孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

① 三月度 「仏像愛好の集in東博」(神像)報告

 
雨模様の1日(土)に,三月度 「仏像愛好の集in東博」に御参集の面々には御礼申し上げます。

お陰様で、男性は4名 女性は5名の11人 プラスオブザーバー参加の男性一人を加えた大勢に成りました。
このやり方では10名を超えると、少し無理に成って来たようです。日にちを変えての2部構成にした方が良いのでしょうか?

総合文化展11号(彫刻)室は翌日まで1月と同じ展示でした。一部に新しい展示と思われて来たとの言動を漏れ聞きましたが、必ず案内日記には11室展示内容は載せる様にしてますので、ご参照ください。

何回見ても、新たな発見は在るものでして、神像に疎い私はNo1の八幡坐像の次に、展示順にNo2に廻ろうとしました処、No1の八幡三神像は 三躯一具で在るとのご注意を受けました、然りでしてNo4息長足姫(おきながらひめ)坐像とNo5比売神(ひめがみ)坐像を一緒に三躯を一組として鑑賞しました。

現場で簡単にM氏よりご説明を受けましたが、帰宅後少し調べてみました。

No1の主神男神八幡神で、多くは僧形をとるものが多いがここでは束帯姿の貴族正装の姿を取ってます。諱は誉田別命(ほむたわけのみこと)で、また応神天皇と同一とみなされています。
 
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一具の女神の右側の像No4は息長足姫坐像と在ります、息長足姫とは神功皇后(じんぐうこうごう)で応神天皇の后ではなしに母でした。
 
 

もう一躯の像No5は比売神坐像でして、M氏のご説明通りで、ただ女神を示す名で、神社の祭神を示すときに、主祭神と並んぶ女神を比売神と呼び。これは特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すものである。と在りました。
 
 

で、八幡神の場合は応神天皇の皇后の仲姫命かと思ったのですが さに在らずで・・・

八幡総本宮宇佐神宮の由緒では、「比売大神」は八幡神が現れる以前の宇佐の古い地主神(地方神)として、 「宗像(むなかた)三女神」の多紀理毘売、市寸嶋比売、多岐都比売のこととする。宗像神は須佐之男命の物実(ものざね)・種から化生したので須佐之男命の子ともしている。・・・云々と在りますが神道は難解です。
また他の一説には比売大神は卑弥呼だとも云います。???

片や応神天皇の母、片や玄界灘の地方神そんな事を思って両女神の服装の違いなどに眺めて想像をめぐらすも、何とも理解できませんでした。玄界灘の神に宗風の衣は良いかもしれない、応神天皇の母にはふさわしいのだろうか?神像に仏像の様な儀軌は無いのです。
 

尚、所蔵の神社 島根・赤穴八幡宮を調べましたら、昔は松尾神社と称し、宝亀元年(770)創立されたと伝えられる。 平安末期に赤穴荘が京都の石清水八幡宮の荘園になり、赤穴別宮が併置された。
 
 神像3体については、カヤ・ヒノキの寄木造りで、鎌倉時代の精錬された刀法技術による写実的な作。
 3体ともに唇にはうっすらと朱が残り、女神像2体は宋風の衣を着た唐美人風である。
 男神像の胎内から出てきた「大仏師山城国鏡覚」の制作者銘がある、2枚の木札によると制作年代は嘉暦元年(1326)で、赤穴荘の地頭紀季実(きのすえざね)が(山城の仏師慶覚)に作らせたものであることがわかる。
と在りました。

神像彫刻はどうも仏像彫刻とは相違でして、霊性、御神木の意識が強く。彫刻としての芸術性に欠ける感を持っていまして、どうも突っ込めません。
昨年に東博での「国宝大神社展」を2度か3度鑑賞し、図録も求め勉強しょうとしたのです。そして神仏習合、混交、神像も仏師が手掛ける。は分かっているのですが・・・どうしても仏像とは相違の感でして、神像には夢中には成れずで、いまだに神像の方は どうもだめで、この陳列にしても心の中でスルーしているようです。やはり彫刻が好きなのではなくて、仏像が好きなようです。
 
仏教の考え方が好きで、一方神道の事には疎いからでしょうか?
 
 
 
[続く]