にも、「籾が出てきたので、修理の際に新しく箱を作って籾を入れて収め戻した」、との記録があるとのことでした。籾が入っているということは、仏への供物のつもりか「五穀豊穣」の祈りの祈祷のつもりか不明です。併せて、解体時の画像も紹介してくださいましたが、たしかに結構多くの籾が入った、それなりの大きさのきちんとした箱でした。
 
講演後、演壇下に西木氏を訪ねたところ、先日の「櫟野寺」展覧会の時と同様、醍醐寺虚空蔵菩薩像・国宝新指定の「ギャラリートーク」の時の私の顔と質問を覚えていて下さったので、話しがし易かったです。なお、彼は櫟野寺には研究調査に行っておられるが、実際は近くの「十楽寺」(阿弥陀如来坐像)、「大池寺」(釈迦如来坐像)を併せて「甲賀三大仏」となる、その両寺にはまだ巡ったことが無いとのことでした。彼は、甲賀地域には「最澄」は足を踏み入れなかったが、彼の死後、その後の天台宗徒により、「天台信仰」の一大文化圏に急速になったことを、強調されていました。また、「水運の重要性」と「水説話と信仰」が、日本の地方での仏教信仰の発生から拡大・展開を担った一番の要因だったのではないかとおっしゃっていました。「甲賀様式」は、同志社大学の「井上一稔」氏が唱えたもので、もともとは9世紀から10世紀の中央の天台系の環境の中で目覚めたものが、湖南地域、甲賀地域に広まったのは天台宗徒による、宗派的背景なもので、参考となる文書が無く、モデルになった比叡山の仏像が無いので、共通性は判断出来ないが、的は外れていないと思う、とのことでした。
 
 
1021日(金)14451615 第2講「仏像入門2 明王・天部」 
京都国立博物館室長・淺湫毅(あさぬまたけし)氏。
昨年(H25年度)の連続講座実施と今年(H26年度)の企画は、淺湫氏が企画・進行総括者でしたが、今年3月に東博から京博に転勤となり、今度はパネラーとして壇上に立ちました。相変わらずのウイットの豊かなひょうきんなヒゲ面先生です。今回も3日間裏方として会場に詰めているそうです。ご熱心!
・仏像の種類
明王、天部、その他頂相、肖像、神像について ⇒ 各々尊容を例示され、名称の由来、尊容の特徴等、優しくそして冗談噺しを交えて講義されました。「一」、「二」、「四」、「五」、「六」、「八」、「十」、「十二」、「二十八」の数字に合せて明王、天部を説明されていました。
講義の中で淺湫氏は、「石山寺毘沙門天立像」と「櫟野寺・毘沙門天立像」について並べて話しをされたり、「東大寺・大仏殿・四天王像」について快慶の「広目天立像」のことを述べたり、「曹源寺・十二神将像」について説明されたり、「浄瑠璃寺伝来・十二神将像」が「東博」と「静嘉堂文庫美術館」に分かれて保管されており、最近学者の間で「運慶作?!」と話題になっていることを紹介されたりしました。また氏は、「禅展」に因み「万福寺・羅怙羅像ほか2体の羅漢像」の像も紹介されていました。「三佛寺蔵王権現像」を京博・美術院修理所で修理中である事なども説明されました。
京博の宣伝として、「坂本龍馬展」を開催している事。また仏像展示のメインの像は「河内・金剛寺大日如来坐像」の展示とともに、脇侍の「不動明王坐像」は、「快慶」の弟子の「行快」の造像になるものだから拝観ください、とのこと。また、「御寺・泉涌寺展」についても、案内がありました。
淺湫氏は、チラと「高野山・快慶作・孔雀明王像」が来春の「快慶展」出陳かも、と嘴っていたような気がしましたが、そら耳だったでしょうか?本像はしばしば展覧会や「高野山・霊峰館」に出陳されているので、拝観された方も多いでしょう。三宝院・弥勒や某外国美術館所蔵の観音像の里帰りのような、もっと目玉になる像の出陳を熱望します!
 
淺湫氏に伺ったところ、中国から請来の文化や事物等は、日本国内での流行・展開が瞬時ともいえるほど早いのは、中国の文化・政策などを渇望している状況で、為政者や僧侶、庶民のニーズが強くあったからだと思う、日本から中国へ行った僧が、日本人向けの感覚で取捨選択して請来した像が多い、日本に来なかったものも計り知れない、とのお話しでした。
淺湫氏は、「櫟野寺・十一面観音坐像」の納入品の「籾」については、最初は袋に入れられてただろう、と述べられていました。私からは修禅寺大日如来像の織布・織金錦(しょっきんにしき)の例を取り上げて話しました。
蛇足ながら、淺湫氏は講義の最初に、今回の連続講座のタイトルを「観仏三昧」としたかったそうですが、和歌山の某美術関係者が主宰している同名のサイトがあり、結局「仏像三昧」に落ち着いた、というようなお話しがあったので、大河内氏の認知度が高いことに今更ながら感心しました。
また西木氏は、来年に「醍醐寺虚空蔵菩薩坐像(国宝)」について、企画していることがある、とのお話しでした。何のことでしょう?
 
 
1022日(土)13001430 第3講「九州の仏像―大宰府と宇佐の古代彫刻―」 
福岡市博物館学芸員・末吉武史(すえよしたけし)氏。
1.九州の古代寺院
 7世紀中期から大宰府地域と宇佐地域の2地域で豪族による造寺造仏盛んとなる。
大宰府筑前)周辺
・上岩田廃寺:7世紀中頃の九州最古級の寺院、・塔原(とうのはる)廃寺、・観世音寺天智天皇が発願、・四王院
宇佐(豊前)周辺
・虚空蔵廃寺:7世紀末創建の宇佐地方最古の寺院、朝廷から褒賞を受けた僧「法蓮」の拠点か、・弥勒寺:8世紀初期に創建された宇佐神宮の神宮寺
2.木彫像の出現
 大宰府周辺
 宇佐周辺
3.木彫像の広がり
 ・浮嶽神社(うきだけじんじゃ)、・弥勒知識寺と承和遣唐使、・天台僧「円仁」
4.北部九州様式の観音像
 ・長谷寺十一面観音立像(亀甲山長谷寺)(ちょうこくじ)宗像神降臨伝説のある地域、クスノキ材一木造りの十一面観音像を安置との伝承。連眉、漣波状衣文、頭上の化仏がすべて女神像など「神仏習合」の表現化。
・特異な着衣形式=「腰帛」(ようはく)= 九州北部、玄界灘に接する対外的に重要とされる地域で、地元のカミの威光により、災厄から国家を護るという、他の地域ではなかった固有の信仰が生まれ、形式が生まれたと推定する。⇒「腰帛」を表す像の分布図一覧
*「腰帛」について調査している、とのことで、「仏教芸術」次の最新号に論文を発表する予定だそうです。
 
講義後、演壇下で末吉氏に、九州という地域の特殊性(特に経済的、政治的、文化的な対外前線に当たる地政学的な点)によって仏像の発現の違いがどういう形で出たのか、大宰府の位置付けや、帰化人以外に、対外的に向かって何を誇示するものがあったのかなどを伺いました。また、「腰帛」という私にとって聞きなれない着衣の着用例についてです。かねてより末吉氏が取り上げていますが、腰以下をU字形に巡る天衣とは別の飾り布帯で、平安時代に北九州の観音菩薩立像に採用された着衣様式というような衣の表現ですが、仏像制作にあたって様式や図像面での観点で、どのような説明が考えられるのか?伺いました。作例の所在範囲から、大宰府観世音寺を中心とする傾向ではないか、との氏の推論だそうです。やはり突出した仏教勢力として位置した寺院だったようです。
 
 
1022日(土)14451615 第4講「関西の仏像―天台彫刻を中心に―」
大津市歴史博物館学芸員・寺島典人(てらしまのりひと)氏。
国宝の仏像128件中、関西以外は6件(東北2件、関東2件、中部1件、九州1件)と歴史と文化圏、地勢面で関西に集中していることから、関西地域の重要性が知れる。
1. 飛鳥時代の様相(6世紀後半~7世紀前半)
2. 白鳳時代の様相(7世紀後半)
3. 奈良時代の様相(8世紀)
4. 平安時代初期 ⇒木彫が主流に
5. 日本の天台宗 ⇒比叡山は諸宗の母山
6. 平安時代中期(10世紀~11世紀前半)⇒ 延暦寺の権力が極まる、鉈彫りの流行、神像の流行
寺島氏は、「園城寺」の学芸員を兼ねて活動しているということでした。
 
寺島氏は、演壇下で私の問いに対して、京都の鬼門方向を護る比叡をはじめとして、古代より交通の要衝にあり、地理的な面から、各地の有力者の拠点となってきた「琵琶湖」の周辺が、古代から近世まで重要な位置にあった、仏教界でも宗派の勢力が多様になり、地域信仰の盛んな面にも注目する必要がある、とのお話しをしてくださいました。その通りと納得。特に滋賀県は、湖南、湖東、湖北を再び、じっくりと巡って観たい気分になりました。若狭地方は早い時期にも足を延ばしたい気分です。
 
 
 
1023日(日)13001430 第5講「関東の仏像―鎌倉彫刻史と禅宗を中心に―」
神奈川県立金沢文庫主任学芸員・瀬谷貴之(せやたかゆき)氏。
講義の開始直前にお会いした際には、今日は奥様はお見えにならない、とのことでした。東博主催での講義は初めてとのことでしたが、別の場所で担当されている講義と同じように、席の前に座っている参加者に、質問を投げかけて答えてもらう講義の進め方は、氏のおなじみのパターンでした。まさに間違った答えが返ってくるのを楽しんで、ご自分の話しに持っていくように、誘導しているようです。参加者も一方的な講義と違って、気持の弛緩があってよいのではないでしょうか。お話しの前半分は、他の講義で伺った内容を踏まえたものでしたが、後半のお話しは、氏からは初めて聞かされる内容でした。全く内容的に知らないわけではありませんが、説明の切り口によって新鮮に感じてしまうものだと、聞き入りました。
・鎌倉彫刻のはじまり⇒ 鎌倉の三大寺院=鶴岡八幡宮神宮寺、勝長寿院(しょうちょうじゅいん)、永福寺(ようふくじ)、(イントロの得意の講義パターン開始!)⇒ 初めて聞かされる寺院の名前にビックリ!の参加者が多い。
・願成就院と運慶 ⇒ 運慶の造仏と伝説化
・新興都市鎌倉と造仏 ⇒ 霊験寺院の移植 ⇒ 「新〇〇寺」の造営
禅宗寺院の建立 ⇒ 禅宗彫刻の特色(宋風、肖像)
・鎌倉の仏像とは? ⇒ 「禅」だけではない、「運慶」、「霊験」 ⇒ 「禅」
・関東=鎌倉の仏像 ⇒ 「関東大仏師安路法橋院祥房」(南北朝時代
 
講義後、幕府が京都に移った後の鎌倉の社会の状況と、寺院の活動などの様子を伺いました。「関東大仏師・・・」については不明な点が多いが、1350年頃に関東の千葉(八千代市・十一面観音立像)、茨城(結城市大輪寺・観音菩薩像)などで墨書銘のある像が数体程度あることが知られており、個人的な肩書と活動か?という程度でした。
 
 
1023日(日)14451615 第6講「東北の仏像―古代から平泉藤原氏の時代へ―」
仙台市博物館学芸員・酒井昌一郎(さかいしょういちろう)氏。
・「勝常寺」とみちのく「三薬師」の時代 ⇒ 大規模な造像
福島県: 勝常寺、宇内薬師堂、大悲山石窟、大蔵寺
宮城県: 十八夜観世音堂、西光院、双林寺、瑞巌寺長谷寺
岩手県: 黒石寺、成島毘沙門堂、永泉寺
秋田県: 小沼神社
・「前九年・後三年の役」の時代 ⇒ 12年間の戦さの歴史 ⇒ 多賀城と胆沢城
・平泉藤原氏の時代 ⇒ 藤原清衡、基衡、秀衡 ⇒ 金色堂内の3代伽藍について、現在中尊寺で「一字金輪仏頂尊(人肌大日)」、天台寺蔵「桂泉観音像」の公開中。
坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)の胆沢城造営以来、為政者や宗教者の新天地への進出などが進み、奈良時代後期には造像活動が鋳造、乾漆、塑像から木彫が主流となり、救済・布教活動に熱心だったのは、天台、真言宗徒でした。「会津・慧日寺」の僧「徳一」のことも説明されたり、また、「天台寺聖観音菩薩立像」などの「鉈彫り」彫刻の仏さまも「霊験仏」として説明されたりで、駆け足ながら幅広く多くの画像を利用して、時代の流れが解るように説明されていました。最後には、藤原三代による「平泉・中尊寺」の仏教文化のお話しがありました。私としては、前の瀬谷氏の講義との関係もあり、出来ればもっと平泉の藤原文化について、時間をかけて説明していただきたかったので、心残りがありました。
 
講演後、演壇下でお話しを伺いました。瀬谷氏の後輩で一緒の教室で勉強したそうです。東北大学は、一昔前の諸賢から現在の少壮まで、幅広い世代の研究者がいらっしゃるのに敬服です。910世紀の、東北地方での文化展開についてお話しを伺い、特に多賀城安倍氏の支配についての説明などについて、立ち話しなのにだいぶ時間をかけて説明を頂いたが、いかんせん私自身の勉強不足と理解不足のダブル不足が致命傷でした。
 
 
*申し訳ありませんが、ここでは、各講師が例示された個々の仏さまや画像の説明が出来ませんでした。例会など会のメンバーが集まるときに、3日間の講義のレジメをご覧いただけるようにしたいと思います。今回は、、削除されると見苦しいので、添付ファイル、本文中ともに画像は送付いたしません。
 
 
20161028日 Tak

【以上、「仏像愛好の集」メンバーのTakさんからの投稿でした】