孤思庵の仏像ブログ

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宗像大社国宝展 - 出光美術館 鑑賞会 報告

●10/07(火) 宗像大社国宝展 - 出光美術館 鑑賞会 14:00 入り口に参集
   (招待券3枚ほど有ります 参集人数で各自の負担額が変更に成ります。)

朝鮮・中国、さらには遠くペルシャの工芸品も含み、「海の正倉院」とも呼ばれる沖ノ島 出土の国宝8万点をはじめとする神宝や、貴重な資料に加え伊勢神宮の神宝も展示されています。
 
に呼応しての3名で鑑賞をしました。3名でしたので、入場料は無料で済みました。
その分、アフターのコヒーは600円、高くて接客態度悪しでた。 
 
得手でない神社関係の展覧会でしたので、キャプションを読み、陳列品の理解に苦労でした。ここでの仏教趣味の収穫は色定法師書写一切経(日本の平安後末期の現存書写一切経で底本が判明し、而も現存する舶載宋版一切経と解明できたものはおそらく色定法師書写一切経が初めてではないかと思われる。)のキャプションに在りました社僧色定法師の「社僧」と云う言葉でした、神仏混淆・神宮寺は知っていましたが「社僧」は知りませんでした。帰って調べましたら、

大辞林 第三版の解説

しゃそう【社僧】

奈良時代中・後期以降,神仏混淆の結果,神社に所属して仏事を修した僧。多くは境内の神宮寺・別当寺などに住み,妻帯が許され,その権威は神官をしのぐこともあった。別当・座主(ざす)・院主・検校(けんぎよう)・勾当(こうとう)などの階級があったが,明治維新後の神仏分離令により廃絶。宮僧(くそう)。神僧。
がヒットしました。
 
すは宗像大社の神宮寺と思い、成増勉強会での先生役の友人に聞きましたら、鎮国寺(ちんこくじ)と教えてくれました。 鎮国寺は弘法大師空海)が中国より帰朝した大同元年(806年)日本で最初に創建したと伝えられる寺で、宗像大社の神宮寺として栄え、今日も七堂伽藍(がらん)を構えているそうです。
 
との事で「社僧」を納得しました。
 
その「社僧」の関連陳列品は「宗像大神宮神官僧官御灯衆等連署起請文」でした。第三宮では比叡山根本中堂の比叡山根本中堂の法灯が分灯されており、その油を絶やさない事を誓う連署起請文です。
ここで奥書に日付と連署が成れていて、最初に御灯明衆2名 次に僧官たちの署名、次いで神官たちの署名でして、権大宮司が最後でした。その権大宮司は花押が無く、その場に居なかったのか、名誉筆頭職としての署名なのでしょうか? などが窺われます。 尚、余談に序列の順位に連署一段の物と2段のもので、その序列順番が違うとの事で驚きました。
 
○△□図 や指月布袋図 がここ出光美術館所蔵で知られます仙厓和尚、その仙厓筆が二幅同展に陳列されてました宗像三女神画賛と阿弥陀経石の拓本に加筆の阿弥陀坐像でした。どうしても馴染の仏教関係に目が往ってしまいますが、今回はそれ以外に仏像・仏画は有りませんで、神像もありませんでした。
 
平安時代後期の宗像大宮司は日. 宋交易を推進した国際派だった。歴代大宮司が中国人女性を妻とし母とした。先述の阿弥陀経石や狛犬は中国の 宋代に造られ渡来したもので、同じく先述の色定法師書写一切経の底本も宋版一切経など、大和朝廷中心の対外貿易終焉後の武士の対外交渉に多く携わった事が窺われます。 中には寄り物(古代からそもそも船の遭難そのものを神罰として捉え、漂流船・漂着船は発見者・救出者によって略奪・捕獲の対象になると考えられてきた。慣習では地元領主あるいは住民の所有物もしくは地域の共有物とされてきた)と呼ばれる難破船やその積載品をめぐる鎌倉幕府との交渉文書なども面白かったです。
 
など いろいろ勉強になりました。