孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

興福寺文化講座(東京)唯識三十頌』を読むを受講

【連絡】 次回7月の「仏像愛好の集in東博」は、勉強会の会場確保の為、都合により土曜日でなしに6日の日曜に開催します。「仏像愛好の集in東博」の件は追ってまた広報します。発表して頂ける方は表題とテーマの概要をお寄せ願います。
 
 
先の日曜日には薬師寺東京別院の連続講義「唯識三十頌講義」松久保秀胤 長 老 を受講、
昨日木曜日には興福寺文化講座( 東京)で、連続講座『唯識三十頌』を読む(22) 夛川俊映 興福寺貫首 を受講しました。

 
その内、今回は興福寺文化講座の方を日記にします。ここでは、自分流に書き換えるよりも、出来るだけ講座の風をそのまま伝えてみたく思いますので、配布プリントの転載に受講ノート書き込みを付加して書いてみようと思います。

為にプリント文と受講ノートで重複が生じますがご容赦願います。
まずは前回の復讐的から始まりました。



17、18、19頌の復習

17 全ては心の展開に過ぎない。=自分探し
18 疑問に答える
19 自分の意識 見分と相分  実体を主体が見る 如実に見る



〔第二〇頌〕
1 由彼彼遍計  彼彼(ひひ)の遍計(へんけい)に由(よ)りて、
2 遍計種種物  種種の物を遍計す。
3 此遍計所執  此の遍計所執の
4 自性無所有  自性は所有なし。


1 「唯識性」・・・・・「唯識ということ(唯、識のみであるということ)」

唯識所変(識所変)」・・・すべては識の変所である。すべては識の変現である。
「識転変」・・・すべては識の転変である。

ーーーすべてのもの、あらゆることがらを心の問題として、心の要素に還元して考える立場

2『唯識三十頌』の構成(三段)
①宗前敬叙分(序文)…後世注釈家の付加
②依教広成分えきょうこうじょうぶん(正宗分)
③釈結施願分(流通るずう分)・・・後世注釈家の付加

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3依教広成分(本文の第二〇頌~第二五頌・・・世界の在り方

 第二〇頌     ・・・遍計所執の世界(私たち普段の世界・                  日常の世界の状況説明)
 
 第二一、二二頌 ・・・依他起いたき(=事実) の世界と、円成                の世界(=真実) [事実と真実] 

   依他起を別で云うと、 因縁 生起(因起) =事実

 第二三~二五頌 ・・・遍計所執・依他起・円成実という三つの               世界の在り方を、改めて<空>の観点                から検討する。


*世界の在り方を遍計所執性しょう・依他起性・円成実性の「三性」で考察。



以上此処までは。配布資料プリントを概ね写しまた箇条書の様な形態で書いて来ましたが、以降は伝わりにくいので、自分の言葉も交え、自分流の文章に致します。

「如実知自心」とは、実の如く自分の心を知るの意で、自分の如何なるを知るかといえば、「遍計所執」を知るのであって、遍計所執とは、凡夫の日常の認識であって、その時々の様々な思い・計らいをコッテリからませて、しかも、その眼の前に展開する事柄

これでも解り辛いので自分お言葉では、身勝手に思いを展開する事なのですが、勝手な思いの解り易い喩があります。

〇好都合なら貪り(貪欲)、して・・・変わらないで居て欲しいと思う!&近づく

×不都合ならば嫌悪・毛嫌い(瞋恚)、して・・・変化して欲しいと思い、遠ざかる、遠ざける!

その状況に置いて 違う事を望むのです。

そしてその思いという執着の構図を重ねている。これが「遍計所執性(性)」です。

★此の遍計所執は煩悩の世界であり、この様に過ぎて行くような事柄が心の深みに取り入れられる。とも説明されました。

「現行薫種子」種子(印度語でピーシャ)=習気(じっけ)。これは唯識の理論の「種子が阿頼耶識に薫習されて行く」という事なのでしょう。平たく、言い換えれば遍計所執なる煩悩が明日の行動を生むという事ではないでしょうか!?

前回の唯識三十頌を読む21. での「第十九頌」に出て来た「習気」とは習い気性である と理解すると分かり易いです。ですので先述の種子=薫習=習気(じっけ)なのではないでしょうか?


上段の〇と×の付けられた、都合良しと不都合に対する気持ちの喩は、実に思い当たる事柄です。私はすぐにヒューマンリレイションが思われました。親しく成りたい人、反対に疎遠で居たい嫌いな人。まだ全体を観れてませんが、唯識の心の分析には驚嘆です。

また唯識は唯言と云われるそうで、人間の心と云うか、志向は心が考えるのは言語によってです。ですので人との対立は交わした言葉が原因と成る事が多い様です。「口は禍のもと」は正にこれです。



でもそんな過ぎ去る一時的な事に執着しているは正しい評価なのでしょうか?

そうなんです、そうして遍計所執した世界を「実有」と確信(妄信)している。が、そんな世界はない(「都無-すべてなし-」)と唯識は云っているのです。

更に・・・であるからして、3・4「此の遍計所執の自性(そのものが本来備えている真の性質)は所有なし」とバッサリと言って居るのです。

そしてまたヒューマンリレイション的に思えたのが、人それぞれという事なのでしょう、「唯識人人唯識」なる言葉をおそわりました。また「一人一宇宙」とも・・・。

されど、自然と人間とを考えますと、所詮自然の掌に載る人間です。最近の言い方で自然との共生(余談だが建築家黒川紀章氏がつくった造語は問題があるらしい)しかし、仏教界では古くから自然と共に生きるは随分前から言われているとの事です。)

そう考えますと人間同士が好き、嫌いは愚かな事に思えます。


講師の夛川貫首は、唯識の文献のピカイチとして、解脱上人貞慶の『愚迷発心集』を挙げられました。その名文に・・・「あたかも影に向って憤喜をなすがごとし」があるそうです。



「思いという執着の構図を重ねている。これが「遍計所執性(性)」です。

しかも、そうして遍計所執した世界を「実有」と確信(妄信)している。が、そんな世界はない(「都無-すべてなし-」)
であるからして、3・4「此の遍計所執の自性(そのものが本来備えている真の性質)は所有なし」と言って居ます。」を地湧に良く表していると私にもわかりました。

ここで唯識の主テーマの解説がまた為されているようです。

唯識に興味を持ち始めばかりの者が、解らぬままのとりあえずの
書き殴りのノートを後から読めば 解らぬ単語の連続位で・・・難解ですが、比喩の説明ではうなずく事の連続でした。

とにかく唯識は現段階では今まで聞いたどの仏教よりも 難しく感じますが、分かった事の積み上げで良いのではと思い始めました。

暫く両講座の受講続けてみます。


唯識に食え悪しい方には許しまじき誤謬の解釈、もでしょうが、駆け出しの事とご容赦ください。