孤思庵の仏像ブログ

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メンバーの日記転載 若狭・小浜 仏像の旅 第11回 美山から京都へ

仏像愛好の集 メンバーの暗夜軒さんが他のSNSに投稿されましたので此処に転載致します。
 
 『若狭・小浜 仏像の旅 第11回 美山から京都へ』
 
明通寺を見終わり、遅めの昼食をしてもまだ3時なので、まずは正伝寺に銅造如意輪観音半跏像を見に生きました。この仏像は銅で鎌倉時代に白鳳の金銅仏を模刻したゆえに貴重で重文になっている。尼さんが一人で掃除をしていたので、33年に1回しか公開しないのをお願いして見せていただいた。厨子の前に置いてある仏具や供物をどけて、厨子の鍵を開けて見せていただいた。写真では斜めから写したので白鳳仏そっくりだが、実物を正面から見ると白鳳の顔ではなく、模刻した時代の顔になっている。鎌倉の復古だということが分かるが、この時代の復古作も多くはないので貴重である。この寺は檀家がなく尼さんがお茶を教えて維持してきたとのことだった。あと、近くの臨済宗の常高寺に行ったが、寛永7年の開基で、広々とした境内の寺だったが、街中の寺はどこか面白みに欠ける。
小浜市以外の寺も見ようと、意足寺の重文の千手観音立像を見るため車を走らせたが、途中で道案内の表示が無くなりたどり着けず。飯盛寺の重文本堂(室町中期)も道案内が途中からなく、山中をさまようことになり着けずで、5時を過ぎたので、大島半島という小さな島(半島というが、橋を渡って行くので、島に近い)に重文6体、毘沙門天像などがあるので、どんな島か見に行こうということになった。
こんな小さな範囲に6体とは大変なところですが、お寺の規模は小さく、収蔵庫があればいい方でしたが、なんでこの島に重文6体なのか、島には山城もあったので、昔から人は住んでいたが、お寺の方が避難とか移転してこの島に集まったのではないかとも考えました。
このあと、来る時に店主が不在だった骨董屋に行き、窓のところでカーテン越しに置いてあった伊万里柿右衛門風の草花紋のある大傷のとっくりを買おうとして、若狭近くまで戻りました。そこは店というより自宅でその大きな家が2棟もある構えから、地方の古物市場の会主だろうということは一見して分かりましたので、家に入れて見せてもらえればもっといいものもあるはずです。
夜ついたら、やはり会主の家で本人と古美術商氏は見知った間柄でした。値段を聞くと、古美術商氏が「ここ若狭は伊万里物が高い土地なので、7萬は言われるよ」と言っていた7万円ピッタリでした。私は5萬円という可能性もあると踏んでいたのですが、相場で買うのも面白くないのであきらめました。しかし、このの会主氏は50年以上業者をやっているようで、何人か名前が出た大手もたまに来ており、品物も見せていただいたのですが、品物や客あしらいに昔ながらの会主を見たようでとても懐かしい感じでした。結局、値段が厳しく2人とも買い物なし。
翌日は京都国立博物館で行われている「南山城の仏像展」を見るため、美山から周山街道を通り京都に行きました。
小浜から山越えで行けば、さらに昭和が残る美しい景色で、中世の荘園の形を留めているような村落の風景が続きます。地名も太良庄など昔の荘園の名をそのままに残す場所もあります。
日本中を車で旅行しましたが、これほど古い日本の原風景が数十キロの広きに渡って残っているところなないでしょう。
茅葺きで有名な美山だけでなく、トタンで蔽っているものの古い民家だらけの集落が山裾に広がる風景が続きます。
途中に常照皇寺の案内板があり、脇道に入り見て行くことにしました。昔、20代の頃、京都を見て歩いていたころ、余りに京都の北にあり交通がなく行けなかった寺だったことを思い出しました。
古美術商氏は昔行こうとしたことが合ったそうで、「寺は隠れた桜の名所で、尼さんが守っている寺だ。文化財があるという寺ではない。」とのこと。
山深い集落のはずれにあり、門前にはまだ桜が咲き残っていました。とても閑静な寺で山門からの参道も長い寺で、開基は古いのですが、説明版によると、明智光秀の山国焼亡戦で全焼して荒れたが江戸に入り復興されたそうです。それにしても戦国ではこんな山奥の寺まで焼いたのだから抵抗が激しかったのでしょう。
そのあと、車はいつの間にか周山街道に入り、神護寺の脇を通り、京都市内に出ていました。
次回は、京都国立博物館での「南山城の仏像展」を紹介します。