孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

【続】 7/6「仏像愛好の集いin東博」報告

【前の7/6「仏像愛好の集いin東博」報告 の続きです】
 
◆解説「仏像の用材」
またある方が、仏像のマテリアルにご興味でしたので、金銅仏,乾漆像、塑像、木造の目的と技法、また木彫につきましては用材の楠、榧」、桧の変遷、地方の欅、桂などの目的や特徴をお話いようとしたのですが・・・当日は天平後の木造仏像の本格的始動は、鑑真の連れて来た仏師達の遺作が其の始まりと思います。中国に白檀は育ちませんので、香木白檀の代用が求められます。にしかしながら、中国・日本では白檀が自生しない為、その代わりに「栢木」という材を用いることができるという考えが出され、唐の慧沼が著述した『十一面神呪心経義疏』. には、十一面観音像を造る場合には「 白檀」の. 代用として「栢木」を用いることが説かれています。 わが国では「栢木」を「カヤ」と認定して、カヤによる代用檀像が奈良時代から平安初期に流行と説明させてもらいました。
 
当日は時間等の都合で切り上げてしまいましたが。その辺に興味のYさんやご興味の方は「榧 代檀像 十一面神呪心経義疏」でネット検索しますとブロク「埃まみれの書棚から112-神奈川仏教文化研究所ーFC2」が
が出てきますので、読んでみて下さい。中でも興味は
 
【以下ブロク「埃まみれの書棚から112-神奈川仏教文化研究所ーFC2から転載】
請来された小白檀像が、いずれも修法や仏事の本尊として迎えられているのに対し、奈良時代後期から本格的展開を見せる日本檀像は、等身以上の大きさを持ついわば大檀像を中心に造像が行なわれた。
それは、伽藍の主要堂塔の本尊ではなく、特定の願主によって建立された別院の本尊として安置されたことが考えられる。『陀羅尼集経』によって構えられた壇所の本尊に相当すると思われる奈良・新薬師寺像、和気清麻呂によって神願寺壇場の本尊として造られた現神護寺像、元興寺塔堂院本尊の元興寺像、・・・・・など、奈良時代末から平安初めにかけて制作された大檀像の薬師如来が、いずれも当初は別願建立の堂本尊として安置されたことが先の想定を裏付けており、またそうした日本檀像の本格的展開としての大檀像の造立は、奈良時代後期の唐招提寺木彫群http://4.bp.blogspot.com/-fSgCdoWZIH8/T4hamOTSpNI/AAAAAAAAAq4/CDFiqyAqric/s320/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B30005.jpgから始まると考えられるー
【以上ブロク「埃まみれの書棚から112-神奈川仏教文化研究所ーFC2】
 
 
 
◆解説「願成就院と浄楽寺の運慶仏」 
成就院 毘沙門       浄楽寺 毘沙門        願成就院 不動  浄楽寺 不動
次にKさんが9月に願成就院のツアーに参加との事で、運慶が、話題に成りました。Aさんは浄楽寺像の方が優れているといわれ、私は断然に願成就院の方が上と主張しました。
Kさんは浄楽寺像の方が完成された境地の表現といわれ、私は浄楽寺像造仏時期は興福寺の復興事業煩多時で、有力小仏師がいなかったとの説を支持しました。
芸術性の評価の問題ですのでどちらが正しいとはいえないことを激論してました。
ただ私には、姑で執権と幕府の御家人で、初代侍所別当との比較で、浄楽寺像の方は手を抜いているように思えるのです。 運慶は信仰心深いですが、意外と一面は現実派の感を持ちます。
 
乗りかかった船ですので、今後「運慶・慶派」を取り上げて行こうかと存じます。
 
当日は4時前に終了いたし、 茶話会成らぬ、恒例の酒話会に・・・4名が参加、日本酒好きのYさんが居ましたのでの、御徒歩町駅際の蔵元直営居酒屋「清龍」上野店清流へ、当夜は早めの8時前に散会しました。
 
【 次回の 続々の投稿にきます】