孤思庵の仏像ブログ

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相好(三十二相八十好)は仏の三身説のどれに適応なのか?

大倉集古館の普賢菩薩が法華懺法の本尊の独尊像の可能性が大と思うとのこの前の記事。
そこには仏の三十二相の内の金色相を絡めました。

金色相に関係して、それらの総称である相好(三十二相八十好)の事を述べてみます。
身体的特徴の事ですので、仏像の形式的な事と処理しがちですが、私には仏の尋常ならざる仏の特異性の事で、大いに仏を考えるのに大切と思います。そしてこの度は仏の身体に関して三身説を絡めて相好を考えてみました。

三身(さんじん、または さんしん、梵:trikaya):大乗仏教における、仏の3種類の身の あり方(法身・報身・応身)で、仏身観の一種 の考え方の上に出てくる考えで、形なき 法身の仏の本質が,目に見える応身として現れる時の姿に三十二相八十種好の瑞相の表現があると思いたいのです。
仏像を考える時、それは仏の三身の内の応身のコピーであると考えましたが・・・、本質的には法身のコピーとは言えないでしょうか? 忘れがちですが、仏像の意味を思う時には、法身や応身を意識すべきと思います。
仏の三身にもう一つ報身があり、報身(ほうしん、ほうじん、Skt:saMbhoga-kaaya、संभोग काय)は、仏身(仏の身体、からだ、すなわち姿)を表す三身(法・報・応)の一つの報身であり、受用身(じゅゆうしん)ともいう。
これは、仏陀となるための因としての行を積み、その報いとしての完全な功徳を備えた仏身である。一方受用身を「受用される身」とも訳すことができるのです。こちらでは人間がこの仏の身体を受用して成仏するという意味ともなるのです。
成唯識論』には「自ら法楽を受用す」とあり、これを仏教で自受法楽という。すなわち仏:これには成道直後の釈迦如来大日如来が相当する。それらがその悟りの奥深広大なるを自ら楽しんで受けることをいうのです。
そして更に、報身(受用身)が発展して、ここに2つの仏身観が生まれた。
自受用報身(じじゅゆうほうしん)とは、
仏が自らに法楽、利益を受用する報身のことで、良く知られて居ます釈尊が悟られて、暫くはその法喜に浸られた等が、其れに当たると思います。
他受用報身(たじゅゆうほうしん)とは、仏が他に法楽、利益を受用させる報身のこと と在り、
自受用報身と他受用報身それら二つを知って、その自受用報身的な仏像は悟りへの目標ともなるのでしょうが、仏像はこの他受用報身がより仏像の意義の様に考えます。ご利益を与えてくれる仏像 この方が主体と思われます。
智顗は『摩訶止観』巻6下で「境について法身となし、智について報身となし、起用について応身となす」と説明し、仏の智慧の身であるとしました。
境:六感に依って知覚される対象(山川などの自然も含まれる)…法身
智:智慧・能力…報身
起用:これまで用いられなかったり認められていなかったりした人を,ひきあげ用いること。とりたてて用いること…応身
の様に成るのかと思いますが、起用について応身と為すとは少し解釈が及ばないです。
まだ良くは理解できないのですが・・・、私達が観て、大好きな仏像 その仏像を考える時 この様な考もあるのです。たまには その様な仏身を考えてみるのも一興と思いますが・・・如何に?!