孤思庵の仏像ブログ

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仏像愛好の集 のメンバーの Takさん からメールでお便りを・・・

仏像愛好の集 のメンバーの Takさん からメールでお便りを頂きました。 此処に紹介します。

【以下Takさん の文章です。】
一昨日(86日)は、厳しい暑さの中、一日中「集いの会」のために、ありがとうございました。私は暑いだけで疲れる感じがして、さすがに齢を感じるようになりました。
 
私は、昨日(7日)は、「金沢文庫」に出掛けて来ました。企画展「国宝でよみとく神仏のすがた」(85日~102日)の展示鑑賞と午後からの瀬谷先生の講演会に参加するためです。
日曜日とはいえ、この暑さなので、文庫の9時の開館時間には、入場者はいないのではないかと思っていたのですが、熱心な方々が多いもので、私が到着した時には10人くらいの方が既に入館していました。
 
今春、国宝に新指定された金沢文庫保管の「称名寺聖教、金沢文庫文書」をはじめ、普段眼に出来ないような、個人蔵の関係する仏教美術品を合わせて展示・紹介すると云うものです。金沢文庫は、「東の正倉院」と云われるほどで、顕密宗派、寺院それぞれに、当時の中央政権や宗教界とのつながりが深く、各種古文書が意味のあるものとなっているようです。
昼近くまで入場者は少なく、行ったり来たりして、自由に動き廻って図録を片手に、ゆっくりと鑑賞することが出来ました。
最初は、「春日宮曼荼羅」、「春日社寺曼荼羅」、「男女神像」、「懸け仏」など個人蔵が多く展示されていました。特に「春日社寺曼荼羅」は、縦50㎝ほどの小画面ながら、上部に三笠山春日大社の俯瞰図、そして春日殿プラス若宮本地仏が描かれています。下部に、五重塔とともに興福寺の伽藍に安置されている諸尊が、はっきりと克明に描かれており、像容が細かい線でしかもちゃんと諸尊の特徴を捉えて描かれており、また、諸尊の四周には四天王像、最下段には、興福寺中門の二天王像と脇侍の夜叉像が、細かく描かれているのに感心しました。その先に、「阿弥陀如来坐像」、「逆手如来立像」(二重瞼で眼が異様)、「弥勒菩薩立像」、「金銅製聖観音菩薩立像」、「十一面観音画像」、「千手観音菩薩及び二十八部衆画像」そして新指定「弥勒講式」、「観音供作法」などの文書が並んでいます。
弥勒菩薩立像」は、1メートル弱の素地仕上げの壇像(各所に木目や木肌が観られるカヤ材かヒノキ材か)、金属製の光背や宝冠、胸飾、は制作当初からのものだそうで、細緻な宝冠は高度な技法で造られたと思われ、青い小さな石が埋め込まれて、光が当たるとはっきりと青い輝きが眼に出来るほどでした。高くきれいな髻、シャープな彫りのはっきりした、煩雑とも思える着衣の表現は、宋風かと思うものです。修理銘文から興福寺の子院に伝来したもので、宿院仏師による修理が行われた、とキャプションに記されています。「金銅製聖観音菩薩立像」は、弥勒菩薩立像の半分くらいの像高です。透かし彫り舟形光背、蓮華台座、左右垂下の別鋳造の天衣など、保存状況がよい、バランスの取れたきれいな小像です。三道下の胸には、数個所の胸飾の取付け跡の釘穴が見られます。「十一面観音、千手観音及び二十八部衆」の画像は、絹本着色ということですが、オペラグラスで観てもはっきりしない部分もありますが、「十一面観音画像」は、右手に錫杖を持つ長谷寺式の像で、脚下部の左右には、「難陀龍王」、「雨宝童子」がはっきり観られます。また、「千手観音画像」は、中央の千手観音像の四周全体に、画面全体に二十八部衆が描かれています。
密教系の像では、「大日如来坐像」は、小像ながら、腹前で定印を結ぶ胎蔵界大日如来像で、胎内銘により由緒が分かる像です。部分的に切金文様が遺る彫りの明瞭なバランスの取れた像です。「迦陵頻伽像」は、左手肘先が欠けており、下半身の鳥部分の尾羽根にあたる後半部が欠けている状況だが、二本の足はダチョウのような太くたくましい動きのある像容になっています。何処かの仏像の光背で観るくらいで、単独の彫像として観た記憶がないほどのもので、珍しいものを観たと思いました。他には、「愛染明王坐像」、「天王立像」などが展示され、仏画集や厨子などが幾つも並んでいました。
 
⒓時30分前には、いつものように称名寺境内に出掛け、暑いけれども吹く風が心地よく、ベンチに腰掛けての昼食となりました、境内には人影はまばらで、カラスの鳴き声のみがうるさく邪魔でした。
地下の講演会場では、いつものように入場整理券の番号順に会場に入る仕組みでした。いつもの位置に着席して、開始を待ちました。金沢文庫でよく会う方が多く来場しているようでした。
 
瀬谷先生からは、今回の美術展に関して、いくつかのポイントを紹介、解説されました。いつものように参加者に質問を投げかけながら、話しを進めて行きました。
導入部分として、当日(7日)まで「東京芸大・観音の里展」が開催されており、滋賀・長浜の仏様を集めた美術展で、自分も今日午前中に行って来たが、「黒田観音寺」などすばらしい展示が多かった。地元の方々の長い歴史の労苦が偲ばれるものだ。井上靖の小説にも紹介されているが、最近また湖北地方が注目されている。何故、「KANNON HOUSE」など自治体が、文化財の展示や宣伝に力を入れているか?地方は人口減少に悩む地域が多く、同時に文化面でも管理や維持などが困難になってきている。中長期的には、日本全体の古文化関連の衰退が危惧される。文化財の維持管理などは、博物館や美術館のみではなく、多くの個人が収蔵している文化財がある。それらが散逸したり埋もれないようにしたい。今回は、国宝指定された古文書と関連する文化財を、同時に展示して、個人蔵についても考えて欲しい。なぜ、どういう理由で文化財が流出したか?明治維新の「廃仏稀釈」で多くの寺院が被害を受け疲弊した、と云われれていることが多いが、実際は、直後にはあまり流出しなかった。「興福寺」や廃寺になった「内山永久寺」が知られるが、あまり流出しなかった。「法隆寺」の献納宝物が国家に明治10年代に行なわれたが、それが現在の「東博法隆寺宝物館」になっている。むしろ明治3040年代に多くが流出したといわれている。流出する理由としては、所有する寺院などの経済的な困窮や、維持継続困難によって行われることが多く、受け皿としては、全国の博物館・美術館、宗教財団の本山、個人の取集家、古美術商などがあるが、吸収しきれなくなってきており、現在は「第二の廃仏稀釈」の危機状況となっている。文化財の維持困難により、国家の「買取優先権」があり、毎年数十億円の予算をとって、各地の寺院などから買い取って、流出を防ぐようにしている。しかし、これにも限度があり、かなり優秀な貴重な文化財が中心で、隅々までの文化財を救うことは出来ない。芸大での展覧会もそうした裏事情がある。また金沢文庫での今回の展示も、国宝に指定された古文書と合わせて、個人蔵の文化財を組み合わせて、巨視的には、日本の文化財危機状況という事情を知ってもらいたい、という考えがあることを、理解して欲しい。
展示内容は、①神々のすがた―春日・八幡・熊野―、 ②慈悲救済の仏のすがた―阿弥陀弥勒・観音―、 ③密教修法の仏のすがた―大日・曼荼羅・普賢延命・大威徳・祈雨・愛染―、 ④仏法守護の仏のすがた―四天王・弁才天・大黒天・迦陵頻伽―、に区分した。
 
主要な展示作品についての説明:(展示彫像と指定古文書との関係を中心に)
弥勒菩薩立像」は、鎌倉時代初期から中期の興福寺伝来像で、修理銘文から、宿院仏師により修理が行われたとある。明治維新以降、元勲・井上薫外務大臣)が所有し、井上家から戦後古美術商に移った。この像の特徴に意味があるが、何か?それは素地仕上げ・壇像(代用ではあるが)形式だということ。これが何が重要か?鎌倉時代初期の南都復興の立役者「解脱坊貞慶」は、壇像様にこだわった。貞慶の信仰上の影響が大きかったと思われるものとして、併せて展示している「国宝・春日御本地尺」は、貞慶の春日本地説を纏めたもので、「国宝・弥勒講式」(称名寺所管)には、弥勒菩薩をたたえた弥勒菩薩の仏前で読み上げられた讃嘆した講式で、貞慶が編纂したもので、弥勒信仰を宣伝するものとなった。貞慶の著作物は金沢文庫に多く遺り、藤原氏氏神である「春日社」を重要視しており、貞慶は「春日信仰」を篤く敬った人物で、「春日宮曼荼羅」、「春日社寺曼荼羅」などが模写され、併せて「懸け仏」なども京都の公家などに流行したが、明治以降に流出した。貞慶の事績を辿っていくと、奈良だけでは資料不足で、称名寺文書の存在が重要となっていることが分かる。模写された曼荼羅は、大きな仏画ではないので、民間で所蔵されたものが多い。以前公家・神職は、90パーセントが藤原氏の素性だったので、明治以降不要になったことから、流出、寄贈されたりしたものが多い。
聖観音菩薩立像」はおそらく初公開となるはずで、台座から光背・天衣まで金銅製で全て残っている、工芸品としても名品である。小田原市板橋は、三井家の番頭が住居を構え、実業家や文化人、政治家などが別荘、住居として住まったという場所柄であった。戦前はその地域に所有されていたことが知られている。本来は京都の貴族が所有していたものが、事情により流出したもののようだ。平安時代後期に、「比叡山・横川根本中堂の本尊・弥勒菩薩像」が京都周辺で非常に崇拝され、本像と同様な像が模刻され広まった事実がある。本像もその模刻像のひとつかもしれない。また、金銅仏という観点では、「称名寺聖教」のひとつで、「国宝・観音供作法」(かんのんぐさほう)には、宮中の中の「二間」(ふたま)という場所に祀られた金銅製の観音像の例が出ている。「二間観音」は、宮中で月1回の観音供作法行事で、宮中と天皇の安泰を護るという行事が行われており、聖観音菩薩と十一面観音菩薩を祀ると、説かれているもの。金色の聖観音菩薩に梵天帝釈天が脇持しているという。二説あり、壇像の十一面観音菩薩に脇侍がつく、という説がある。指定された国宝のひとつの文書から、こうした事例が、実際の彫像とが結びつく好例かと思う。
「十一面観音菩薩画像」は、右手に錫杖を持つ長谷寺式十一面観音立像を描いたもので、霊験仏として多くの模刻像が造られた。また、「千手観音菩薩及び二十八部衆画像」は、京都清水寺本尊の千手観音立像を描いており、霊験あらたかな像として、同様に模刻されている。これらは、金沢文庫文書のひとつである「国宝・牋如房受者好相日記」(せんにょぼうじゅしゃこうそうにっき)では、室町時代称名寺の僧侶が見た夢、十一面観音から錫杖と戒本を賜る夢、を書き残した文書であるが、現在でもその由来についての彫像が保管(称名寺隣りの海岸尼寺像)されているが、模刻・模写にて信仰された尊像の例として、説明出来るものである。
以上が瀬谷先生の主な講義内容です。
 
 
講義後に、瀬谷先生にいろいろ伺った話しの中から、以下情報としてお伝えします。
○「忍性菩薩展」(金沢文庫・H281028日・金~1218日・日)について、出展品の確定がまだ出来ていない。展示リストがまだ発表出来ない。しかし、奈良博で展示された「額安寺」像は、会場の都合と、忍性の関東興津750年という副題があることから、直接の関連が付けられないことから、金沢文庫会場では出展予定なし。

【以上はTakさん からのメール文章です。】


http://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/bunko/images/header.gif


  種別 文化財指定 作品名 所蔵者 年代
主要出品作品
1彫刻弥勒菩薩立像個人蔵鎌倉時代
2彫刻阿弥陀如来立像個人蔵平安時代
3彫刻金銅製聖観音菩薩立像個人蔵平安時代
4絵画春日社寺曼荼羅個人蔵南北朝時代
5絵画若宮像個人蔵鎌倉時代
6聖教国宝答申天地麗気記称名寺鎌倉時代
7聖教国宝答申金剛界次第図称名寺鎌倉時代

企画展
「国宝でよみとく神仏のすがた 新国宝指定 称名寺聖教・金沢文庫文書から

金沢文庫で保管する「称名寺聖教・金沢文庫文書」2万点余は、このたび国宝に指定されることとなりました。同資料は、わが国の中世史、仏教史、仏教美術史などを考えるうえで第一級の資料群と言えます。
本企画展では新国宝である「称名寺聖教・金沢文庫文書」を通じて、普段あまり見る機会の少ない個人蔵の神像や仏像、仏画などの仏教美術作品をご紹介いたします。仏教美術作品には製作されるに至った、宗教的背景や時代背景があります。これら背景を記した資料群である「称名寺聖教・金沢文庫文書」と、仏教美術作品を一堂に会することにより、「神仏のすがた」を読み解いてみたいと思います。


           
主催神奈川県立金沢文庫
会場神奈川県立金沢文庫
会期平成28年8月5日(金)~10月2日(日)
休館日毎週月曜日(9月19日は除く)、8月12日(金)、9月20日(火)、9月23日(金)
観覧時間午前9時~午後4時30分(入館は4時まで) 

京浜急行金沢文庫」駅下車徒歩12分(品川より快特33分)
JR根岸線新杉田」駅接続、シーサイドライン海の公園南口」駅下車徒歩10分