孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

【続】 東京藝大 博士課程学位論文「公開審査展」


昨日行ってきまして、書きましたブログ 一晩経ちますと 足りない部分の思いが出て来ました。
続きを書きます。此処で模刻研究された宝菩提院 願徳寺の 菩薩坐像と道明寺の十一面観音菩薩立像は共に国宝で、美仏像として著名で 数多その解説は出てますのでここではそれには触れますまい、ただこの様な仏像は大ハードルであり、それを摸刻研究のテーマに据えて、見事な摸刻と研究論文をまとめた中村恒克氏、は来場の諸先生から賞賛を受けていました。

摸刻像確かに美しいです。その できばいもは勿論ですが 本作の差に依るところ大でしょう。
位地付けは承和様式、ここ数年 今まで馴染の無かった「承和様」ここ数年仏像史研究の寵児の山本勉氏が、その良い方を良く使われるのが、震源ではないでしょうか? まだWikipediaには取り上げられてません。漠然との理解は平安初期は8世紀半ば、和様の萌芽期の認識でしたが、ついでにちょいと勉強してみました。
じょうわ【承和】とは日本の元号(年号)。平安時代の834年から848年まで、仁明(にんみょう)天皇の代の元号。(「日本の元号がわかる事典」解説」引用)は解りましたが 【承和様】の時代は平安時代初期との認識で様のでしょうか?貞観仏との使い分け教えて下さい。

何れにしましても宝菩提院像は秀作でこれは木彫仏像再開の先頭グループに在りながら・・・いきなりの完成度に感心です、確かに日本の仏像とは相違感で、唐風の仏像と解説されました。 道明寺像は如何なる評価を受けてましたっけ? 均整のとれた体躯と相まって温雅端正な姿と温和な顔立ちに宝菩提院像程の唐風を感じませんが、独特の冠には唐風を感じますし、何と言っても 宝菩提院像と共に瞳への異物象嵌は唐の技法、さすれば宝菩提院像と共に唐風、やその影響下の仏像と成ります。
午前中の展示では裏に廻り 両像共に背面も見れてまして、背中での天衣のX字のクロスは両像共にの共通だったように思います。(宝菩提院像は確実なのですが道明寺像は帰国が薄れてしまってます。)これは唐風の特徴ですか?我が国の特徴ですか? 教えて下さい!

同論文発表では中国朝鮮の遺作もスライド画像で発表されましたが、馴染なく記憶に留まりませんでした。ただこれらが両像を始め、先の唐招提寺木彫像群などに、影響を及ぼすは解りました。
また近い時代の我が国作の仏像をも紹介し、その特徴を説明されました。論文発表に無かった、知見も混ざるかもですが それを此処に書いてみます。

相違と共通の比較の為に挙げられた 仏像達、まず8世紀後半の唐招提寺木彫群 の諸像では伝獅子吼菩薩では裳裾に乾漆の形態の分厚さが残り、伝薬師如来では中国の石彫の裾衣文の特徴が残り等が説明されました。また東博展示でお馴染の秋篠寺の十一面観音菩薩立像もスライド紹介で、乾漆造の衣皺の形態と粘塑、石彫の携帯の名残が説明されました。

それから神護寺薬師如来立像も宝菩提院像・道明寺像と相異の仏像として少し紹介されました、(そこで解説は無かったので、勝手な解説をしますと、同像は圧倒的な量感の表出と すさまじいばかりのきびしい 表情で、良く観察すると破綻が多のが解ってきます、持論では破綻に依る威圧の仏と評してます。)

そして東寺講堂の菩薩諸像、観心寺如意輪観音坐像が紹介されました。ここでは密教像である事と、像の特徴は木像乍ら乾漆併用と云えましょう。その効果は粘祖系の弾力が良く感じられます。これらが承和様言われるものなのですか? お教え願います。

次は法華寺の十一面観音立像で、大壇像の系統で、私は、お顔立ち等に異国風を感じます。「天竺(インド)の仏師・問答師が光明皇后の姿を模してつくった」という伝承をもさもありなんと思われます、実際の制作は平安時代初期、9世紀前半と見られる。 などこの時期の仏像達は凄いとこの発表で再認識しました。

 その後 藪内教授注文で 中村恒克氏は定朝までの平安時代の仏像全体をも解説されました。 藪内教授の[10世紀は仏像の谷間]との名台詞を聞いて、仏像年表見直して そうだと遅まきながら学習できました。

そうして、仏像再開の当初時期に、完成形の宝菩提院像と道明寺像の完成された造形に感心しました。 
しかし、私には両像の研究よりも 上述しましたような仏像史概論・平安時代遍的が とても面白かったです。

きっとTakさんも原稿書いてると思いますが まだ手元にMさんやTakさんからも投稿が届いて居ません、あえて推敲前の粗文ですが・・・、優秀文が投稿される前に、拙文を投稿してしまいます! 乞う、Mさん、Takさん投稿です。 皆さんそちらをご期待ください!