孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

過日2月6日の 第62回「仏像愛好の集in東博」

≪ 2月6日に 第62回「仏像愛好の集in東博」を開催しました。≫

此処のブログや趣味人倶楽部の参集募集の広報記事をご覧に成って 初めて参加して頂けた方を含め 総勢12名の「仏像愛好の集」でした。

午前中は何時もの通りに11号室を中心に本館の仏像展示を鑑賞しました。 大勢一緒のグループ鑑賞は大声に成りがち 傍の迷惑を懸念して、当日も幾つかのグループに分かれて 鑑賞しました。

私は 2回目の参集と成られた_Tucさんと3回目のご参集ぐらいでしたかの、Yamさんとで鑑賞しました。

以下鑑賞時のご説明の概要を書いてみます。



11号室は今回は正月からの展示開始でしたので、七福神のイメージで 毘沙門天、大黒天などの天部の展示が多かったです。


まず鑑賞の心構えとして キャプションを読で、美術史的には、 製作年代を頭に入れて 観賞する事で、仏像の年代判別力が付いてくるとお奨めしました。図像学的には尊名を頭に入れ、その漢字尊名が漢訳(意訳)か音写かを考えてみたいと説明しました。 

意味が何となく通れば「漢訳(意訳)」で意味が全然わかならなければ「音写」との説明をしました。そして、出来ればそこに在るローマナイスされて居るサンスクリット名をも読んで頂きたいとお奨めしました。それと漢字の尊名が似て居れば、音写された尊名と判断できると説明させて頂きました。


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重文 毘沙門天立像 ( 奈良・旧中川寺十輪院持仏堂所在C-1869 )では、キャプションにて 梵名の Vaiśravaṇa( ←「ヴィシュラヴァス (vizravas) 神の息子」)を注視して、その音写が「毘沙門」が音写と説明いたしました。 同尊の別名は「多聞天」で、こちらの方は意味が通じますので、意訳・漢訳ということになります。 なお「多聞天」の意味は (衆生の)声を多く聞く神と解釈しがちですが、インドでは、多く聞かれるところの神=高名な神との意味だそうです。また他の説では、常に仏を守護しているので、自然と仏の説法を多く聞くこと からいうともいわれています。
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重文 大黒天立像 1躯 快兼作 東大寺伝来 南北朝時代・貞和3年(1347) 文化庁

ここでは南北朝時代の仏像の特徴は ブロック的に積み重ねたような躯体とのことです、そう思って見てみますと、首が胴体の 上に載せられている様で、積み木の積み上げ的に見えます。
玉眼に注目されましたので、簡単に玉眼の製作技法などを解説をしました。
大黒天(意訳)・摩訶迦羅(音写)のもとは、ヒンドゥー教の神の一柱で、シヴァの別名のひとつとされる恐ろしい神です 。梵名Mahaa-kaala(マハカーラ)のマハーは「大いなる」、カーラは「黒、暗黒」を意味し、シヴァの世界を破壊するときに恐ろしい 黒い姿で現れる。というように原型的には戦闘の神として怒りの表情を見せる原型で、大いなる黒的な像としての名残で、この像も顔は青黒くされている。
この作品は、「ダイコク」との同じ音から大国主命が同一視されるようになり、大国主命的な我が国の衣装となり、財福神として柔和な表情のもがでてきます。今回の作品は、米俵を踏み、宝を描いた大袋を持ち福の神敵に成って来ていますがが、顔は青黒く塗られていた痕跡があり、硬い表情をして、原型マハーカーラの名残をとどめています。云々を説明しました。



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如意輪観音菩薩坐像 1躯 鎌倉時代・13世紀 C-1883

観音菩薩は状況に応じて変化されます。その考えや密教が流布し,観音についての儀軌,造像の法などを説くに至って,いわゆる変化観音像を生みだした。十一面観音,千手観音,不空羂索観音・・・が現れました。それに対して変化していない元の観音菩薩は、単に 観世音菩薩聖観音・観自在菩薩(両者は意訳の相違)でしたが前出の化観音と区別するために聖観音と聖の字が付けられるようになり、聖観音と呼ばれる様になりました、その姿は二臂像です。十一面観音、千手観音、如意輪観音馬頭観音准胝観音(または准胝観音に代えて不空羂索観音)等変化観音のグループを「六観音」著名な変化観音は六観音と呼びます。六道の何れにても働くとの意から六なのだろうと思います。その一つに如意輪観音がありまして、その密教系形として、六臂像の形が在ります。それがこの像です。6手は、右第1手は頬に当てて思惟相を示し、右第2手は胸前で如意宝珠、右第3手は外方に垂らして数珠を持つ。一方、左第1手は掌を広げて地に触れ、左第2手は未開敷蓮華(ハスのつぼみ)、左第3手は指先で法輪を支えています。また輪王坐と呼ぶ足裏を合わせる特異な座り方をしています。

さて此処でもキャプションで梵名を確認しました。梵名はCintāmaṇicakraチンターマニチャクラ でチャクラ で、チンターマニは(如意)宝珠、チャクラ は法輪です。つまり如意宝珠と法輪の象徴物としての宝輪を持つ観音という事で、尊名は意訳(漢訳)という事に成ります。
宝珠 そして法輪(輪宝)についても興味深いのですがここでは、如意宝珠は願いをかなえる玉、輪は、仏教の伝播する象徴の意味と、もう一つヨーガで、人体の生命エネルギーの中枢となる部位・・・で、面白いのですが、ここでは 省略しました。


次に 重文 如意輪観音菩薩坐像 1躯 平安時代・11世紀 奈良・西大寺
ともう一つ 如意輪観音菩薩坐像が続いて展示されてます。こちらは二臂釧の顕教系の像です。惜しくも右腕が途中肘から先が欠失しています。 二臂の如意輪は中宮寺のそれ等の様に半跏思惟の像が多い、かといって願徳寺像の様に思惟をしていない像もあるので 果たしてどちらの格好だったか?考えるも面白いです。 


http://image.tnm.jp/image/1024/C0025733.jpg
不動明王立像 1躯 平安時代・11世紀 C-1851
では 、不動明王は梵名でアチャラ・ナータ(Acalanātha)』とは「動かない守護者、無不動、不動使者」を意味 するそうです。ですので漢訳(意訳)では不動尊となります。アチャラその意味は、動かない、という意味であり、これを漢字に訳すときに不動と訳しています。
アチャラというのは、ヒンズー教のシバ神(破壊と救済という一見矛盾した性格を持)のことで、不動明王もその性格をもっており、煩悩を破壊する一方、仏教を信ずる人を救済するという性質を持ちます。密教が、取り入れたヒンズー教の神々に独自の解釈をつけたものが明王です。明王の「明」は真言の事であり、サンスクリット語 (ビディヤーvidyā)とは、明呪(みようじゆ)「知識」「学問」を意味する一般的な名詞である。密教の文脈においては、特に仏が説いた真実の智慧真言(=密教の呪文)のことを指し、明あるいは明呪と漢訳される。

後に附くdharaは「緑」や「流れ」を意味します。それでvidyā-dharaの意味は仏の知恵(真言)を身につけた偉大な人」という事に成ります。また、この明(真言)dharaを身につけた者を持明者(vidyā-dhara)と呼び、明王とはその持明者たちの王(rajā)であるとも説明される。

密教では、如来も菩薩も、あるいは明王もすべて大日如来の化身であると説きます。大日如来の化身として現れるものは、如来の姿をした自性輪身、菩薩の姿をした正法輪身、明王の姿をした教令輪身の三種類の化身であるといわれます。
先述してありますが、密教の呪文は真言といわれますが、明王はこの真言に精通しており、明呪の王ともいわれます。明王のうち、中心的役割を担う5名の明王を組み合わせたものを「五大明王」とします。本来は別個の尊格として起こった明王たちが、中心なる不動明の周りに配属される。
東に降三世明王(ごうざんぜ - )、南に軍荼利明王(ぐんだり - )、西に大威徳明王(だいいとく - )、北に金剛夜叉明王(こんごうやしゃ - )を配する場合が多い。なお、この配置は真言宗に伝承される密教東密)のものであり、天台宗に伝承される密教台密)においては金剛夜叉明王の代わりに烏枢沙摩明王(うすさま - )が五大明王の一尊として数えられる。そして特筆したいのは周辺明王は殆どが多面(軍荼利明王のみは一面)で多臂です。多面多臂は超人間的を現すが、かえって重要な尊の方が一面二臂の傾向にあり仏教の古式をして、多面多臂はヒンズーの神の仏教化と感じられます。


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吉祥天立像 1躯 京都府亀岡市大宮神社伝来 平安時代・10世紀 C-1833 は、これまで展示の武装神と異なり、福徳神の天部であります。
武装神の西域の甲冑姿に対し福徳女神は中国の貴人の服装です。そしてその服装の袖口は貴賤を示し、筒袖は労働着で、大袖は高貴の象徴です。

先述の毘沙門天は身分が在りますので大袖を着ています、されど護衛の実務が在ります、そこで筒袖を着る事なしに、大袖を気てその袖口を結んでいます。そんな見方が出来ると面白いと思います。




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国宝 広目天立像 1躯 平安時代・12世紀 京都・浄瑠璃寺蔵はここ東京国立博物館に永らく寄託されて居て、年に一度は展示されます。 

浄瑠璃寺の四天王は現在浄瑠璃寺堂内には持国天増長天がまつられていて、広目天が東京、多門天が京都の国立博物館に分かれています。
一具の四天王で、皆が国宝指定ですので、制作時期は同じと思いこんで居ましたが、Mさんのギャラリートーク の解説で制作時期にズレがある様だとの事を知りました。多聞天の製作時期に注目の文章を見つけました。浄瑠璃寺多聞天立像 - Kyoto National Museum
www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/choukoku/77jyoruri.htmlです。

その文章には、多聞天の製作時期について、像の洗練(せんれん)された作風(さくふう)から、11世紀後半から12世紀前半につくられたのはまちがいありません。そして、ともに四天王を構成(こうせい)する他(ほか)の三像とじっくり比(くら)べてみると、多聞天だけがいろんな点で、他とはちがった特徴(とくちょう)をもっています。たとえば、他の像が腰(こし)をひねって動きのあるポーズをとるのに、ほぼ直立(ちょくりつ)していたり、腰前でU字を描く帯状(おびじょう)の布(ぬの:天衣(てんね))が、他よりゆったりとしたカーブを描(えが)いています。また、木材(もくざい)の組(く)み合(あ)わせ方も多聞天像だけが異(こと)なっています。このことから、多聞天と他の三像のつくられた時期(じき)がちがうのではないか、ということが想像(そうぞう)できます。そこでお寺の記録(きろく)をみると、1108年に毘沙門天を供養(くよう)したということが書かれていますが、他の像のことは書かれていません。どうやらその時点(じてん)では、よそのお寺から譲(ゆず)られたか、あるいは新(あら)たにつくられたかはわかりませんが、毘沙門天すなわち多聞天だけがお寺にあったようです。したがって、多聞天は11世紀後半から12世紀はじめの間に単独の像としてつくられ、1108年よりもしばらく後に、他の三体を加えて四天王としたと考えるのが良いみたいです。しかし、残された資料(しりょう)が少ないため断定(だんてい)はできませんし、他の可能性(かのうせい)もいろいろと考えられます。なかなか難(むず)しい問題(もんだい)ですが、みなさんも探偵(たんてい)になったつもりで、想像をめぐらしてみませんか。 
と在ります。



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四天王の内の広目天立像に続いて十二神将が展示されて居ます。
重文 十二神将立像 巳神 1躯 京都・浄瑠璃寺伝来 鎌倉時代・13世紀 C-1852
重文 十二神将立像 戌神 1躯 京都・浄瑠璃寺伝来 鎌倉時代・13世紀 C-1853
重文 十二神将立像 申神 1躯 京都・浄瑠璃寺伝来 鎌倉時代・13世紀 C-1878

個々の見所はさておき十二神将の観想の楽し見所を申し上げました。
他の重要な尊に比べ、儀軌的には強い縛りは無い様です。勢い仏師の自由裁量の良の分が多く成ってます。そこで私は自由彫刻的に楽しみます。
私は十二神将と同時に 見えないその相手(敵)を意識します。もちろん相手(敵)は彫刻されて居ませんが、十二神将の姿勢や目線で相手の場所を感じられます。小手を翳し姿には、まだ遠くに居る敵陣を、刀を抜かんとする姿には、臨戦態勢に間近の敵が見えますし、下を向く神将には、すでに敵を倒し、未だ止めを刺す必要の有無を伺っていて、足下に打たれた相手の横たわるが見えます。 そんな風に楽しむようにしてます。十人十色は十二神将にも適用の様で 多くの十二神将群には 道化的な剽軽な将が居るのを良く見ます。

それから、薀蓄も少し、四天王と十二神将は共に甲冑姿でよく似ていますのでその違いを説明しました。四天王は東西南北の方位を護るインド の神々が、仏教に取り入れられたもので、(須弥山の頂上に住む)帝釈天の部下として須弥山の中腹の四王天にて四方を護るります。須弥山の、四王天の下位に薬叉たちの住む夜叉宮があります。

四天王は仏法の守護神で、十二神将薬師如来の守護神です。 為に四天王は多くの尊の守護に当たりますので、多くの須弥壇の四方に祀られます。一方の十二神将薬師如来の専属の眷属でして、他の尊の守護には当たりません。お堂では、必ず薬師如来の眷属です。

四天王の住む世界は須弥山の中腹で四王天と呼ばれます。因みに天とはインドの仏教に取り入れられた神を指しますが同時にその神の居場所も指します。神としての梵天はこの大梵天に住み、その下の第二天である梵輔天には、梵天の輔相(大臣)が住み、さらにその下の第三天である梵衆天には、梵天の領する天衆がこの天に住むとされる。また更に梵衆天の下に夜叉の住む夜叉宮が在ります。この配置が在って、四天王はその足下に邪鬼(夜叉=鬼神)が居るのです。やがて時代経過で下に居るが踏みつけられ懲らしめられる様にとなるのです。

十二神将は別名に十二夜叉大将とも呼ばれます様に夜叉の身分ですので、同じ所属の邪鬼(夜叉=鬼神)を踏むことは無いのです。ですので、これで単独の武装天を観て、四天王の一なのか十二神将の一なのか区別が付けられます。




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ついでに四天王の内 唯一、多聞天毘沙門天)だけは宝塔を捧げ待ちますので判別できます。ついでに四天王の配置の覚え方も披露しました。「地蔵 こうた(買った)」と覚えます。それで 持・増・広・多の順が覚えられます。持国天増長天広目天多聞天の順になります。
仏教では、方位の順は東西南北でなしに東南西北(トー・ナン・シャー・ペイ)での順になります。中国 の古い言われ(君子南面す)で多くの仏堂は南に向いてます。必然に本尊も南を向きます。 其のままの方位で四天王像を配置しますと南の増長天は 本尊と重なって、本尊の前を塞いでしまいます。そこで、実際の像の配置は時計回りに45℃ 捻って配置します。 つまり本尊の左前が(東)持国天となります。以下、増長天広目天多聞天の順に時計回りに配置されるが多いです。





尚、先述に重なりますが・・・、多聞天毘沙門天なのですが 独尊の場合が毘沙門天で四天王の一の場合を多聞天とするとの解説を多々見受けますが、その様な決まりはなく、同一尊の サンスクリット名Vaiśravaṇaの 音写が毘沙門天で、その意訳(漢訳)が多聞天でして、意訳したか、音写したかの呼び名の違いなわけです。


二天王立像のうち右方像 1躯 平安時代・11~12世紀 東京・養福寺蔵
では中央作で無いローカル色が強い旨のお話をしました。



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重文 釈迦涅槃像 1躯 鎌倉時代・13世紀 奈良・岡寺蔵
では、涅槃仏の右顔側面に置く手と両足が揃う姿は 誕生釈迦像を其のまま横たえた に同じで 誕生時と涅槃時の姿が帰結していると説明しました。



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重文 毘沙門天立像 1躯 平安時代・9世紀 和歌山・道成寺
和歌山も中央(京都・奈良)では無しにローカルですので個性の強い像です。僧の表面、甲冑の表現は緻密に彫り上げられているのですが、プロポーションは破綻しています。骨格が表現されて居ないのです。トリバンガ(三屈法)は在るものの腰が無いのです。良くは解りませんが、和歌山のローカルの地で、平安初期の9世紀の作との事に何となく思い当たるような気がします。 

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重文 木造十二神将立像 12躯 鎌倉時代・12~13世紀 神奈川・曹源寺蔵
は先述の十二神将立像の解説を参考にしてください。平安期以降の作品には干支の動物たちが頭上などに付けられてます。十二神将の十二は薬師如来誓願の数に当たり、干支十二支は方位と時刻が意味されてます。時刻に関しては薬師如来の両脇侍が昼夜を、十二神将が二十四時間を配当されている様です。

以上が午前中の仏像鑑賞会での 自分の説明でした。 お付き合い頂きましたYamさんとTucさんには有難うございました。 きっと他のグループでは、また違った案内がされた事でしょう、次回の三月も、その次の四月も 同じ展示内容です。同じ仏像でも 先達の違いで異なった解説がされます。皆さんも色々な 先輩のギャラリートークで 仏像のいろいろの楽しみ方を感じ、仏像趣味の参考にしてください。

次回の記事では 午後の勉強会の様子をご紹介したく思います。 「仏像愛好の集in東博」は毎月第一土曜に10時より開催してます。 3月は5日、4月は2日が其れに当たります。 どうぞお気軽に東博11号室前にご参集ください。

また分科会として、仏像の基礎勉強会も毎月の第3火曜日に 「仏像愛好の集in東博」と同時刻・場所に集合でやってます。(2
月は16日 3月は15日の予定です。)
仏像趣味の基礎を勉強されたい方はご参集ください。