孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

勉強会 発表の草稿 【A】

講中の「教養講座 仏像の見方」での アフター勉強会で、またまた発表する事に成りまして、ここの講座名が、 「仏像の見方」ですので、テーマを私流「仏像の見方」とのお話をしたく思います。

その準備に此処に草稿を書かせて頂きます。




【(仏像)鑑賞】、(仏像作品)平均との比較で、鑑賞の仏像を 愛でる・味わうという行為を意味してます。
素晴らしい  ・  まあまあですね  ・  好きくない!  などです。


仏像鑑賞を幾度とするうちに、だんだん見えてくるんですよ。その像の見るべきポイントが、仏像のお顔とか衣皺とかが多いんじゃないでしょうか?!

兎角直ぐ、それらに目が行きがちですが、 「木を見て森を見ず」の喩、一度仏像から離れて見るのです、仏像の全体像を見て、どのような印象を持ったのかを確認して、それから細部を見る。鑑賞の経験が少ない時は特に、全体像を先に見ることが大事。細部だけを見ている時と、見え方が全く異なります。つまりプロポーションも大切な要素と言えるでしょう、 更に、オーラが在ると云うか、その作品の雰囲気が感じられてくるものが大事なんでしょう。

 その鑑賞の時、肝心なのは「意味を理解しようとしない」ことです。

意味を理解しようとするから、その対義語として「わけわからん」になるのです。そうではなくて、その作品を見た時に感じた事だけで、いいんですよ、それが大事なんですよ!。作品を見て、感動したり、不思議な気持ちになったり・・・・ 感じる」それなんですよ!   判りますねそれです。

そうした心の動きが記憶に残ればいいのです。「意味を理解しようとする」ことを放棄することで、余計のない素直な気持ちで仏像をを感じることができるのではないかと思います。

仏像を見るのに、勉強なんていらない! 自由に見て感じればいいだけ!こういう見方が仏像ファンの大半で、それでいいんでしょう・・・ 。

以上の文章は、常の自身の仏像鑑賞を一度 自己批判してみました。 

常での自論・持論は、「仏像は美術作品では無い!」なのです。 

 では「仏像とは何?」  一度考えてみましょう…

辞書に依れば、仏教の信仰対象である仏の姿を表現した像のこと  と在ります。

異議は在りません、ではそれを、どの様に私達は仏像を拝観しているのでしょう。


【参拝】お寺を訪れて、仏像を 拝む(または祈る)行為

①仏像自体=仏(法身)の考え  個別仏像自体に霊験が存在する。霊験あらたか、 日本霊異記等(仏教霊験譚)

②仏像を媒体に  仏=法身(ほっしん)のbuddha (色も形もない真実そのものの仏をいう。)、其のところの真理(法)の身体)を拝み、願う。 「仏像を媒体として仏を観想する」 
 
瞑想【観想】=そのものの真の姿をとらえようとして、 思いを凝らすこと (たとえば、浄土教阿弥陀仏の観想)
また密教での【梵我一如・入我我入】を目的とする…密教瞑想法



【拝観】 (参拝して観る事)   この言葉は、我々にとって、 実に都合の良い言葉です。
仏像鑑賞では失礼です。とて良く観たいが本心です。 数珠も持ちて、双眼鏡も物っているのです。

正直 私はこれですね! あんまりはっきりさせない 、とにかくファジーで、参拝と鑑賞の両方を兼ねており、その割合は、人それぞれ。 私なんぞは、正直言えば、失礼のない鑑賞なのかもしれません。 若し信仰心ならば、そのお寺を、その仏像を選んだでしょうか?!
そんな私も 、他方では、毎朝 自宅で仏壇に閼伽( サンスクリット語 arghaまたは arghyaの音写。元来は客人の接待のときに捧げられる水。現在では仏前や墓前に供えられる水を差。阿伽,遏伽とも書かれ,器水,功徳水 (くどくすい) とも訳される。)と香・華・燈明・飲食などの供物を備え、手を合わせます。それは純粋に信仰だと思います。


【観鑑】 「観」は単に見るのではなく、「注意深く見る・心のなかで見る」など、「深く見、考え、心で思う」ことです。「考える」という意味もあり、「観念」などは、「心のなかで物事を見、考えた思い」のことです。
他方の「鑑」は、カガミともよみ「鏡」とか「水に映す」というような起源があり、「鏡に映して見る」ということは、何かの基準(自分)と比べて考えるということで、反省的に、深く、人間と比較して吟味し判断するということです。

これは、自分が仏・菩薩と 観鑑する事で、仏と比較して自分を知り、また自分と比較して仏を知る行為と考えます。


【美術品鑑賞】 芸術(造仏)とは、表現者(仏師)あるいは表現物(仏像)と、鑑賞者(拝観者)とが相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的(信仰的)な変動を得ようとする活動です。とりわけ表現者側(仏師)の活動として捉えられる側面(仏像鑑賞)が強く、その場合、表現者(仏師)が鑑賞者(拝観者)に働きかけるためにとった手段、媒体、対象などの作品やその過程を芸術(仏像様式・作風)と呼びます。表現者(仏師)が鑑賞者に伝えようとする内容(作仏表現)は、信念、思想、感覚、感情など様々です。

【仏師】<≒僧侶   …その目指すもの≒宗教的

【願主】<≒仏教信者…その目指すもの≒宗教的

 仏像の芸術的 鑑賞・観賞 としても、その理解は、作者の主張の理解であるなら、上の理由から、仏像理解には、仏教的解釈が不可欠と思います!




【鑑賞と観賞】 教えて!goo
回答者:maris_stella回答日時:2003/02/22 23:53
    
「鑑賞」と「観賞」の両方にある「賞」の字は、「めでる(愛でる)」というような意味で、「味わい楽しむ」というような基本的意味があります。(また、「褒め称える」とか「美点を認める」という意味もあります)。この場合は、「賞」の意味は同じだと思います。

違うのは、「観」と「鑑」の字で、「観」は、「観察」などとも言いますが、単に「見る」のではなく、「注意深く見る・心のなかで見る」など、「深く見、考え、心で思う」ことです。「考える」という意味もあり、「観念」などは、「心のなかで物事を見、考えた思い」のことです。

他方、「鑑」は、「鏡」とか「水に映す」というような起源があり、英語だと reflect(反射する・深く熟慮する)のような意味です。「鏡に映して見る」ということは、何かの基準と比べて考えるということで、反省的に、深く、規範と比較して吟味し判断するということです。

「観賞」という場合、普通には、やはり「見る」という行為が前提になります。「鑑賞」は、見るとか見ないではなく、何か対象を、深く心に考え楽しむ・愛でるとか、規範との比較で愛でる・味わうという意味です。

「規範」つまり、「反射させて比較する典拠」を考えて対象を味わうことは、「鑑定する」というような動詞に出ているように、真贋、真偽を判断するというような、愛で方・楽しみ方で、これは、「亀鑑」のある「芸術作品」などを、判断し比べつつ、愛で楽しむということで、ただ、「深く見て愛で楽しむ」という「観賞」とは意味の位相が違っています。

「花を観賞する」も「花を鑑賞する」も可能で、後者は、芸術性などを吟味しつつ味わい見ることです。「音楽を観賞する」は、音楽は普通「見えない」ので言いません。ただし、「音楽を聴いて喚起されたイメージを心のなかで観賞する」というのは、稀にあるかも知れません。

「観賞」というだけで、すでに単に見るのではなく、心で味わいつつ見る・愛でるという意味なので、花や美術などは、「観賞」でも「鑑賞」でもよく、少し意味に違いが出てくるということでしょう。

音楽や小説などは、「鑑賞」と言っても、そこには味わう人のレヴェルがあり、「観賞」に相当するレヴェルもあれば、芸術的吟味の「鑑賞」もあるということです。ただ、区別する言葉が特にないので、「鑑賞」というか、または、「音楽を味わって聴く」「小説を味わって読む」などが、「観賞」の代わりにあるとも言えるでしょう。
 
《私のコメント》仏像には規範として、上の解説の、『「鑑」は、「鏡」とか「水に映す」というような起源があり、…。「鏡に映して見る」ということは、何かの基準と比べて考えるということで、反省的に、深く、規範と比較して吟味し判断するということです。』により「鑑賞」を使いたいです。先述していますが、仏像愛好の原点に、若い時の自身の思 「仏像を鏡に、自身を見る」があり、また、「自身と比較対象としての極致の仏像を観る」を想い出しました。それは「鑑賞」だったことを此処に認識しました。