孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

「ハイビジョン特集 仏心大器 ~平成の仏師・大仏に挑む~」を見て

11月14日(木)
ハイビジョン特集 仏心大器 ~平成の仏師・大仏に挑む~」
再放送11月22日(金)午前1時15分〜
放送2006年8月28日放送時間110分
京都に工房を構える松本明慶氏は、運慶・快慶の慶派の流れをくむ仏師。今回、構想40年、作業にとりかかって4年という大仏作りに取り組んだ。その技と心に迫る。
 
 
 
と云う放送の録画DVDを借りて見ました。
 
私の趣味は古い仏像鑑賞の方で、近代現代の仏師の事は疎いです。それでも松本明慶氏の事は知っていました。おそらく 現在の仏師の中で寵児的な存在でしょう。デパートで展示即売会などの案内をよく見ます。
 
テーマの内容は 広島は宮島の厳島神社の西回廊を出た所にある真言宗の古刹 「大願寺」がありまして、その寺は神仏分離令で損失した「護摩堂」を約百四十年ぶりに再建しました。そこにインド産約20tの白檀(びゃくだん)をもって丈六(約4m)の不動明王を松本明慶氏が造像・安置する内容でした。
 
cf 中国雑貨 日々是華蔵という白檀を扱う店のブログには、
・白檀の地域的ランクは、 インド(香りが良い)>東南アジア地域 
・木の部位ランクは 木の中心部分・根っこの近くの部分(香りが上質、強い)>それ以外の部分
・現在インドでも伐採過多のためインド政府による伐採制限・輸出制限がかけられいる。
・値段も非常に高騰
  ↑
 華蔵の店舗がある愛知県瀬戸市なら、【インド産白檀原木1トンの値で土地付き一戸建てが建つお値段...!】 
 
と在ります。
 
 
DVDを録画してくれた仏像友人の見ての観想は、仏師の心を観られてとても感動したとのでした。
 
氏が仏師を志した話から始まる松本明慶氏の紹介と、白檀と云う樹は大きく育たないので、必然その小さい材で大仏を作る困難さと工夫、完成に至るまでのドキュメンタリーでした。
 
経典などに白檀は仏像を作る材として書かれています。しかしこれまでは小さい像はあるものの等身大以上の像はなく、まして白檀の大仏などは存在しませんでした。それを初めて造る話です。
 
白檀には大きな材は無く、それが大きな仏像を造る事のなかった最大の理由でしょうか?(それもあるでしょうが、cfに在りますように高価だからでしょうとも思いますが・・・)、
 
ともかくに、それで中国でも柏(はくと呼び日本の柏・かしわ とは別)を代用にしましたし、我が国では、その代用材として文字も似ていてる栢(かや)=榧(カヤ)を使いました。榧は樹種の「カヤ」のみをさし、栢は常緑針葉樹全体を指す場合もありですので、仏像用材としては 榧の字が使われてます。
 
放送でも明慶氏が白檀の用材を「香りよりも刃受けが良い」と言っていました。「刃受けが良い」とは専門的な言い方でして、材が緻密に詰んでいて、細部が崩れたり欠けることも少ない、彫刻し易いとの意味でしょう。
 
実際、現在残っている古仏の白壇像は、法隆寺の九面観音・奈良博所蔵十一面観音・東博所蔵十一面観音 などいづれも小さものばかりで、そして皆 細かく精緻な彫をしています。ですから逆に小さい像に向く木材なのです。
 
白檀が高価も理由でしょうが、大きな像には、細かく精緻な彫刻は必要ないのです。ですから寄木の工法が確立されても、寄せて大きな白壇像は造られなかったのです。
 
それをあえてしようとするのは、明慶氏が日本一大きな木造大仏を造ったのと同じ意識でしょうか?初めて好きと言いましょうか、あえて厳しく言えば、寵児の立場をかさにの更なる虚栄的なのではないでしょうか?
 
番組では寄木技法に新工夫と言っていますが、従来の寄木技法に、太さは勿論、長い白檀用材も不可能ですので、回転鋸と現在の木材縦繋ぎの技術フィンガーカット(垂直式)も必要で、建築用の強力接着剤のお蔭で在って、それらは至極普通で新工夫とは思えません。
 
氏の発想的にナレーションは語る、前もって製作の雛型から巨大像に拡大技法も 絵画・彫刻では古くから在りまして斬新な工夫には当たらないと思いました。
 
また片方で電気回転ソー(鋸)を駆使しながら、画面には移りませんでしたが角材のフィンガーカットが判りましたので、そのフィンガーカッターも不可欠です。で機械加工に接着集積材ですのに・・・片方では荒彫から鑿仕事でしてアンバランスを感じてしまいました。ポリシー的には明確な境界線が在り、仏師作業としての則を犯さない合理的な線なのでしょうか?
 
戻りますが、角材を集めて大きな木材にする方法は、集成材(ランバー材)と呼ばれ、数十年前からテーブルなどの天板などに使われています。突板の心材にする場合が多いですが、突板をせずにそのもので仕上げ面を構成する場合もあります。それは樹種が単品で、表面が生かされるものに限られます。そう!ボーリング場のレーンの床材が解り易いですね。
 
彩色は無しの素地でですから、完成の不動尊大仏の表面は、必然にその様な集積材の感じそのものです。大仏造像に異議は無いのですが、「それを白壇で造る」にどうしても抵抗が在ります。
 
その苦肉の策、集成材(ランバー材)の欠点は、構成木材間に均一性にばらつきが在れば、材に暴れが出ます。通常の集成材(ランバー材)では芯持ち材は使いませんが、今回の大仏は白檀という高価材で芯持ち材を多用しているのが見受けられてました、なおさらクラックが心配です。
 
また集成材(ランバー材)は木材としての歴史が浅いので、構造計算上は「強い」と評価されていても、経年劣化で接着面がどのようになるかについて、現時点では分からないというが正直でしょう。まして高温加圧の処理なしのボンド接着では なおさら弱く、経年劣化が心配です。
 
 ・・・・・・・ 
 
此処まで、何か いちゃもんの様で お聞き苦しいでしょうから、明慶氏の語録には感心ずることが多かったのでそれを紹介します。
 
朝礼の訓示で弟子たちに早く上達したいと焦るなと訓示していました。焦れば良い仕事に成らない、焦りは自信の弱さから・・・との教訓でした。 私も仏像趣味に早く上達、とか焦る必要はない とあてはめて思いました。
 
明慶氏の格好が良かったのは、仏像を彫る前に、その木材を長く見つめ、 その木材の中の此処に半跏する不動明王の姿勢が見えると言ってました。長い経験からほるに際し木材の扱い肩が見えるは道理で、その事のかっこいい表現でしょう。
 
その像が見えるうちに一気呵成に彫り上げる。木がここを取れと言っている。木の言うように掘り進めばよい、どこかで読んだ運慶の逸話の様な気もしますが、それは長い経験から出るお言葉なのでしょう。しかし物作りをしていれば、どんな作業でも、次の工程(次は何をしようか)が思い浮かぶは当たり前の事ではないでしょうか?
 
そして弟子10名ほどを指揮する大仏師明慶氏は今勉強している、運慶工房の様を彷彿させられました。
 
眼切りという眼の仕上げ彫り工程は肝心の処なので真剣さが覗えました。途中で、突然に「今日はここまで、止める」と止めてしまいます。その事についてこう語ります。「今日の自分が良いと思っても、明日の自分の方がもっと正しいかもしれない・・・」と  名人ならではの素晴らしい名言です。
 
判るのです。その時は良いと思っても、その翌日や以降に気に入らなくなっていること、あります。
これ等の日記文も、翌日には不満で編集機能を使い良く書き直しています。翌日や後日にはその不味さが浮きだってきているのです。また工作をしていても、その時は完成と思っても、数日後に気にいらないところが出て来てまたやり直している。第一人者とアマチュアデ、巧拙は比較もおこがましいですが、自分も工芸作品づくりをするので、なかなかこれで良しと終わらない気持ちは分かるような気がします。何時も、もう少しと手を加えてます。
 
 また仏像鑑賞にしても、その時どんなに注意深く見ていても見切る事は不可能で、後から見えてくることは多いです。
 
 
数日後 明慶氏は、再度眼切りの修正に掛かります。左右は対照が良いのです。一方の上瞼を切り上げて、他方の眼では下瞼を下げて、両目のほんの少しの高さズレを補正したのです。それはあの時では無く数日後の今日為せるに事なのでしょう。
 
しかし、物差しを当てて両眼の差を計ることはしません。そこに限界にそろえても人為では残るズレは手作りの良い効果なのです。試しに写真で同じ眼を逆焼きして反対に持って行き真のシンメトリーにした時はなぜか不自然の気がするのです。
 
顔に寸分も違わない完全対象はありえないで、不自然なのです。完全に同じ様にしてもそこに残り生ずる
微妙なずれを計算しているのです。
 
不動明王は右手に持った利剣で煩悩を断ちきり、火焔光背で煩悩を焼き尽くす、 救い難きを強いて導く怖い顔の尊であるが、もう片方、左手には羂索を持ち有情を救うという 慈悲も持ち合わせている。
 
そこを明慶氏も重要としていて、怖い顔の中に自愛も感じられる優しさを持たせたいとしているとの事、怖いだけでは人は拝まない・・・ 。体躯も丸く優しさを表現とナレーションも云います。
 
三身説の教令輪身、不動は大日の使者を形どった変化身、 肥満は行者の残飯(煩悩の意)を食らうなどを習い過ぎた自分としては、此処の不動の説明は物足りないが、一般の放送としてはそこまでは無理は納得します。
 
しかしこの大仏不動明王のお顔は、私の個人的には好かない。やはり運慶の願成就院などの不動明王のお顔が好みです。
 
 
しかし、明慶氏は「仏師の命は短い、されど仏像は千年の長い間、有情の願いを受け止める。  受け止める器は大きい方が良いと大仏を造る。」と言ってました。 氏は自分の造った仏像を一心に拝む信者を見て、ますますその思いを強めて行く。「仏心大器」というのは氏の造語なのでしょう。
 
日頃はあまり思わない、仏師の作仏の心情が想像できたようでよかったです。即今 ほとけを造った人びと: 止利仏師から運慶・快慶まで (歴史文化ライブ ラリー): 根立 研介の本.や、山本勉の運慶関係の本を読んで、仏師・仏師工房に関心の身としてはこの時期にこのDVDを見たことはタイムリーでした。
 
 
 
明慶氏の独白に「仏像に完全は無い、だから仏師は面白い・・・」「唯 少しでも前に行きたい・・・」門外漢にも分かる気がします。この事は 仏像に限ることでなしに多くに共通するダルマ(法)の様です。
 
 
  
また自身の仏像鑑賞にしても、完成は無理は道理、そんな中 少しでも前に進む事を心情にしたいものです。
 
今回もダラダラ長い日記に成ってしまいました。彫刻で言えばもっと鑿数の少ない円空仏、お経で言えば般若心経みたいにエッセンスで簡略な日記を書きたいものです。 長文お付き合い頂き、感謝です。