親友が出演の朗読会が在った。
数名の読み手、正直なところ、上手も有り、下手も有った。
主催者の
NHK元アナウンサーの先生が、1演目が終わる毎に、決して貶さないコメントを付ける。この地の文は一人称が語るのかな?,三人称が語るのかな?・・・その人間は作者なのか、又はこの小説の主人公なのか?
また年齢や性別さえも書かれてなく、不確定の作品も多い。どの様に想定したのかが難しいとこです、等批評とも解説とも摂れるコメントをする。
親友は 何番目かに、
三浦哲郎の「おとしあな」という作品を朗読した。お年寄りがトイレで落とした入れ歯を拾おうとして、便器脇の隙間にはまり身動きできなくなってしまつた話である。
身動の取れない状態になかでの、独白的な一人語りの的の話で、会話は一切なしで、心のつぶやきの羅列であった。
最初は朗読者が男性でした勢でか、作家が男性なのでか、男性老人がと思って聞いていたが、終盤で一人登場の主人公は老婦人と分かるセリフがやっと出てきて、驚いた。がしかし、作者の人生のお落とし穴にはまっていくを比喩しているとしたら、男性の独白でよい事になるのか?と云う風に、なかなか難しいところです。
他にも作品によっては地の文が最後まで男か女か、年齢不詳の場合もあるでしょう…この辺は一切読み手の判断に任せられる。 その辺を 主催先生は言われたのだろう・・・
そうして作品ごとに先生のコメント位が付く。うまい下手は言わない、「この作品はその辺の解釈がが難しい」と云う風である。
先生のそうしたコメントは的を射ていて、普段の授業よりためになったと、ある生徒は感想を口にした。
先生のコメントの中に、朗読の本質感の話も在った。
朗読は 好きな作品を選ぶことより始まり、長編で部分を読む場合は、どこをとるかも問題で、自分が感動した処を選んで、自分の解釈で聞き手に伝える…云々のお話だったようだ。
聞いて居て然り、何時しか自分の仏像趣味に置き換えて話を聞いていた。
仏像は自分の気に入った仏像を選び、その何処がどの様に素晴らしいかを伝えたい、それがここでの仏像日記に成る。
誠に先ほどの先生の話と符合する。仏像鑑賞も難しく。時にはどうしてこの表現造形?と疑問が出ることもあり、またその回答が見つかることもあるのだ。 朗読家の文章一節の解釈の妙ににて、仏像の衣皺に、持物を欠く手の表情に思いをめぐらす時もある。
最後に主催者先生自ら
漱石の「こころ」の中から ”両親と私” の部分を読み語られた。
力まず、の自然体でこれがゆとりか、ざらつきというか、引っかかるもと云うのが無く、実に心地良い。
やがて 先生が読みながら右手の何本かの指で障子をとっていというか、どちらかと云うと文章のリズムに自然と指が動いてしまうといった風だ。
あたかも、一体で観れば良い仏像が居並ぶ、その最後に、国宝仏が陳列されて居るようだ・・・・。ん、違う と分かるのだ。
ちなみに、藝大美術館で今開催中の「仏頭展」そのメインの「銅造 仏頭」は人によってはそんな対象に成りうる。 ここでは全体から探す必要は無く、幸か不幸か、他は全て削がれていて、もはや頭部のみ