神宮寺は若狭一宮の神願寺として成立し、
元正天皇の勅命で
和銅7年(714年)に創建されたと伝えるが、鎌倉初期に若狭彦神社
別当寺神宮寺と改名と伝えますが、仁王門は鎌倉末、本堂は
室町時代の建築で国の重文です。他に
男神・女神像」が室町初期の作で重文で若狭一宮
奥の院に伝えられた神像です。
ここに到着するまでの道で、若狭彦神社(上社)と若狭
姫神社(下社)を通りここ
奥の院のあった神宮寺に至るのですが、上社も下社も広大で雰囲気あるところ神社でした。上社が
若狭国一宮で下社が二宮で
和銅7年に二神が示現し、その姿は唐人のようであったと伝えているので、もともとは渡来系の神であったのかも知れないところは若狭の地らしい。
神宮寺の拝観受付に行くと、ひげを生やした特異な容貌の僧がいる。この寺は見事な苔など、かなり手入れされ、緊張感が溢れているように感じたが、この僧を見ていると、普通のお坊さんという感じがしない。神社の神主を見ているようで、それもかなり狂信的な
国家神道の神主の容貌だが、もちろんこの坊さんは右でも特別な人でもなかろうが、こんなことを感じるのは神宮寺ならではだろうか。あとで東京に帰って地元を知っている人に話したら、その坊さんは芸大卒ですよとのこと、それでそういう印象を受けたのかと納得した。
神宮寺の由来を聞くと、「上社と下社とそしてここには
奥の院(神社)があった。
奥の院が無くなったあと、神宮寺が残った。」ということだった。だから
奥の院の神像を伝えているのが分かった。「
奥の院は女性の子宮のような大事な場所である」と坊さんらくないことをいうのも神主の様である。
毎年、三月二日に奈良
東大寺二月堂に香水を送る「お水送り」神事を行っているそうで、
東大寺との関係ももっているのは興味深く、境内にはお水を汲む御堂もありました。
ここの本堂は重文だけあって見事なものだか、内陣と外陣の境はきめ細かな格子があり、内陣には平安はあると見える仏像もあるが、内陣に入れず、しかも暗いので、仏像の様子はわからないがとびきりのものはないように見える。この内陣に近ずけないところもこの神宮寺の格式の高さなのだろうと思いました。