孤思庵の仏像ブログ

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4月14日 奈良興福寺文化講座( 東京) その第2講の続き


時間も経過し、意欲も、講義の記憶も薄れてますが、予告をしましたし、結びの言葉を書いてませんので・・・、前回に続いて、奈良興福寺文化講座( 東京)4月14日『春日権現経験記絵』の世界 の話を書きます。

巻十・第二話
林壊という名の興福寺の寺務(寺院の運営に関する仕事。を差配する僧)が居まして、念誦の妨げになるというので、神社の習慣である鼓や鈴を禁止して、神社は静かに成りました。
その後、林壊が社頭に参籠して、権現の力を貸して解脱の境地に達ようと、祈り続けるも、そのしるしは在りませんでした。二十七日が立ち 第二殿より束帯に笏を持つ高貴の人が出て来ました。
林壊は随喜にたもとを濡らした。 林壊をご覧に成っての、そのご様子は荒々しく、まなじりは 烈しく、顔を背けられた。
林壊は これはどうした事 と思い、恐れながら「林壊は いやしくも 三十頌(唯識三十頌)を習い始めてより、一寺の貫首になるまで、過ちを犯すことなく、今は無上菩提(最上の完全な悟)を祈って居りますれば、神の御心にかなうと思って居りますのに・・・」「明神の不快なるご様子はすこぶる不審です」と泣きながら申し上げますが、そのご返事は無く・・・『鼓の音は神仏の世界に聞こえる。
。振る鈴の音は神仏の心に映る』とお答えになった。
林壊は驚歓して、後悔の思いが甚だしかった。「今後は如何なる事があっても、この鈴と鼓を止めさすすことの無い様にと心を込めて下知をした。


自分なりに訳してみましたが、古文も不得手ですので、誤りが在りましたらお許しください。

配布資料に絵は省略されてましたが、代わりの説明がありました。  絵・・・林壊、いがきの内、第二殿の近くに坐す。 絵がある事と、多川 管長の解説として、ーーー明神不快の原因は、林壊が がき 内に入ったことではなく、鼓や鈴の音を停止したことにある。 と解説がありました。

続いて関係する十巻・第二話もありまして、ご紹介しますが、これは解り易いので、嗜好を変え・・・、原文にて紹介してみます。
「大明神の御うしろを拝したてまつる事ありける」永超、申す。『永超久しく聖教にたづさはりて 微功やうやくつもる。当寺のうちに永超をゝきて、たれか権現を拝したてまつらんや。今、尊神にちかづきてまつれども、神にむかひたてまつることをえざる。返す返すも遺恨也』と申ければ、こたへおほせられけるは。『申もうすところまことなり。深く随喜す。但、なむぢわがところにていまだ真実の
出離の道をもとめず。是によりて汝まみへざる也』と。此神ことばをうけたまたまはりて、僧都(永超)なくなく祈願申して、済恩寺の堂に帰りて、勧発菩提心集などいふふみに心とゝ〃めかけるとなむ」
絵・・・永超、いがきの内、第一殿の間近に坐す。

【配布資料の解説文も 其のままに 写します。】
ーーー明神が永超に対して後姿は見せるが、正面のお姿を見せないのは、永超が学問にいそしむものの、いまだ真実の出離(煩悩を断ち,迷いの境地を離れること)の道を求めていないから。唯識も出離解脱のためにそこにある。そこをしっかり押さえるように、というのが法相擁護の春日権現としての立場。明神は、いがきの内しかも第一殿間近に居ることを咎めてはいない。

資料は以上で終わってます。さて皆さんは 明神の冷たくされ、正面を見せない心境を・・・、どの様に推測されますか? 

永超が学問といえども、いまだ真実の出離の道を求めていないからで、勉強している「唯識」も出離解脱(煩悩を断ち,迷いの境地を離れること)のためにこそある。と云われていると思います。 勉強すれども、その目的を忘れては 何にもならないと云われているのだと思います。

こんな内容を知るにつけ、此の春日権現記絵は誰の為に、書かれたものなのでしょうか?! 絵巻物ですので、 僧侶の為では無く、在家の教化のためでしょう。今、在家の我々には適当な教科書なのではないでしょうか?

それにしても春日権現の絵巻ですのに、何度も 唯識論(浄唯識論や唯識三十頌)が何度も登場します。それを含め、私は、今回の話に、いかに,興福寺と春日社の関係が深いかを知らされたと思います。関係深いというより共に藤原氏の氏寺と氏神として一体的な関係だったのでしょう。

 明治以前は神仏混淆があたりまえで、今、我々の「お寺と神社の関係」の偏見は、つくづく 明治新政府神仏分離政策での神仏判然令の影響が大だと思ました。 皆さん如何ですか? 私は以前は興福寺と春日社どちらが上位的か疑問に思った時もありましたが、春日神社は元々興福寺から独立した存在で、日本三代実録などに依れば、当初は発言力を持っていた様ですが、院政期以降は、興福寺の発展により取り込まれ、春日社は興福寺の鎮守社となりました。

此処で忘れては成らないのが藤原氏の氏の長者です。時の氏の長者の権能の一つに氏の祭祀、氏寺・氏社の管理があり、興福寺、春日社などに奉幣使を立て、別当を補任(職を与える事)した。と在りますので、両寺社には、人事権、財務権を及ぼしたことと思います。
そんなで、興福寺別当(一乗院門跡・大乗院門跡)は京から送られた藤原家の人間でしたし、春日社の宮司も当然に藤原一族の出です。 この辺の事にも詳しい我らがブレーンのEno氏に聞いて勉強したくなりました。 


ご紹介した講演に、ご興味でしたら、月に一度、新宿駅際の文化学園で催されている。『奈良興福寺文化講座( 東京)』に、一度お出かけに成ってみませんか?