孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

Takさんから寄稿 『藤田美術館の至宝展』

興福寺文化講座の内容につき、私が報告をしようと思っておりましたが、サントリー美術館21日)の翌日から昨日までは、秩父地方に出掛けていて、PCに向かう時間が出来ず、貴兄にお手間をかけてしまいました。早速の掲載ありがとうございました。
 
サントリー美術館藤田美術館の至宝展』での「地蔵菩薩像」鑑賞の際には、他のジャンルの美術工芸品もたくさん見て来ました。
 
仏様の近くに展示されていた『国宝・両部大経感得図』という障子絵を見てみたら、明治初めに廃寺となった奈良・内山永久寺真言堂に伝わる一連の障子絵のひとつで、絹本着色の2幅とありました。
 
展示会場の説明では、
「両部とは、密教で特に重要な『大日経』と『金剛頂経』のことで、これら経典を手に入れる物語を描いたものです。(善無畏絵の解説では)インドの僧善無畏が、供養法を手に入れるために祈ったところ、大日経念踊供養法が空に現れたという神秘的な場面。  (龍猛絵の解説では)インドの僧龍猛と経典の守護神が塔の入り口で対峙する場面です。龍猛は塔に入り金剛頂経を唱え、暗記して世に伝えたと云われています。」とあります。
 
密教の二大根本経典といわれる『大日経』と『金剛頂経』をそれぞれ善無畏と龍猛が感得する場面を描いた2幅1セットの説話図です。
描いた画家は、後世の日本人で、1136年、宮廷絵師の藤原宗弘の筆になることが近年分かったそうです。経典・説話に基いて描かれたものということで、国宝(昭和48年指定)になっているものでした。
 
東博での「虚空蔵菩薩坐像」の「中天竺善無畏三蔵」なる名前と、前日の興福寺文化講座の「春日権現験記絵」の説話絵の話しが思い出されました。
 
 私が、しばらくその場に佇んでいると、「説明して差し上げる」と言って、黒い僧衣を纏った初老のお坊さんが、眼の前の絵のことや他のことを、小声で早口で教えて下さいました。早速にノートを取り出したが、書き留めるには、あまりにも早い語り口で、キーワードだけのメモになってしまったが、それでもなんだか判った気分になれた、のは不思議なことでした。話しを聞いているあいだじゅう、「終わったらお寺や名前を伺おう」と思いつつ、キーワードを聞き漏らすまいと、必死だったので、彼が立ち去るときは、まだノートの上から頭と眼が離れず、ただ頭を下げてお辞儀をするのみで、姿が見えなくなってから、悔やむことしきりでした。
 
 彼が語ったことの、要点をまとめると、
龍猛(りゅうみょう)と密教開祖といわれる竜樹(りゅうじゅ)とは、同一人物といわれてきたが、別人との説が有力である。龍猛の立っている鉄塔は南天竺にあり、その中で金剛頂経を相承した。善無畏は、北インドの乾陀国金栗王(かつだこくきんくりおう)の搭の下で大日経供養法を感得したという絵である。
善無畏は、サンスクリット語で輸波迦羅(ゆばから)といい、インド中部・摩伽陀(まかだ)国の国王だったが、兄弟の反乱が起き、その征伐の際に負傷して国政を行なえず、この世をはかなんで仏門に入った。ナーランダ寺で、達磨掬多(だるまぐぷた)に密教を学んだ。龍智菩薩(りゅうちぼさつ)の弟子で金剛智三蔵(こんごうちさんぞう)と同門である。達磨掬多の命により、中央アジアから唐・長安に行き、玄宗の帰依を受け、国師として迎えられた。長安興福寺に住み、洛陽・大福先寺に移って、玄宗の勅命で、弟子の一行(いちぎょう)の協力を得て、『大日経』を翻訳(漢訳)をし、中国の密教確立に貢献した。
兵庫県三木市の播磨金剛寺というお寺では、最近、「感得図」の善無畏絵に描かれている搭を模して、五重塔を建立された。それほどに、この絵の影響力はある。
私のメモと記憶に間違いがないことを祈りますが、これらのことを、スラスラと自信を持って話せるのは、お坊さんといえども、相当な人だと、感心しました。
 
 またしても、世の中には、よくよくいろいろな人々がいるものだ、と感じ入りました。また、これもこの展示会場に来なければ、経験出来ないこと、と気持ちがすっきりしました。
 
翌日は、友人と秩父方面に「秩父事件」巡りをすることになっていたので、展示会から帰ってからは、頭を空っぽにして遊びに行きました。先程帰宅しました。
 
残暑厳しき折、ご自愛ください。
 
 
両部大経感得図』 善無畏絵 (図録より) 善無畏が見上げる天空に供養法が現れた絵。
 
 
 
両部大経感得図』 龍猛絵 (図録より) 龍猛が塔の前で、中の守護神と対峙する絵。
 
 
  


 【孤思庵 追記】 
  興福寺文化講座の 記事を先にUPしてしまいましたが、 また違った眼での記事も一興と存じます、貴兄もご遠慮なく投稿ください。