孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

【報告】10/18仏像愛好の集 川崎 能満寺 特別開帳 拝観会

【報告】 仏像愛好の集 川崎 能満寺 特別開帳 拝観会

川崎 能満寺 特別開帳 拝観会
                                     (幹事 kanai さん)

アフターに「大井の大仏、 養玉院 五智如来 他 拝観」
                                     (幹事 孤思庵



①過日10/18(日) 仏像愛好の集 川崎 能満寺 特別開帳 拝観会
(幹事kanai さん)        
女性6名・男性3名の計9名の参集がありました。




能満寺(川崎市高津区千年)の木造虚空蔵菩薩立像(県指定重要文化財)、木造聖観世音菩薩立像(市指定重要歴史記念物)の御開帳は、晋山式のあった年のみの秘仏開帳での公開されて来ましたを誤解しまして。今回も晋山式絡みの公開と誤解しましたが、今回は市の教育委員会の要請に応じての文化財公開だった様です。

 当日は公開最終日で数十人の拝観者が居ました。また教育委員会絡みの説明員も居て解説もしてもらいました。 両像を明るく、至近で拝観できまして皆さん満足だった様です。

木造虚空蔵菩薩立像(県指定重要文化財

木造虚空蔵菩薩立像の印象は時代の特徴の様に衣皺等の細部は克明に彫刻されてはいるものの その下の身体表現には写実性が乏しく、ただ直立の胴体の上に首が載ると云った印象でした。皆さんは如何に鑑賞されましたか?


   (県指定重要文化財虚空像菩薩立像 御丈三尺 
当山の本尊で、従来、秘仏として安置され住職の晋山式一日に限り開扉ていた。寄木造で頭部内に墨書きの造像銘、明徳元年(1390)五月十三日朝祐(花押)とある。

解説

 能満寺の本尊。右手は掌を前に向けて垂下し、左手は屈臂して宝珠を持つ。宝冠・光背・持物・瓔珞・両手首先・両足先・台座などは後補。左手第5指先欠失。割矧ぎ造、玉眼嵌入、彩色は剥落。宝髻をも含めた頭部と体幹部を一材で刻み、頭部は面部・後頭部及びその中間材と割矧ぎ、首も割矧ぐ。体幹部は両肩中央で前後に矧ぐ。両袖部は別材か。後頭部内側に次のような墨書銘がある。
 この銘文から、明徳元年(1390)、仏師朝祐の作とわかる。朝祐の事績は現在これ以外に、鎌倉の覚園寺で應永8年(1401)から同18年にかけて十二神将立像十一躯、同23年に伊陀尊天像(銘札のみ現存)、同25年に伽藍神倚像、同29年に日光菩薩坐像を造立したことが確認されており、作風から同寺の月光菩薩坐像も彼の作品であると推測されている(各木造)。没したのは應永33年(1426)。詳しい伝記を語ってくれる史料はみつかっていないが、14、5世紀ごろの鎌倉を中心とする東国では、運朝・朝栄・清朝など、“朝”の字を共有する仏師たちがかなり活躍している。彼らの系図上のつながりは未詳にしろ、朝祐もまたおなじ系統に属する鎌倉仏師の一人であったのかもしれない。
 この点は後考に待つとして、像は高く結い上げた頭髪、面長でやや女性的な顔立、裙・偏衫・大衣をまとう服制、腹部の衣皺表現などに宋元風の特色が目立つ。ただ、14世紀も早い頃の作品、たとえば鎌倉東慶寺の木造聖観音菩薩立像と比べた場合、形式は類似しているものの、両肩の張りがいくぶん弱く、毛髪や衣皺の刻出は簡略化しており、総体に写実的な柔軟さを欠く。朝祐は覚園寺日光菩薩坐像を造立した時、正安元年(1299)ごろの作と思える鎌倉浄光明寺木造阿弥陀三尊坐像のうちの脇侍像を手本にしている。能満寺像もまた、前代の遺例に範を仰いだ、とみてよいのかもしれない。独創性は乏しいが、作者、造立年代ともに明確な基準作であり、彫刻史上、貴重な遺例である。
 なお、虚空蔵菩薩は虚空のように広大無辺の徳を持つとされ、記憶力を増すための修法、いわゆる求聞持法の本尊として、わが国でも天平時代から信仰されてきた。神奈川県下にも、横須賀能満寺・横浜雲松院・平塚浄心寺あるいは鎌倉の富陽庵と虚空蔵堂などに木造像が祀られている。(川崎市教育委員会資料のより引用)

上記の解説でも分かる様に朝祐それなりの事績を持つ仏師だった様です。朝祐で調べましたら「伯耆法眼朝祐」の名称もあり下段墨書の□□には法眼の字が書かれて居たのではと想像しました。


法眼の僧位や地位を象徴する役割も担う花押の使用にステイタスを感じました。それで調べてみましたら。先述の川崎市教育委員会資料他にも、色々ブログに書かれて居ました。データベース 菩薩部 - FC2の中では

覚園寺日光菩薩像・月光菩薩像は「裳を蓮座から長くたらし、ややからだを斜めにして安座~宋朝美術の影響~伯耆法眼朝祐」の作。と在りました。

日光菩薩像               月光菩薩

また同寺の十二神将像・韋駄天像・伽藍神像も朝祐作だそうです。
ameblo.jp/shinacchi79/archive8-201206.html より引用

珊底羅大将頭部内面墨書銘    伐折羅大将




また、せきどよしおの仏像探訪記のwww.butsuzoutanbou.org/ホーム/神奈川県/覚園寺十二神将/ - には

朝祐という仏師、彼については、1390年に川崎市の能満寺の虚空蔵菩薩立像を手がけたほかは、覚園寺の諸像(十二神将像、銘札のみ残り像は失われてしまった韋駄天像、薬師堂内の向かって左奥に安置されている小像である伽藍神像3躯、薬師三尊の脇侍像)を造立したという事績が知られるばかりである(南北朝時代から室町時代前期のこの時期、運朝、朝慶、朝栄、朝祐と、「朝」の字をもつ仏師が活躍したことが知られ、一連の系譜を引くものと思われる)。
朝祐は、その位牌および逆修(あらかじめ冥福を修めること)の五輪塔覚園寺に残されており、それによると没年は1433年である。一般に鎌倉時代以後の仏像は生気を欠き、優品が少なくなるとされているが、朝祐はその中では高い技量を持ち、覚園寺の復興に腕を振るった仏師であった。
 
と在りました。



木造聖観世音菩薩立像(市指定重要歴史記念物)

木造聖観世音菩薩立像の方は幾分か圧縮気味の中にも身体表現があり、ローカル色の無い中央作ぶりを感じました。平安初期作だそうですがその特徴の翻波式衣文ではなしに漣波式衣紋で渦紋も見られない。カヤ材の一木との事ですが肉身部には漆がありおそらく漆箔で在ったと想像が付くが、それが制作当初の物か後の加飾なのでしょうか? 衣文部分には漆は見られず 素地か彩色であったのたと・・・
頭部には手が入って大分いじられているとの事、首の傾きは当初か補修時なのでしょうか?そう考えてしまうのは中途半端のトリバンガ的プロポーションの勢でしょう。 


 クリックすると新しいウィンドウで開きます木造聖観世音菩薩立像(市指定重要歴史記念物) 





アフターに有志3人で「大井の大仏、 養玉院 五智如来 他 拝観」をしました。 (幹事 孤思庵


能満寺→(徒歩・バス)→武蔵小杉→(横須賀線1駅 5分)→西大井→(徒歩15分)→養玉院 如来寺



(大井の大仏) 養玉院 如来寺 の五智如来
ンガラ塗りか、赤く塗られた堂に入ると、丈六(坐像ですが、お立ちになれば、1丈6尺-約4、85 メートル)の五体の如来像が、横一列に安置されており、そのすぐ膝下までよれまして圧巻です。中心の大日如来は法界定印を結びます。
さすれば胎蔵生の五智如来かと思いますが胎蔵生五仏は、大日如来を中尊として(ほうとう如来、開敷華王(かいふけおう)如来無量寿如来、天鼓雷音(てんくらいおん)如来なのですが、此方では向って左から北方世界の釈迦如来、西方世界の阿弥陀如来、中央の大日如来の右隣が南方世界の宝生如来、そして右端に東方世界の薬師如来が並んでおられます。
中尊の大日如来は法界定印ですので胎蔵界の五仏かと思いますと、南方の尊は宝生如来ですので金剛界の尊となります。??西の尊も阿弥陀金剛界の尊名です。更にここでの東尊は胎蔵界の他から宝幢如来でもなしに金剛界宝幢如来でもなしに薬師如来と成って居り???です。 おそらく方位を同じくする有名如来をもって配置された五仏で、それを五智如来とした様です。



如来寺寛永年間(1624-44)に木喰但唱が、芝高輪に創立した寺で、但唱の発起によって造立された五智如来が安置されているところから、俗に高輪の大佛と呼ばれ、明治41年(1908)に現在地に移転しました。大檀越に大和高取藩主植村侯があり、歴代の墓域があります。
養玉院は寛永12年(1635)に創立された、上野寛永寺塔頭三明院がその前身で、開山として天海を迎えていますが、寺を創立したのは天海の弟子賢海、二代目は賢海の弟子念海であります。元禄11年(1698)に下谷坂本に移って養玉院と改め、この頃対馬の領主宗家の菩提寺となりました。
大正12年(1923)如来寺と合併して、現在の場所に移りました。
(同寺HPより引用)
 

但唱 たんしょう

?-1641 江戸時代前期の僧,仏師。
天台宗。弾誓(たんぜい)にまなぶ。信濃(しなの)(長野県)や紀伊(きい)那智(
和歌山県)の山中で修行し,寛永12年江戸高輪に如来寺をひらき,みずから彫刻した五智如来像をまつった。寛永18年6月15日死去。摂津有馬(兵庫県)出身。号は満巌。(日本人名事典より)


何かの催事がこれからあるらしく、普段はし閉まって居る同寺の本堂の戸が開いて居まして、 上がって見せて頂けないかと声を掛けましたら お許しが出て、堂内に入らせてもらえました。

 更に内陣には無理でしょうかと重ねましたら、許可が出まして、珍しい宗風の釈迦三尊を拝観できました。迦葉と阿難の脇侍でした。それは内陣というより厨子の内部の様でした。

寺伝文書に、本堂内陣土蔵造横5間竪3間 本尊釈迦如来木座像丈4尺1寸台高サ5尺8寸後背高1丈1尺3寸 脇立迦葉阿難木立像各丈5尺六寸台座高サ3尺
右本尊釈迦迦葉阿難之三像之儀、当寺檀家小関太郎次郎ト申もの、先祖は禅宗二而本所牛嶋弘福寺檀家二有之。右本尊肥前国長崎ニおゐて唐人二彫刻為致候而弘福寺江寄附仕候由。然ル処其後弘福寺住持不帰依之由二而離檀改宗之上、当寺担家二相成候。
依之右本尊取戻し当寺江相納候由申伝二候。本尊右之後腰之辺二朱漆二而銘有之如左。延宝五丁巳春沙門兆渓於肥州長崎使明苑印官徒范
宗仁刻及冬竣工
武州葛西郡須崎村牛頭山
後光之中心円鏡之裏二鋳銘有之如左
武州葛西郡須崎村願主
弘福兆渓…云々 

文書を良くは読解できませんが、本尊の腰のあたりに朱漆の銘があり、この三尊は出家の兆渓なるが、1677年に肥州長崎におて在京の大仏師であった明国の范宗仁(林長右衛門尉 国次)が制作したものであると書かれている様です。そしてそののち小関太郎次郎なる人が菩提寺を本所の弘福寺から当寺に移した際に、当寺に納られた様です。(以上、解釈に誤謬がありましたなら お教え願います。)



中尊の胸前の輪をつくった印相が目黒五百羅漢寺の拈華微笑の印相に似ている様にも思え 帰り際にご住職に お尋ねしましたら、此方のそれは説法印との事でした。拈華微笑の釈迦は禅宗系統の本尊にある様です。こちらは天台宗寛永寺の流れのお寺です。




養玉院  如来寺から西大井駅までの帰路に、御神輿の渡御に出くわしました。大井町鹿島神社の祭礼で伊藤町の町内神輿でした。 ここらの独特の御神輿
渡御で品川囃子で担いでいました。

神輿を間に担ぎ手が向かい合わせとなる担ぎ方を城南前という。品川区八ッ山橋から大田区大森の一帯にかけて行われる神輿渡御に多く見られる。担ぎ手はカニ歩きとなり当然進むスピードはゆっくりとなる。お互いの力を誇示するので、神輿は左右に揺れる。かつての漁師町の名残りといわれ、勇壮な荒っぽい神輿で有名である。この城南前で担ぐ神輿の左脇には、大拍子と呼ばれる締太鼓がくくりつけられている。これを二本のバチで打ち、トンビと呼ばれる篠笛を演奏し、この調子に合わせながら神輿を巡行する。この囃子となる音楽のことを「品川拍子」といい、品川神社の神輿担ぎが発祥で荏原神社でも見られ、品川区の無形民族文化財に指定されている。神輿は囃子の曲によって、上げ下げをおこなう。そして、城南前は品川から海沿いの大森地域に影響を与えたものと思われる。よって大森地域では「品川拍子」とは言わず「大拍子」と言う。 発祥の地の品川神社荏原神社ではこの担ぎ方は当たり前なので、いちいち城南前とか城南担ぎとは言わない。むしろ大森地域の方が城南前という。 この担ぎ方は荒っぽいせいか、肩に神輿ダコできる人が多い。また、城南担ぎはカニ歩きとなるため、より多くの担ぎ手を必要とし、担ぎ手が少ないと神輿が流れてしまう。太田・品川区だけで見られるかつぎ方である。

この日は流れ解散でしたので恒例の
懇親呑み会は行われずじまいでした。 お酒好きのKさんは、ご自宅の知覚の下車駅際で、独りで一杯やっていると夕刻にメールを下さいました。

次回の集では懇親呑み会を致しましょう!