孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

【編集作業中、後で整理予定です】②仏像拝観ツアー 企画募集

先日の「仏像同好の集い」の先に、静岡の瑞林寺・願成就院かんなみ仏の里 の拝観を提案させて頂きましたが、そこはすでに行っているとのご意見も寄せられまさいたので、第二腹案を募集します。他にもプランが在ればお寄せ下さい。
第2の腹案として、山梨の仏像も考察してみました。まず下段に候補をランダムに挙げてみます。どなたか下記より、時間等の考慮をして頂き、実施プランのご提案を頂けませんでしょうか?
 
★10月1日~8日までならば、大善寺は是非とも行こうと思います。その他に行きたい寺院(希望順位付き複数)と実施希望日&絶対に都合の悪い日をお知らせください!
 
希望日を集計考慮し 決定の上、その参加希望者と随時諸事項を相談して決めて行こうと存じます。現在6日の希望方がいらっしゃいます。
≪山梨の重文仏像≫
 
    【大善寺甲府市 勝沼町勝沼 
大善寺は「ぶどう寺」とも言われていまして、寺伝では奈良時代行基の開創を伝えられています。 本尊薬師如来は、秘仏として厨子の中に納められ、通常は拝むことは出来ません。
しかし、五年に一度扉が開かれお姿を拝むことが出来、同時に、寺に伝わる宝物もご覧になれます。 その御開帳は来月、平成25年10月1日~8日に行われます。(但し、今年は、10/30-12/2 県立博物館企画展「山梨の名宝」に展示されます。)

  http://kankodori.net/japaneseculture/treasure/029/img/photo2.jpg



   
◉本堂(薬師堂)は、国宝で、屋根の曲線の美しいお堂です。正応3年(1190)に造立されました。

●本尊の薬師三尊像(像高~如来像:88㎝、脇侍像:102㎝)は、重文で、平安時代、10世紀頃の制作。
 三尊共にサクラ材の一木彫で、内刳りは無し。
頭部が大きめで、ローカルな独特の表現の量感豊かな平安中期一木彫の仏像です。
 【平成25年10月1日~8日に5年ぶりの開帳が行われます。(但し、中尊  薬師如来は今年は、10/30-12/2 県立博物館企画展「山梨の名宝」に展示されます。)】
  http://www.nipponrentacar.co.jp/freeroad/d-img09/d-p210.jpg


●重文 日光・月光菩薩十二神将    
  http://www.y-shinpou.co.jp/108/108IMG/018/kashi2.jpg
薬師三尊像が安置されています中央壇上の大きな厨子の両脇には共に重要文化財(附日光菩薩内納入品)
鎌倉時代の日光・月光菩薩像、十二神将像が安置されています。
日光・月光菩薩像は桧材寄木造、像高250㎝の巨像。肥後定慶に酷似した作風です。
 


    【放光寺塩山市塩山藤木 
平安時代山岳仏教の地 大菩薩山麓の一ノ瀬高橋に建立されていた天台宗の寺院、高橋山多聞院法光寺を寿永3年(1184)に甲斐源氏遠江安田義定新羅三郎義光の孫)の創建、安田氏の菩提寺と成りました。
 
 
 ●重文 木造大日如来坐像
当寺院の本尊で金剛界大日如来像である。木像漆箔。像高は95.4センチメートル。作風から平安時代末期で、像立は安田義定の創建以前に円派の作と推定される。
 
 
 
●重文 木造不動明王立像
藤原末期の造顕で、衣紋は流麗、忿怒の相の中にも穏やかな気品に満ちた作風に特色がある。寄木造、像高146.4㎝。
 
 ●重要文化財 木造愛染明王坐像(天弓愛染) 
弓を眼前に構え矢を天に向ける天弓愛染明王の姿態をとる。肉付は清楚穏健、小さな獅子冠も流麗で静謐、浅い衣紋線、畏怖を感じられる点などに藤原末期の濃い時代色をあらわしている。(県立博物館にはレプリカが常設展示中)
 
 
●重文 木造金剛力士 
仁王門に安置。創建時の造立と考えられている。材の寄木造彩色像。阿形像の像高は263.0cm、吽形像は264.0cm。頭体幹部は中心線に沿って四材を矧ぐ寄木造とし、内刳りを施す。阿形・吽形両像とも上半身、腕、脚などの筋肉の表現を強調し、腰を外側に引き内側の足を踏み出す典型的な仁王像であるが、鬢髪を束ねてを結い、両耳前にもみあげが表現されているところが特色である。 ??作者は奈良仏師嫡流の成朝と??。鎌倉時代初期の秀作である。
 
 
 
     【宝珠寺南アルプス市山寺
かつて同市内の真言宗法善寺の末寺であったが行基創設の伝説は持つも、創建はどうもはっきりしない12世紀には在ったらしい。
 
重文 木造大日如来坐像及四波羅密菩薩坐像【中尊  大日如来は10/30-12/2 県立博物館企画展「山梨の明宝」に展示されます。】
 http://www.pref.yamanashi.jp/gakujutu/bunkazaihogo/bunkazai_data/images/image119dainitinyoraizazo.jpg http://houshuuji.web.fc2.com/image15.jpg 
 大日如来は坐高101.8cm。弓馬術、礼法の祖小笠原流の祖である小笠原長清の信仰に関わるものらしい。 
 
 
     【青松院】甲府市山宮町
開基は大永二年(1522)、紀州太守信章(武田伊春:ただはる)公。 伊春公は、武田信満の六男山宮民部少輔(しょうゆ)信安の五男として生まれ、 二十一歳で紀州太守に任ぜられ名を信章とあらため、祖先である山宮信安が館を構えていた地に、時の甲斐守護職武田信虎の 助力を得て一ヵ寺を建立大栖禅師を開山と迎え、山宮一族の菩提寺とした。これが青松院の はじまりである。
                
重要文化財 木造十一面観音立像
像高103㎝、桧材寄木造。藤原期の作と推定される
 
     【願成寺韮崎市神山町
武田信義(1128-1186)開基の寺。この阿弥陀三尊像は信義が祈請して当寺に安置したという。
重要文化財 木造阿弥陀如来及両脇侍
中尊は桧材寄木造、半丈六の坐像(像高146.1cm)。脇侍は観音、勢至菩薩立像。 
 
 
     【大聖寺身延町八日市場
平安後期、堀川天王の長治2年(1105)創建 開基は甲斐源氏の祖の新羅三郎義光、開山は円入院阿闍梨法印
● 重文 木造不動明王坐像
加賀美次郎遠光が清涼殿に安置されていたこの像を下賜されたという伝承をもつ。坐高83.2㎝。弁髪や釧等細部にいたるまで一材から彫成するなど、古様を踏襲している藤原期の作品。
 
 
     【棲雲寺】甲州市大和町
創建は貞和4年(1348)、業海本浄が開山したのが始まりと伝えられています。武田家が庇護し、応永24年(1417)には当時の甲斐守護職武田信満上杉禅秀の乱に加担したことで幕府に追い詰められ「梓弓ひきそめし身のそのままに五十あまりの夢やさまさん」の辞世の句を残して天目山で自害、遺骸は栖雲寺に葬られ菩提寺となりました。戦国時代には武田信玄が庇護 
 棲雲寺開山の業海本浄の師の中峰明本(普応国師)は、元の杭州天目山の幻住庵にて禅宗を広めた。本像は、胎内の朱書銘から文和2年(1353)の彫造と知れる。桧材寄木造、坐高82.5㎝。
 
 
 
    【善光寺甲府市善光寺
永禄元年(1558)、甲斐国武田信玄 山梨群板垣郷に創建された。開山は信濃善光寺大本願三十七世の鏡空。信玄は信濃侵攻を行い現在の長野県長野市南郊において五次に渡る川中島合戦を行うが、弘治元年の第二回合戦に戦火は信濃善光寺に及び、信玄は自分の領国の甲斐へ本尊などを移したといわれ、一方の上杉謙信もまた領国の春日山城下に本尊以下を遷しており、善光寺別当栗田氏も武田方と上杉方の双方に分裂している。
最初の移転地は弥津村(現長野県東御市)でだったが、その後甲斐国内の法城寺を経て永禄元年に板垣郷へ移された。この地は附近に信濃善光寺の由来にかかわりのある本田善光の伝説があるからだといわれており、今でも甲斐善光寺の北1kmほどの場所には本田善光の墓とされる「善光塚」がある。
板垣郷は昭和12年には甲府市善光寺町(現・善光寺3丁目)となり、現在に至る。なお、近世期の信濃善光寺町と甲斐善光寺町は寺庵の構成や本町と横町によるT字型の街路構成や規模などの点で共通性を持つてます。
 
本田善光:
百済聖明王が献上した仏像が、疫病流行のために物部氏によって難波に捨てられた。
推古8年(600)、上洛していた本田善光がそこを通りかかるとその阿弥陀如来像(のちに長野市善光寺の古来から絶対秘仏として伝わる本尊となる)が水中から出現して本田善光の背に乗った。信濃国に戻り善光の家に安置し、その後、阿弥陀如来の霊告で移座し、如来堂を建立して祀ったという。それが善光寺の起源です。
 
重文 銅造阿弥陀如来及両脇侍立像
鎌倉時代盛行した一光三尊の、いわゆる善光寺阿弥陀如来像の先駆をなすもの。中尊の像高147.2cm、脇侍の観音・勢至両菩薩はそれぞれ像高95.5、95.1cm。観音像に「建久6年卯」(1195)の刻銘がある。重文 
 
●重文 木造阿弥陀如来及両脇侍像
光増寺旧蔵のものを、浅野長政善光寺に移したと「甲斐国志」は伝える。歴史的な背景としては、武田兵衛尉有義の信仰に関係したものであろう。中尊は寄木造、座高138.8cm。
 
 
●重文 木造阿弥陀如来及両脇侍像
元宮地村大仏堂旧蔵のものを、浅野長政善光寺に移したと「甲斐国志」は伝えてます。歴史的な背景を考えれば、願成寺の阿弥陀三尊とともに武田信義の信仰に関わるものでしよう。中尊の座高140.6cm。