4月14日 奈良興福寺文化講座( 東京) その第2講
奈良興福寺文化講座( 東京)4月14日に行ってきました。 椅子坐禅定の時間を挟んだ2部構成ので、第一講の話は この前の記事にしました.今回は第二講の 興福寺貫主 多川 俊映師の法話です。 「法話であり講演で無いので 拍手はしない様に・・・」と毎回に注意を進行係から されるのですが、此処の法話は法話的というより文化講座の 名目の勢か 文化講演的です。(自身は変な こだわりを感じてます。 同じ 法相宗の管長の 薬師寺 山田法胤 管主の法話の方が、 より説教的でありながら、拍手で終わるのです。)
以前は法相宗の中心論書の「唯識三十頌」(世親(せしん)(400―480ころ)が30の詩頌によって唯識思想の体系を説いた名著)の解説で 私としては 事の他の関心事でした。 それが終わり、『春日権現経験記絵』という、仏教の論とは相違の 日本の霊験の話に移ってしまい いささか興醒めで、足が遠のいてしまってましたが、昨今 仲間内で奈良興福寺文化講座( 東京)が話題になる事がありまして、14日は久々に出掛けてみました。
『春日権現経験記絵』の世界は、最初の3回か4回までで、以後ご無沙汰していました・・・、 当日は回も進み12回となってました。 本日は巻一四・第三話、 概要は、 興福寺の堂衆(大寺院に 居住して学問・修行よりも寺内の運営実務にあたった僧侶身分のこと。対する学侶は実家の出自の高い僧侶で占められるようになり、高位につく資格を独占し、寺院内での決定権を掌握するようになる。逆に身分が低い出自の堂衆は、こうした場から排除され世俗の業務に従事させられた為、この状況に不満を抱いて度々内紛を起こす)90人が騒ぎを起こし、その首謀の堂衆僧の師匠が、忍辱山(円成寺)に居住する頓覚房(興福寺所属僧徒では無い)のという僧でした。
この頓覚房は弟子の引責を問われる事となり・・・、春日大明神にこの事を救ってもらおうと思って、円成寺よりうしのこくに春日社に詣で、いがき(斎垣:本殿と外部を隔てる板垣)の内側で法華経の一部を暗誦して、暁になると忍辱山に帰るを参りをし、、百日目の日に、経につかれて まどろんだところ、美しき若君(春日明神の化身)がおいでになって、膝の上で遊ばれた。その髪がぬれていたので、その僧が、「何故に髪が濡れているのですか」と問いましたなら、若君が応えて、「汝が法華経を転読するのは、極めて、尊いので、随喜の涙にぬれたりなり」と・・・、続けて 「但し、唯識論(法相宗の根本聖典『成唯識論』)を読んだのならば、此れより尊く覚えただろう」「余に近く、読むのは悪し!」「これより後には、いがき(斎垣)の内より出ていけ」そして、「聞き及んだ如くで、汝の願いは叶わない、よくよく神の意向は定まる也」と 仰せられました。
以上、聞き及びに依る 私の拙い粗筋の書きようでしたが、概ね其の様な内容です。
ここでの解説がありまして、問題点は 頓覚房は、明神に施経するのに いがき(の内で 行っている。)
明神は、最初・・・、『究めて尊いと随喜の涙をし称賛したのに、後では「近くで施経は悪い、いがきの内は出ろ」と拒否反応している。
これは一見、仏教関係者の僧侶or 所属外の者が いがき(斎垣)の内にて 暗読した事が問題で咎めて居る様に思いがちですが、
その様な事ではない様です。 神仏混淆でして、神仏分離は、 明治期の政策でして、当時に仏教関係者を忌む、そのような意識は無いはずで・・・、明神の拒否反応は、それでは なしに、弟子の悪行の為 追放の憂き目を・・・ その事を明神に取無してもらいたいとの頓覚房の心づもりを良く思われなかった様です。
思いますに、どうやら神様は行為自体の不心得よりも、 その心の奥の存念に汚れを観ている様です。
この巻一四・第三話の絵の部分が配布資料に乗ってましたが・・・、昨年秋に私も、春日社式年遷宮の準備のため 神様が仮宮へ御移りの留守に 本殿までは入らせてもらった機会を得てますので、話中の「いがき(斎垣)」の内 などの場所の描写が良く解り、楽しかったです。
その後は巻十・第二話の話に移るのですが,只今、午前2時、急に睡魔が襲ってきました。スイマせんが、此処で中断、続きは後日に致します!