孤思庵の仏像ブログ

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9月1日の「仏像愛好の集いin東博」 の報告・感想 ①

9月1日の「仏像愛好の集いin東博」は数日続く猛暑の中で、途中参加の方を含め9名の参集でした。ご参集ありがとうございました。
 
11号室の陳列仏像はすでに何度か観ていて、流石にもう新たな見所の発見は有りませんでしたので、前回を欠席された方に・・・同様の解説をしました。(その内容は前の日記、①~④「仏像愛好の集いin東博」 8月の報告に)
 
当日の勉強会テーマに十二神将があるので 11室奥の 重文 神奈川・曹源寺の十二神将を3名の方に個別に作品の印象を尋ねました。
 
お尋ねした3名と、私を含め4名ともが全員一致でした。数値で表せないものの順序一致は見る目の証明のようで嬉しくなりました。さて皆さんの1位~3位は如何でしょう。
 
各尊像の名前は分からないのですが(調べれば分かるのですが此処では尊像名に拘る必要はないと思います)、上段の中央(博物館の評価でも1位で中央の配置)、次いで3位は前列の中央、強いてあげれば三位は前列向かって右端です。おそらく多くの方の評価も一致ではないでしょうか、これが仏像趣味の切り口の 一つと云うよりは、一番の趣と思います。
 
後は、14室にて8月27日より特別陳列「運慶・快慶周辺とその後の彫刻」が始まっていましたので、それの鑑賞しました。 
 
展示作品リスト 13件
 
http://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/public/images/ja_utf8/ico_highlight.png 重文大日如来坐像 1躯平安~鎌倉時代・12世紀東京・真如苑
http://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/public/images/ja_utf8/ico_highlight.png 重文大日如来坐像 1躯平安~鎌倉時代・12世紀栃木・光得寺蔵
阿弥陀如来坐像 1躯鎌倉時代・12~13世紀静岡・願生寺蔵
http://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/public/images/ja_utf8/ico_more.png 重文十二神将立像 辰神 1躯京都・浄瑠璃寺伝来鎌倉時代・13世紀C-15
http://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/public/images/ja_utf8/ico_more.png 重文十二神将立像 巳神 1躯京都・浄瑠璃寺伝来鎌倉時代・13世紀C-1852
http://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/public/images/ja_utf8/ico_more.png 重文十二神将立像 戌神 1躯京都・浄瑠璃寺伝来鎌倉時代・13世紀C-1853
重文十二神将立像 申神 1躯京都・浄瑠璃寺伝来鎌倉時代・13世紀C-1878
重文大日如来坐像 1躯快慶作鎌倉時代・12~13世紀東京藝術大学
http://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/public/images/ja_utf8/ico_highlight.png 重文行道面 菩薩 7面快慶作鎌倉時代建仁元年(1201)兵庫・浄土寺
阿弥陀如来立像 1躯鎌倉時代・13世紀C-1860
毘沙門天立像 1躯定慶作鎌倉時代・貞応3年(1224)東京藝術大学
観音菩薩立像 1躯鎌倉時代・13世紀C-314
重文愛染明王坐像 1躯鎌倉時代・13~14世紀C-1858
 
メインは何度も見てますが、真如苑、光得寺の運慶作とみられている大日如来坐像2躯と快慶作の藝大所蔵の1躯との計3躯の大日如来が一室に集ってい居いて、同時代の同じ慶派の大日如来坐像ですので、 比較がし易く,此方の此処が同じ、何処が違うと、一緒に見比、慶派の共通性、個々仏師の特徴などが見比べられて良かったです。
 大日如来坐像(運慶作)真如苑蔵     大日如来坐像(運慶作)光得寺蔵
 
大日如来坐像(快慶作)東京藝大蔵
 
運慶は印相の手を少し 身体から離し気味で空間を大きく捉えます。特に大日如来の智拳印はそれが分かりやすく、他の大日像と比べますと智拳印が少し前に出ています、それは最初の運慶作品の円成寺 大日像にすでにみられます。ここの真如苑・光得寺像も共に、その傾向があります。一方、東京藝大の快慶作大日像にはそれが見られません。
 
よく似た真如苑・光得寺の両像を比べますと解ってくることがあります。光得寺像を見て真如苑像では垂髪・腕釧、臂釧・法輪の欠失。光得寺の漆箔仕上げに対し、真如苑像では前面が金泥(快慶が好んだ)なのです。後ろ側は漆箔なので、元は全身漆箔仕上げで、金泥は後補と分かります。 太く高く結い上げられた宝髻は両像はそっくりです。快慶の藝大像ではニュワンスが異なりながらも慶派型の宝髻が判ります。
 
円成寺像鑑賞の時に感じたのですが結跏趺坐の組む足の甲が太腿を押していて、腿の柔らかさを感じます。快慶像では少しはっきりせずで、同室の他の如来坐像に至っては全く意識されずで、直線的でした。
 
ここ14室にも慶派の十二神将の佳品が陳列されてます、ここでも鎌倉彫刻の十二神将の身体表現が堪能できます。重文の浄瑠璃寺伝来の十二神将鎌倉時代浄瑠璃寺が旧蔵、現在は東博蔵の5躯、そうちの4躯が陳列です。、2008年度購入(8000万円)の申像を含む)が所蔵される。残り7躯は東京世田谷区の静嘉堂文庫が所蔵してます。この十二神将一具が一堂に会せる企画が欲しいですね。 
 
●午後の勉強会ではA氏が十二神将の概論を含んで、 準備された資料配布を配布して解説されました。ここではA氏の立派な7ページの資料が在りますので、基本解説は省略させて頂きますが・・・、
 
その内は神将の数の十二は本尊薬師如来の本願の数と説明されました。その時に「本願」の説明をされたのですが、その解釈に違和感を感じ、言葉を挟んでしましました。 「質問、意見は後で・・・」と叱られてしまいましたが、此処は勉強会、講演会場で無く、知識の習得、勉強の場です。発表者には煩わしいでしょうが、お許し頂きたいです。後でだと忘れれてしまうのです2。
 
氏の「請願」の説明には、同席の女史も違和感を感じたらしく援護発言をしてくれたのは嬉しかったです。
 此処での発表は、発表の機会ととられずに勉強の場ととらえ疑問が生じた際は即座、忘れない内に質問させて欲しく思いました。
 
今日、私も14室、運慶仏陳列の前で、納入品の「心月輪」を「しんげつりん」と発音したら、「しんがちりん」と即座に指摘を受けました。「はい!訂正有難うございますです。注意します。」伝える方も誤謬訂正の勉強の場なのです。
 
戻ります。氏の発表は懇切の十二神将個々の説明にわたり、神将個々それぞれに本地仏を有し、十二請願の何番目の請願が何大将と、大将名と請願番号だけの説明でしたが、それよりは総花的でよいので、薬師如来の十二請願の内容を知りたく思いました。僭越ですがここにそれを掲載させて頂きます。
 
・第一願 光明普照 (人々を光明で普く照らし成仏させます) 
・第二願 随意成弁(人々が善い行いをできるようにします) 
・第三願  施無尽仏(人々が必要なものを手に入れることができるようにします) 
・第四願  安立大乗(人々を大乗仏教の正しい教えに導きます)
・第五願 具戒清浄( 人々に戒律を保たせ清い心にします) 
・第六願 諸根具足 (人々の身体上の障害を無くします。) 
・第七願  除病安楽(人々の病を除き窮乏から救います) 
・第八願 転女得仏(女故の修行上の不利を取り除きます(変成男子・勝鬘経) 
・第九願 安立正見( (人々の菩薩行を手伝い完全な悟りに至らせます) 
・第十願 苦悩解脱(人々を災難や苦痛から解放します) 
・第十一願  飲食安楽 (人々の飢えや渇きから解放します) 
・第十二願  美衣満足(人々に衣服など心慰めるものを与えて満足させます)
 
それから各大将に本地仏が在ると教えていただきました。私も資料の内に、各大将に本地仏を見ましたが、十二神将薬師如来の眷属ですのに、その各々の大将が別の如来・菩薩の本地仏を持ってるなんて、少し不思議に感じました。 
 
A氏の注釈に 「本地仏とは、本来帰依している諸仏のこと」とありますが、十二神将は本来は他の仏菩薩に帰依して居たのでしょうか?本地仏阿弥陀を持つ伐折羅大将に例をとりますと、本来は阿弥陀如来に帰依していた伐折羅大将薬師如来に帰依し直、守護の任務に就いていることになります。 阿弥陀の命で薬師に出向して居るのでしょうか?
 
私の本地仏の注釈は注釈とは違って、本地垂迹説の本地仏でして、それでは阿弥陀如来自身が伐折羅大将に変化していて薬師如来を守護していることとなります。この本地垂迹思想は我が国の神仏融合の考えで、ここに妥当か?ですが、本地仏とはその様に考えてます。
 
ヒンドゥーの神々が釈迦・仏教に帰依し、如来・菩薩の眷属・守護神になるは理解が届くのですが、十二神将=元の(ヒンドゥーの?)神がそれぞれ別の本地仏を持っているでは理解がゆきません。重ねて云うならば、十二神将達はそそれぞれ立派な本地仏を持っていながら、何故に薬師如来の眷属、と成るのでしょう?
 
強いての解釈は薬師如来は大変に有難炒めに、他の諸仏が薬師如来に帰依して守護している。
 
又は、各如来護持の○○○大将が薬師如来の守護神に乗り換えたと理解して・・・薬師如来の偉大さを称えているのでしょうか?どうしても、[十二神将本地仏を持つ]の意味がひっかかります。
 
発表にも在りましたが十二神将の十二と云う数は薬師の請願の数でありますから、十二神将薬師如来垂迹(化身)と思いたくて仕方がありません。
 
誤解頂きたくないのです。決してA氏に抗しているのではありません。「十二神将が各々 本地仏を持つ」と言われている事が不可解で、くどく書いてしまいました。
 
また、その十二は方位なのか時刻なのかの解釈談義と成りました。両説あるようです。まず干支を時刻に考えますと一日の十二分の一の二時間交代で、一大将が全方位を守るとなり、日の十二支を考えますと一日一大将が守り、一二日間で一巡すると考えたようです。また十二支を干支歳と考えると一年任期で十二年で一巡 この何歳〔とし〕での干支を自分の干支と考えるのが、便利で普及しているみたいですが、思えば日でも時刻でもよいはずでして便宜が優先はご都合主義と思いました。尚、時刻の子は深夜0時を起点として、一時(現在の2時間)ごとに進みまして、丑は夜中の2時。寅が朝の六時、…の順で、午は昼の0時(今でも正午と言いますね)。
 
方位の干支ですと「子」が北、東が「卯」、南が午、西が酉(西と酉字形が似てるのは偶然でしょうか?)此処で先ほどの西の方位の伐折羅の本地仏阿弥陀なのが方位的一致で腑に落ちますが、これは阿弥陀西方浄土が余りにも有名だからでしょう。 後の密教でも阿弥陀の西が有名ですので金剛・胎蔵の両部とも西に阿弥陀如来無量寿仏)を据えているのが同様と思います。釈迦を本地仏に持つ毘羯羅の北は論議のあるところでしょうが、まず良いとしても、観音の補陀落は南ですが観音菩薩本地仏に持つ安底羅大将の方位は東で相違してます。
 
薬師寺十二神将は一方向の一回転周りで無しに、シンメトリーに半分ずつ弧を描く配置と聞きます(実際の配置を調べましたがその様な配列には?です。時代の何時かにずれたとも思いますが、云われた新薬師寺の配置は特例で、興福寺東金堂本尊薬師像の台座周囲に貼りつけられていたと考えられる「板彫り十二神将」などを思いますに、配列は時計回りに一周する方が自然のようです。
 
此処で不思議は十二神将のリーダーは、子神の毘羯羅大将に在らずして、亥神の宮毘羅大将なのは事何故なのでしょうか? 調べましたら、ある薬師経典では薬師如来十二神将の干支の割り当て順が真逆になっているようです。逆、さすればラストの亥神がトップと気が付きました。
 
また氏は色々な寺の配置順序をお調べになられましたが、その統計では、持物と共に規則性はあまりまられなかった集計結果であったとの事 、おそらく頭や帯などに干支動物の印はあれば別でしょうが、それが無かったり欠落していれば見分けはつかずで、事情あっての移動の際に順序は狂って来るは当然と思います。されば順列無視で、相対性や変化の際立つ配置でよいのでは無いでしょうか。現在東博の陳列レイアウトはそんな処と見えてきませんか? 
 
此処はそのような何尊かを構わず、先刻の11室陳列中の曹源寺の十二神将を観ましたように、同じ甲冑姿の像が多く並んで居るのですから・・・どれが彫刻的に優れているかと比較して、容貌・姿勢を楽しまれたら如何でしょうか? 
 
今回、傍に居て、一緒に観てくれた仏友には、「実際は無くとも、戦う相手の居場所が分かりますね。」との会話が弾みました。
 
【9月1日の「仏像愛好の集いin東博」 の報告・感想 ②に続く】