孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

藝大美術館の法隆寺展の毘沙門・吉祥天像から 『貞観仏談義』

大美術館の法隆寺展の 毘沙門・吉祥天の両像の事を他のSNSで書いたら 素晴らしいコメントを貰いました。
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❶ Bさん   2014年05月11日 16時

この二像は法隆寺の中にあっては確かに陰が薄いですね。法隆寺へは何度行ったか知れませんが、私も記憶に有りません。あの薄暗い金堂に安置されているんですね。
日本の仏像はどの時代にあっても、写実が基本なのでは無いでしょうか。唯、その視点が少々異なり、仏としての理想世界で有ったり、人間世界で有ったりと。平安初期の貞観仏にはデフォルメが見られますが、全ての仏像に行われた訳では無いと思います。
近々開帳される神護寺の五大虚空蔵を拝観しに出掛けるつもりですが、これらの平安初期仏も立派な写実だと考えております。


 

② 「孤思庵」   2014年05月11日 18時

Bさん、
薀蓄あるコメント有難うございます。
「どの時代にあっても、写実が基本、」に?と思ったのですが・・・狭い意味で考えてましたを。「唯、その視点が少々異なり、仏としての理想世界で有ったり、人間世界で有ったりと」。のお言葉にそういう見方もと、納得しました。

私は貞観仏に破綻・歪形を見ます。それが森厳と云うより超自然的な威力を感じさせているのだと思います。そう祟りとか調伏の盛んな仏教の時代ですから・・・・神護寺薬師如来立像を思い浮かべてます!

今回、京都拝観ツアーを募集したのですが、不徳の勢か、賛同を得られませんでした(涙)・・・、神護寺五大虚空蔵の秋季御開帳には行きたいものです。





❸ Bさん    2014年05月11日 23時05分

貞観仏をネガティブに捉えますと、破綻・歪形となるのでしょうが、私は逆に日本の仏像が始めて大陸の影響を脱した画期的な仏像群として捉えております。この歪みは意図的に行われたのであり、決して技術的に未熟な為ではありませんし、私には近代彫刻と同じ理念が感じられます。
貞観仏の典型的な特徴を持つ仏像というのは、それほど沢山有るわけでは無いと思います。神護寺薬師如来法華寺及び渡岸寺十一面観音などがそれに該当しますが、神護寺五大虚空蔵菩薩や東寺講堂の菩薩部、観心寺如意輪観音といった同時代の仏像はそうしたデフォルメを感じさせません。これは同時代にも複数の仏師グループが存在したという事なのではないでしょうか。これは自分でも解りませんが、前者は立像群で後者は坐像群という違いの為という事があるのかも知れません。
しかし、仏像を離れて彫刻として見た場合、どちらも優れた彫刻であり、私を魅了して止みません。
但し、こうした最高峰の仏像群を手本に造られた仏像の中には確かに技術的欠陥を感じさせる仏像は存在しますし、寧ろそうした仏像の方が多いのかも知れません。






④ 「孤思庵」     2014年05月12日 09時

造詣深きコメントに感動しました。私の「貞観仏の破綻・歪形を見ます。」は揶揄のつもりは毛頭ありません、私もデフォルメを感じ、その云い方を変えただけです。リアル(写実)の対語と考えます。

霊力と云いますか、呪力・抗呪力の表現の為にとった手法と気付きその素晴らしさに感動し、その時期には仏像で一番魅力的と周りに風潮していたものでした。(最近はその対極の鎌倉仏(実在リアル)に回帰や、天平仏以降の三極のもう一つ、藤原仏(仏的内証リアル)が少しづつ解って来たかの処です。

話が横道にずれました。今も貞観仏の力強さ大好きです。

貞観仏の二系統を、私は樹木の霊力、霊木・神木からなる仏像を強く意識するか、曼荼羅的な密教を意識した仏像かと思って居ます。

御説の立像VS坐像とも合致するのです。霊木を意識した「壇像→代用壇像→山岳信仰系の鉈彫り・立木仏の系統」に坐像はほとんど無いはずです。

一方、曼荼羅の仏に立像は無いのです。そして大曼荼羅はカラーなのです。

而して、前者の「山岳信仰系」グループの彩色をせずは、金銅仏・乾漆・塑像では無く、樹木(霊木)で作られたを表明する為と思います。

もう一方の「密教系」の一木造りには霊木の意識は無しで、曼荼羅的に坐像で彩色です。 彩色が肉体的リアルを狙って居て、密教仏のバラモン神的系統の表現ではないでしょうか?

樹林帯の霊山信仰の我が国と 密教曼荼羅的での考察は如何でしょうか?

気が付けば、山岳修験信仰と密教の一面は、共に仏教教学的と云うより、現世利益・呪術的で、その面では似ているのでは?

山岳修験では、十一面と共に薬師が多いです。共に立像が大部分、薬師は薬師悔過の「境」の意識と国境の山岳が通じたものでしょう(blogs.yahoo.co.jp/susumu_shiba/23180516.htmで検索して、その中ほどからをご参照ください)、平たく言えば、薬師は病気平癒=現世利益なのです。それが呪力と結びつくは昔は病気が祟り、怨念が原因と思われていたと最近また復習しました。

そして戦う仏は坐像ではいけません。関連事項ですが、鉈彫り、立木物に来世仏の阿弥陀像は無いのです。

また両部曼荼羅薬師如来は居られません!

雑密系山岳系と純密教系での分類は如何でしょうか?
 
 
 
 
 
❺ Bさん      2014年05月12日 22時20分  
 
私の仏像拝観は結局は美術の一環である事が、貴兄の説で改めて思い知らされました。
今まで仏教の中の仏像という見方に、さほど注意を払って来ませんでしたね。
西洋の美術史ではグレコ・ローマンの古典様式に対して、ルネッサンスマニエリスムバロックへと移っていきますが、そういう見方で日本の仏像史を見ますと。これは乱暴な意見として聞き流していただくとして。飛鳥・天平仏を古典として、貞観仏はバロック、藤原仏はマニエリスム、そして鎌倉仏はルネッサンス等と勝手に分類しています。尤も西洋とは順序が随分違いますが、それが日本文化のユニークさなのかも知れません。
日本の仏像史の中で空海の果たした役割の大きさを改めて思いました。
唯、日本には中央の様式から影響を受けていない、素朴な仏像が多い事も忘れてはならないですし、これからどう向き合うか、私の中での課題です。雑蜜系山岳系と純蜜系は言って見れば地方と中央、或いは実践と理論との違いのような気もしますね