孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

唯識の「差別」「分別」「了別」で仏像鑑賞

 唯識3年、倶舍8年」と云うフレーズは「倶舎論の勉強を八年すれば、唯識は三年でわかる」とらしいです。唯識は、それほど前提となる仏教の基礎知識が必要だということであるらしい。

ではと、その概要を勉強してみました。

原始仏教の後、部派仏教時代の上座部系の「説一切有部」は、あらゆる現象(諸法 dharmā)を構成する基体として、有法である法体(ダルマ dharma)を想定し、この有法は滅することなく、過去・現在・未来にわたって存在し続けること)など来考えた、それらを含むアビダルマ教理を集大成したのが「倶舎論」

大乗仏教中観派の教理は、般若思想が中心であり、その思想根幹は、「縁起」「無自性(空)」である。

中期大乗経典の解深密経により始まった瑜伽行唯識学派は瑜伽(ヨーガ)の実践の中に唯識を体得、教理にまとめた。 その根幹思想は、心(識)だけは仮に存在すると考え、深層意識の阿頼耶識が自分の意識も外界にあると認識されるものも生み出していると考え(唯識無境)、最終的には阿羅耶識もまた空であるとする


そんな唯識を前提となる倶舎論などの基礎知識も貧弱なままに安直に「唯識」を仏教の進化形体ととらえ、着目して、安易な勉強方法として、「唯識」を中心的に据える法相宗興福寺薬師寺の東京で唯識講座を受講し始めてます。

過日は薬師寺東京別院の「唯識講座を受講しました。唯識勉強し始めますと、今までの原始仏教とは相違でなかなか難しい、分からないままに難しいと感じました。

難しいのではないかと感じる、それが第六感と講師の老師は云われました。五識が感覚知であるのに対し、難しいのではないかと思うそれは分別判断の働きであると説かれました。

分別判断の分別とは識(vijnapti)とは分別知(vijnana、識)によって分別されたものである。アーラヤ識は諸法が蔵せられているので、種子(しゅうじ)識であるともいう

斯様に難解です。 

そして分別判断の働きに 「差別」「分別」「了別」があると云われましたが、先日の受講では入室前にテキストのプリントを貰い漏らして居ましたので、講義の理解はなおさらできずでできずで、出て来た単語をメモるのがやっとでした。

最近、自分の趣味で、同一尊の仏像を固体別に見比べて、その違いを認識する事に興味を持っているので、円成寺像、浄瑠璃寺像、横蔵寺像、などと区別・分別して評価する事が多いので、

その唯識で云うところの見方、区別・分別の仕方に興味でして、其の仕方での仏像鑑賞に区別がつかないかと、ふと思い立ち、此処に、無謀にもで…「差別」「分別」「了別」の違いを独学してみました。

メモった言葉をキーワードに、唯識における「差別」「分別」「了別」の区別を理解したいとネット検索をしてみました。

まず「差別・しゃべつ」とは 仏教世界において、全ての物が一如平等であることに対する高下、善悪などを持つ特殊相のこと(しゃべつ)。 平等に対して,それぞれの物が異なる独自の仕方で存在している姿。さべつ。

と在りました。

「差別」での仏像鑑賞は、仏像複数を取り上げ、それら此処の何処が異なる姿で、存在しているか。見比べる事かと理解してみました。

一般で云う「比較」に近い状態なのでしょう。
仏像を良く観てそれぞれ比較する。色々の違いに気が付く。

その方法では仏像に関する知識を持ち合わせずとも、仏像Aと仏像B 両者の違いは、良く観れば分かります。 唯見比べているのです。


次の「分別・ふんべつ」は辞書によると、1. 道理をよくわきまえていること。また、物事の善悪・損得などをよく考えること。
2. 仏語。もろもろの事理を思量し、識別する心の働き。


① 物事の是非・道理を判断すること。わきまえること。また,そのような能力。
② 虚妄である自他の区別を前提として思考すること。転じて,我(が)にとらわれた意識。


仏像鑑賞で言えば、仏像の知識を持っていて、Aは秀作、Bは良くないと評価する事の様です。

辞書の定義から思うに、仏像鑑賞に例を取る場合、仏像の知識観方のが無いと分別はできないと云う事に成ります。



分別に対し、無分別と云う言葉が在ります、無分別を一般の使い方で無しに仏教用語では、物事を区別して考えないこと。また、妄想を離れていること。

であり、我見の反対の意味で、悪い事ではなしに、優れた考え方と成る。

分別には 我=自我とう云う危険を内包しているようです。 仏像鑑賞に関していえば、我見が在り勝手な評価をしてしまう事でないでしょうか?

ここで差別的、仏像鑑賞よりも、分別的仏像鑑賞の方が与良いと云えると思います。ただし間違った見方、評価の危険性が内包されてます。




「了別・りょうべつ」

一般の辞書では扱われていないようです。
ネット検索で、唯識・了別をキーワードに検索したのですが、なかなか思うものがヒットしてきません。


やっと、唯識三十頌の二頌に、了別境とは、それぞれ別の対象(境)を認識する前五識、及び前五識と共に働いて認識活動を行う第六意識のことである。

と在りましたが、未だ唯識三十頌を順序立てて勉強していない私には、理解を超えます。「了別境」とは五感から置ける刺激に対しての意識も含んだ心の判断の様ですが・・・もう独学では無理の様です。

もはや、一般常識、私の仏像鑑賞の喩、の及ばぬ 唯識の教学に踏み込んだ領域の様です。「了別境識」と云う言葉も存在するようですがもはや理解できません・・・、

そんな中ようやく一行をヒットしました。
(◆「了別境識」:前五識と第六意識のこと。)了別とは対象を感覚・知覚し,そして思考すること。

と在りました。

私は仏像鑑賞に於いて、AとB、その違いが判るには知識が必要 それも、優れた正しい認識が必要で、(我見や誤謬は良くない)という事ではと薄らと分かったような気でいます。

が、それで当たっているのでしょうか?「了別」どなたかご教授お願いします。



呼応して、Kさんがコメントを付けてくれました。

〔了別は、先日の長老の講義では、「法(ダルマ)を中心として、明らかに認識する事」とおっしゃっていました。

境は、認識の対象の事です。

また了別境識は了別+境+識で、心所の「別境」とは違うので、お気をつけ下さい。

(以下省略)  



有難うございます。唯識入門の私にはまだ少し難しいです。

仏像鑑賞の比喩にすれば、ちゃんとした正しい仏像の知識を持って鑑賞・比較・評価しなければならないという事でしょうか?
了別は自分の知識で判断、見極めるという事で良いのでしょうか?


仏像はただ眺めてい居るより、すぐれた知識を持って、見極めるとの持論に 我田引水だったでしょうか?

唯識については、何れは時間をかけて、分かるところからだけでも良いから 継続して開設を聞きつ受ける。事で分かってくる。で良いのではと、講義の受講者諸兄の様子に考えました。

思い付で、分からぬ者が、解らないからない事をで… 無茶苦茶でした。  済みませんでした。

【完】