孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

仏像は扱いを誤ると罰が当たるか?

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私も何度か質問した事のある 無料で使えるみんなの知恵共有サイトYahoo!知恵袋に、仏像に関しての質問が目にとまりました。



質問は、

今回、作品の一部に仏像を差し込もうと考えました。いわゆる遊び感覚でありパロディーとも言えるかもしれません。

そこでお聞きしたいのは、仏像や仏画などを自分の作品に取り入れる場合の注意点です。
これだけはやってはいけないというタブー・禁忌はあるのでしょうか? こちらでは他意は無いつもりでも仏陀や仏教を冒涜したと受け取られることもあるかもしれません。 もちろん、あからさまに貶める意図はないのですが、少し軽く扱っている、あるいはおちょくってると捉えられて反感を買う恐れはあります。・・・(後段省略)

と云うものでした。仏像趣味で同行の志が集まる中 色々の方向での仏像趣味が在るを知らされるこの頃です。

そんな中、私は 仏像て何ですかと 時々立ち返ります。きっとその答えにも 千差万別がある事でしょう。

そんな事を考えましたので、Yahoo!知恵袋に応えてみる事にしました。







shiba_koshianさん
【小生 孤思庵】.

2014/8/1909
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極度に冒涜しなければ良いのでは?

仏教も最初は仏舎利進行で偶像信仰なしでした。現実に仏の存在を切望して、仏像が造られる様になりました。

仏像造像の際に三十二相(如来の身体に備わっている 特徴)をうつす事などの意識と、尊別に形の既定の儀軌などがやかましく成りました。

仏像・仏画は開眼と言って 魂入れの儀式が行われます。

仏の存在意識に 形なしの、宇宙に偏在の法身(ほっしん)の仏の意識が在り、 一方に釈迦が現世に応じた如くに 現世に身体を持った存在の仏も在り、それを生身(しようじん)と云います。

形なきものが身体を持つときにその特異性の意識で先述の三十二相を有します。そして三十二相を具する仏像も、 先述の生身の仏と見なされ 仏像自体も尊い存在と成って居ます。

私は仏像ファンで、本来は美術史的に鑑賞する者で、 美術作品は作者の意図を観る事と思いますので、イコロジーの延長で仏教も少し勉強しました。

ですので私は博物館・美術館での鑑賞や、お寺でも参拝とは相違の拝観をしているのでしょう。

拝観とは都合の良い言葉で、拝みもしますが美術的鑑賞も許してネです。

博物館・美術館での仏像は信心は抜きです。 実は展示前にお寺を出る時に撥遣(はっけん)式で、魂抜きを行って居ます。ですので博物館の仏像には、合掌お賽銭は無用と成っています。

撥遣の反対語は開眼でして、開眼をしていない仏画・仏像は仏としての役割は無いのです。

とは申せ、写経と同様に写仏や仏像彫刻をされる方にとってはその仏像・仏画に精魂を込めていらっしゃいます。 これはその行為が供養と云う祈りの宗教行為なのです。

そうした仏画・仏像が開眼されているかは微妙です。 同様に仏壇以外に家に飾る仏像も微妙ですが、お線香をあげるか否かが境で無いでしょうか? 宗教行為を受け無い仏像は、美術品なのでしょう。

くどくど書きましたが、貴方がご自分の作品に取り入れる仏像や仏画がどの様な役目を持っているかがつかめて来たのではないでしょうか?

お寺の人々の祈りを受けて、拝む人に安心(あんじん)を与える仏像とは距離があるように思います。

最後に、仏像は唯の木や金属や石で。それは仏に非ずと、寒い日に仏像を燃やして尻を炙った禅僧 ・・・それに 罰を与えなかった仏、(神と違って、仏は祟ったり、罰を下したりしません)

もう片方に子供が遊びで土に枝で描いた仏も有難いと云う考えもあります。


この最後がお答でしょうか? 要はそれを如何に考えれば、如何に扱えるかなのでしょう。

仏教哲学の唯識では物は実在しないと考え、すべて心の中にて考えてからこその存在としてます。(同じ本でありながら 犬が見ての本は紙の集まりで、人間の本とは相違  もう一つ例を挙げれば 糞はハエの眼には大御馳走と映っているのです)

仏の存在、それは仏像に存在?  それとは別の何処かに存在?・・・人々の心に存在?


と云う答えを出しました。私の他にも既に2件ほど回答が寄せられたようです

私のは 多くを述べて、質問にストレートに答えてないので歓迎されますかどうか?
果たして我が回答はベストアンサーに選らばれるでしょうか?

回答受付終了まであと6日だそうです。 また1週間後に結果と ベストアンサーの答えの骨子報告します。

★ この質問は【仏像。仏画に関するタブーについて】でネット検索すると Yhooの知恵袋 とGoogleの両方で質問のオリジナルと寄せられた回答がご覧になれます。
 
以下は他のSNSに日記紹介しましたら、知己より、深いコメントが寄せられました。以下にご紹介させて頂きます。ようやくの仕方と自分の回答で、捻ってしまいましたので・・・かえってオリジナル回答よりも深い回答が寄せられました。オリジナルに寄せられた回答と見比べてみてください
 

コメント

 
仏教徒ではない者からの戯言としてお聞きください。

仏教でも禅宗では丹霞焼仏のようなことを言われる。
仏像とは神道で言えば憑代で、そのものに価値があるものではなく、物質的には木偶であり石であり金属であるようなものでしかないということです。

イスラームでは偶像崇拝を否定して偶地崇拝をしていますが、同じことで、それにとらわれているようでは執着となり妄執となり、解脱はできないものだろうと思います。

偶像を否定するものではありません。とらわれるなということです。
だから偶像を破壊するなんてナンセンスで、あってもいいとおもいます。

その程度のものですから、どう使おうと仏罰なんか当たらないと思います。                                                                                              
     
  • Mさんからのコメント
     
    難しいですね。

    まず何を以て「扱いを誤る」とするか、という点があると思います。
    祀り方が疎かというレベルから、故意に傷つける・盗むとか色々想定できそうです。

    古代・中世に遡ると、仏像を毀損することで罰を受けるという例はたしかにあります。
    片や、そのような恐れもなく、盗んだり焼いたりしてる節も。
    不安・後ろめたさはありつつも、毀損することはあり得たのではないでしょうか。


    宗教史研究者である大喜直彦氏にそのものズバリ「焼かれる仏像」という論文があります。『中世人の信仰社会史』という本に収録されています。
    論点は多様で、正直納得しかねる点のも結構有るのですが、
    一読の価値はあろうかと思います。
     
     
  • Tさんからのコメント
     
     
    「反感を買う恐れ」とは心の問題。質問者の作品に対する取り組み方が全てを語ってると思います。
    みうらじゅん『見仏記』のイラストでも、ふざけていると思う人は思うでしょうし、手塚治虫ブッダ』に挿入されているギャグや創作のエピソードを冒涜だと受け止める人がいても、何ら不思議ではありません。
    両氏ともに反感など承知の上で、自身の作品に誇りをもって発表しているはず。その上で評価されているのでしょう。
    「子供が遊びで土に枝で描いた仏」にも、「反感を買う恐れ」なんて邪心は無いはずです。
    そこが決定的な違いだと思います。

    心の問題として仏教を捉えている視点から、「反感を買うことを恐れずに」自分自身の意見を述べてみました。
  • 仏像好きの孤思庵2014年08月20日 09:11 http://img.mixi.net/img/basic/icon/message_trash002.gif
    日頃から尊敬のお三方から、お揃いで貴重なご意見を頂戴し、ありがとうございました。 当方の拙い意見が 皆様に火を付けたようで、「仏像趣味の出発点を考えよう」の提言持論の我が意を得たりの感です。重ねて御礼申し上げます。

    Yahoo知恵袋への質問投稿者にも読んでもらいたく存じます。 ご芳名を伏せて 我がブログのコメント欄に転載させて頂きたいのですが…障りが在れば ご連絡頂きたく。
     
  • 仏像好きの孤思庵2014年08月22日 06:26 http://img.mixi.net/img/basic/icon/message_trash002.gif
    コメントに申し上げ忘れました。 お三方のコメントで 拙文の不足を補って頂き 整いました事 御礼申しおあげます。

    賞賛のコメントも有難いですが、こんな日記著者が満足出来る補足コメントが最高で、日記の完成度を増してくれます。