孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

10/1(土)の「仏像愛好の集」 報告

10/1(土)の「仏像愛好の集」 報告

午前のグループ鑑賞会 東博 特別展 「平安の秘仏」には 7名
の 浅草文化観光会館 小会議室での 勉強会には 5名 

の参集でした。

 東博 特別展 「平安の秘仏        「浅草文化観光センター」 



朝10時の東博 本館1Fの参集の方に 本日鑑賞会は、前回同様の展示の11室では無しに、本館特別5室の特別展 「平安の秘仏」 にしたい旨 を諮りましたら、全員の賛同を得ましたので、早速に特別展 「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」を鑑賞しました。

櫟野寺(らくやじ)には重要文化財に指定される平安時代の仏像が20体も伝わってるそうです。その20体すべてを初めて寺外に展示 が本展だそうです。

私の受講している、船橋の仏像教室の研修旅行で、数年前に櫟野寺を訪れているのですが、本尊の十一面観音菩薩坐像は秘仏ですので,勿論観ていませんが,その他の諸仏像も記憶に無く、初めて鑑賞のような気がする ていたらくでしたが、これは実際の拝観が強く記憶に残るのでは無しに書物 写真での繰り返しの方が記憶に残るのかもと思いました。かといって今回の仏像が印象の薄い像とも思えませんでした。逆に、時代の典型の様でポピユラーな同じような顔が並ぶとは違って、今展示仏像は個性があって、其々違って居て楽しかったです。 

本尊の十一面観音菩薩坐像は重要文化財に指定された十一面観音菩薩坐像では日本最大で、像高が3mもある圧巻ですので、最大に印象づけられる作品です、寄木造り前の当体を一材から彫った重量と重厚感ある堂々とした姿ですが、顔立ちは、見る者に安らぎを与える整った美さでした。その十一面観音とともに2.2mある薬師如来坐像が並ぶ様子は壮観といえますが、 折角の2.2mある薬師如来坐像、その陳列が本尊の十一面観音菩薩坐像の すぐ後ろでは、大きさを強くは感じられませんでした。そのもう一つの理由として この丈六仏は 周尺のそれです。

【周尺】しゅうしゃく は、 中国,周代に用いられた尺。周の尺は短かったという漢人の説から,周尺の一尺は、曲尺(かねじやく)で六寸ほどとするものをいうと在ります。少し解りずらいので、曲尺の丈六仏の4分の3程だと覚えても良いとの事です。
仏像の基準サイズの丈六とても、基準サイズの仏像という寸法呼称で、実寸は個々に違います、それですので、曲尺の丈六仏は約4.85メートルを記憶します。そして周尺の丈六仏は曲尺の丈六仏の4分の3程で3.6メートルと記憶する事します。
尚、坐像の場合の像高は 、立像の半分になるのは周知ですよね。

その他の等身大以下の仏像作品では、印象深かったのは、動きの少ない硬い姿勢の中にも、どこか親しみのある毘沙門天立像でした。

他にも、、文治3年(1187)に造られたことが知られる貴重な地蔵菩薩坐像なども出品されいて、今展は櫟野寺に伝わる平安彫刻を一度に観られた展覧会でした。 尚これらの諸仏像は10世紀~12世紀のそれでしたが、いずれも中央の統一されたお顔でなしに、それぞれ個性がある様に思えました。
そんな中に共通性が見えて来ました。特に目立ったのは立像の場合は腹部が細く、坐像の場合は膝幅が狭いなと感じました。 それに併せて丸みを帯びた肩 、目を吊り上げた厳しいお顔、などの作風特徴で、それを「甲賀様式」との説明が在り、甲賀様式なるを今回 初めて知りました。 帰って、直ぐに「甲賀様式」でネット検索してみましたが、この特別展関係以外には 、「甲賀様式」はヒットしませんでした。「甲賀様式」を知らなくも、そんなには、恥じでは無いようですね。単に甲賀地方の作風の事との認識で良い様ですが如何でしょうか?

特別展 鑑賞の青は後は、Mさんの前の日記のにコメントで勧めるめてもらった、2階に展示の鎌倉宝戒寺の惟賢和尚をキャプションの中に納入文書の原文とその現代語訳を見て、この像が作られた由来や本人の意思で若い頃の像として作ったことなどがよく理解できました。

正午過ぎに、午後の勉強会を都合で欠席の方々とはお別れをして、 勉強会に行く人は、少し時間にゆとりが在りましたので、東武電車上野駅の近くの不忍池端に在ります、びわ湖長浜 KANNON HOUSEに寄り、前回とは展示替えになって居る観音様を見ました。今回も小さめのもかわいらしいお顔の観音様がいらっしゃいました。 ブログにこの事を書くにあたり、所蔵など忘却の詳細を ネット検索で調べようとしましたのですが、ネット検索では、 現在展示中の 観音像の事は載って居ませんでした。折角 お金を掛けて展示宣伝しているのですから そのホームページにて 現在展示品を広報してもらいたいものです。

びわ湖長浜 KANNON HOUSEを出で、そこからTAXIにて勉強会の会場 浅草文化観光会館に向かいました。


午後の勉強会は5名の参集で寂しいものでした。 時間がたっぷりありましたので、まずはkitさんに、先月9月の 興福寺文化講座(東京)の第二講が良かったと聞き及びましたので、興福寺文化講座、平家物語「敦盛の最期」の受講報告をして貰いました。

Kitさんの 話してくれた「敦盛の最期」の粗筋を、平敦盛 - Wikipedia
 ja.wikipedia.org/wiki/平敦盛 からの抜粋 転載で紹介します。

平 敦盛(たいら の あつもり)は、平安時代末期の武将平清盛の弟・経盛の末子。位階従五位下官職にはついておらず、無官大夫と称された。笛の名手であり、祖父・平忠盛鳥羽院より賜った『小枝』(又は『青葉』)という笛を譲り受ける。

平家一門として17歳で一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、平家側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、我が子・直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った[3]。この事から、直実の出家の志が一段と強くなったという発心譚が語られる。「延慶本」や「鎌倉本」の『平家物語』では、直実が敦盛の笛(または篳篥)を屋島にいる敦盛の父・平経盛の元に送り、直実の書状と経盛の返状が交わされる場面が描かれている。

この『平家物語』の名場面は、のちに能『敦盛』、幸若舞『敦盛』、文楽/歌舞伎『一谷嫩軍記』などの題材となった。

Kitさんに、聴かせてもらいました私達は、人の情けを扱った古典の世界に浸り、人の情けをしみじみと感じました。



その次は・・・、 勉強会に参集はわずか5名と思わぬ少人数でしたので、ディスカッションは難しいかと思い、 孤思庵が9/2(金) にブログをUPした 「両先生の 興福寺北円堂の 無着・世親像の 考察 」を下敷きにした 興福寺 北円堂の 無着・世親像に見られる 運慶の仏教への憧憬の深さと、それに気付かれた 金子敬明治先生の 無着・世親像の考察の素晴らしさを 興福寺講座で貰った「菩薩階位説」の図式 を交えて 発表をさせて頂きました。


 
興福寺講座で貰った「菩薩階位説」の図式が転載できませんので、下にはネットで探した 似た図を掲載します。

クリックすると新しいウィンドウで開きます



 
興福寺講座で多川 俊映貫首から 無着は菩薩行位の 十地その初地の修習位の境地に迄達し、 世親は十廻向の第十廻向 は四善根―加行位にあるとの事を教わりました。

無著・世親 共に 菩薩の行位に在るも 無着は上の初地の修習位の境地に迄達し、 世親の方は下の菩薩行位の加行位にある事を教わりました。菩薩行は上求菩提・下化衆生であって 無着はかなり高い初地の修習位の境地に迄達し慈悲の眼をしている、世親は加行位にて 意欲の眼
をしているとの解釈を持ち・・・、 運慶は、無着の眼は慈悲の眼で、下向きに、世親には意欲の眼で上を向くように 作成したのだと、金子啓明先生は 解説してくれたと思った事を 発表させてもらいました。

何時もの5時に勉強会は終了して、うち3人は 恒例の懇親会 その夜は隅田川近くの「つぼ八」で白ワイン一瓶を3人で空け、リーズナブルに一人1,700円の会費で8時頃まで、こじんまりとっやりました。少人数大声の必要なし、これまた良しでした。