近畿の仏像拝観ツアーに行って来ました。
16日より3日間、近畿の仏像拝観ツアーに行って来ました。
仏像友人の企画におんぶにだっこで運転手役で連れて行ってもらいました。もう記憶力は良くないので、ほとんど日記を書く記憶は蓄積できていません。
間違いが在るのを覚悟で、かろうじて記憶に残った仏像の事を書かせて頂きます。
◆北向不動院(京都市伏見区)
仏像友人の企画におんぶにだっこで運転手役で連れて行ってもらいました。もう記憶力は良くないので、ほとんど日記を書く記憶は蓄積できていません。
間違いが在るのを覚悟で、かろうじて記憶に残った仏像の事を書かせて頂きます。
◆北向不動院(京都市伏見区)
・不動明王半跏像 重文 平安後期 康助作
北向の名は、北に在る都を守護の為、北向きに不動尊が安置された由によるそうです。
奈良仏師は定朝の孫とされる頼助を始祖とし、★康助、康朝、成朝と父子相承したが、成朝以降は直系が途絶え慶派の康慶や善派の善慶に継承されました。
その★康助の作で、例年1月16日に二時間ほどの本堂内陣にて護摩が焚かれ、本尊不動像の前で修験者による御加持(おかじ)が授けられる御開帳でだそうで、時間を見て訪問しました。
秘仏本尊の大きさは半丈六ほどだったと思います。新しい塗りの様な光沢のある黒い像でしたが、現場の状況から尊容は良く覗えませんでした。
傍に在る尊容図画で地髪は渦巻状、それに辮髪(十九相観形) 眼は両眼を開けた(大師形 ) 口は利牙上下出(十九相観型)の折衷尊容と分かりました。
御信者の行列で、ゆっくりは鑑賞は出来ませんでした。
◆三室戸寺 (宇治市)
・阿弥陀三尊像 重文 藤原 木造、漆箔、
脇侍菩薩は跪座でした。三千院の脇侍菩薩も跪座有ですが、それは立ち上がり気味でな跪座 、此方はしっかりおろしてお尻が踵に付いて居ました。
清涼寺式の模刻像は全国に100躯程あると聞きます。これはそのもっとも最期の像だそうです。清涼寺像の截金は衣襞の鎬にそれの彎曲にのみ在りますが、此処の截金は装飾で丸い紋が衣に点在してました。顔立ちも変容以前で現像に近いかと思いました。
◆橋寺放生院 (宇治市)
◆橋寺放生院 (宇治市)
・地蔵菩薩立像
2メートルを超す少し大きめの地蔵立像、截金もある美しい彩色が保存状態良く、珍しく素晴らしい色合いで残っていました。今は厨子に入っていませんが、きっとながらく、厨子で秘仏状態にされて居たことでしょう。印象に残りました。
2メートルを超す少し大きめの地蔵立像、截金もある美しい彩色が保存状態良く、珍しく素晴らしい色合いで残っていました。今は厨子に入っていませんが、きっとながらく、厨子で秘仏状態にされて居たことでしょう。印象に残りました。
深沙大将立像 執金剛神立像
・金剛力士像 重文 鎌倉 木造彩色
・阿弥陀如来坐像 重文 鎌倉 木造、漆箔
・執金剛神立像 重文 鎌倉 木造、彩色、玉眼、
(東大寺像模刻、快慶作)
・深沙大将立像 重文 鎌倉 木造、彩色、玉眼、快慶作
・増長天立像 重文 藤原 木造、彩色
・多聞天立像 重文 藤原 木造、彩色
重文が6躯も在りましたが、印象は小像でしたが快慶作の金剛力士像と執金剛神立像が圧倒的でした。やはり秀作・匠作の所以でしょうか? 同行の一人も 快慶は阿弥陀・地蔵と柔和面の像を見慣れるも上記両像の瞋怒形は珍しく、快慶の一面に新たに、ファンと成ったと云ってました。 私も同感です。
目立たない場所にすくし小さめの2躯がひときは照明が強く当てられていたような記憶がするように印象的でした。快慶の若い時の作品の深沙大将立像と執金剛神立像です。
深沙大将は今写真を見ると色彩のほとんどが剥落して居るものの印象ではもっと色が付いて居た様に思える。深沙大将特有の象頭の膝 丈の袴を穿く、その象頭はリアルに死んでいるように、そしてそれを穿く深沙大将は生きて動いている。快慶作品は三尺阿弥陀や優しく美しい像をよく見る中、この像は異質の怖い像で快慶と云うより、自分には運慶の感じがしました。
もう一つの執金剛神は過日、東大寺法華堂の年一度の12月16 日の執金剛神開帳日に訪れてから1か月、その摸刻像です。深沙大将と共に快慶の若い時の作品だそうだが摸刻と云うのが若さを想像させます。
今回、ずば抜けた印象に残るこの2像でありました。
◆遍照寺(京都市右京区)
・阿弥陀如来坐像 重文 鎌倉 木造、漆箔
・執金剛神立像 重文 鎌倉 木造、彩色、玉眼、
(東大寺像模刻、快慶作)
・深沙大将立像 重文 鎌倉 木造、彩色、玉眼、快慶作
・増長天立像 重文 藤原 木造、彩色
・多聞天立像 重文 藤原 木造、彩色
重文が6躯も在りましたが、印象は小像でしたが快慶作の金剛力士像と執金剛神立像が圧倒的でした。やはり秀作・匠作の所以でしょうか? 同行の一人も 快慶は阿弥陀・地蔵と柔和面の像を見慣れるも上記両像の瞋怒形は珍しく、快慶の一面に新たに、ファンと成ったと云ってました。 私も同感です。
目立たない場所にすくし小さめの2躯がひときは照明が強く当てられていたような記憶がするように印象的でした。快慶の若い時の作品の深沙大将立像と執金剛神立像です。
深沙大将は今写真を見ると色彩のほとんどが剥落して居るものの印象ではもっと色が付いて居た様に思える。深沙大将特有の象頭の膝 丈の袴を穿く、その象頭はリアルに死んでいるように、そしてそれを穿く深沙大将は生きて動いている。快慶作品は三尺阿弥陀や優しく美しい像をよく見る中、この像は異質の怖い像で快慶と云うより、自分には運慶の感じがしました。
もう一つの執金剛神は過日、東大寺法華堂の年一度の12月16 日の執金剛神開帳日に訪れてから1か月、その摸刻像です。深沙大将と共に快慶の若い時の作品だそうだが摸刻と云うのが若さを想像させます。
今回、ずば抜けた印象に残るこの2像でありました。
◆遍照寺(京都市右京区)
十一面観音立像
最後に拝観の美しい十一面観音立像は、順番が事情で変わりましたので、もうどこのお寺か覚えてないのが正直です。予定表を見て十一面観音で遍照寺と探り当てられる程です。
美術史的には定朝の父の康尚、もしくはその周辺の作であるという説があり定朝様の手前と興味の対象ですが・・・・
確かに美しいと思います。でも似た美しい十一面観音はあまたありますので(美しいとは感じますが)記憶に強く残りません。時間がたった時に写真を見て、遍照寺像と言い合ってられるか疑問です。
★全部で目標にした仏像だけでも14躯、その他を合わせればその何倍かのの仏像をみました。
拝観ツアーより、約10日 もうほとんどの仏像は忘却したが、正直なところです。
而してこの歳と成り、記憶力が衰えた今としては、初めての像を追うより、慣れ親しんだ著名像に再会して、懐かしんだり、自分の経過でもって、以前に会った時よりも、別の新たな魅力を見つけられないかと拝観する。
そんな拝観が自分には、妥当に成ったのかと思いました。
今回、記憶に残るは何か特徴のある仏像達でした。でもこの日記に誤りがあるかもです、幸いSさんが紀行文を寄せて頂けてますので、そちらを参照してください。ちゃらんぽらんな私より、そちらが正しいと存じます。
美術史的には定朝の父の康尚、もしくはその周辺の作であるという説があり定朝様の手前と興味の対象ですが・・・・
確かに美しいと思います。でも似た美しい十一面観音はあまたありますので(美しいとは感じますが)記憶に強く残りません。時間がたった時に写真を見て、遍照寺像と言い合ってられるか疑問です。
★全部で目標にした仏像だけでも14躯、その他を合わせればその何倍かのの仏像をみました。
拝観ツアーより、約10日 もうほとんどの仏像は忘却したが、正直なところです。
而してこの歳と成り、記憶力が衰えた今としては、初めての像を追うより、慣れ親しんだ著名像に再会して、懐かしんだり、自分の経過でもって、以前に会った時よりも、別の新たな魅力を見つけられないかと拝観する。
そんな拝観が自分には、妥当に成ったのかと思いました。
今回、記憶に残るは何か特徴のある仏像達でした。でもこの日記に誤りがあるかもです、幸いSさんが紀行文を寄せて頂けてますので、そちらを参照してください。ちゃらんぽらんな私より、そちらが正しいと存じます。