願成就院考
とかく私の仏像への見方が頑固で摩擦を生む中において、お認め頂き、同寺の鑑賞ポイントを知らせよとの依頼有難く存じます。
先ず、慶派ですが、その祖の康慶から、中央的・伝統的の院派・円派に対し伍していったのは東大寺・興福寺の復興に際し培った天平仏の写実を基に、解りやすい写実の方向で、いち早く新勢力の東国武士政権と関係を築いた事かと存じます。その武士好みの力強い写実のピークが願成就院像かと存じます。
瑞林寺の康慶作 地蔵菩薩坐像
それはまた別の機会に触れる事にしまして、願成就院について考察します。同寺は源頼朝の舅(鎌倉幕府の初代執権:北条時政)が婿(頼朝)の奥州藤原氏討伐を祈願して建立されたと鎌倉幕府の歴史書の『吾妻鏡』に在りますをもって、北条氏の寺との位置づけがされますが、ある意味政子が頼朝が亡父(義朝)の追善の為に鎌倉に建てた勝長寿院が源氏の氏寺のならば、それに対して政子の寺=実家(北条氏)の寺とみたいです。
政子の寺と診る根拠は本尊阿弥陀如来坐像の印相にあります。
平安前期には見られるが、当時の阿弥陀としては稀有な説法印でして、この阿弥陀説法印は、どうも、以前よりとその後も、有力者の夫人の発願による像の多くが取るようです。尚、当像の説法印指の欠けは地震被災の際の欠損です。
ご案内の如く運慶の如来・菩薩像には処女作の円成寺大日以外に玉眼は在りません。ここの阿弥陀如来は玉眼だったを改造したか、玉眼を中止したかの構造です。以降運慶の如来・菩薩像に玉眼はありません。
この像ははちきれんばかりの豊満で前時代の平安後期の定朝様を踏襲せずに其の前の平安前期の量感的躯体に似ます。
この像ははちきれんばかりの豊満で前時代の平安後期の定朝様を踏襲せずに其の前の平安前期の量感的躯体に似ます。
次に鑑賞したいは、毘沙門天像ですが、前述の武士好みの力強い写実のピークを遺憾なく発揮しています。
他の毘沙門天像の戟の持ち方とは相違でして、腕を水平に張りを張る姿で空間が大きく捉えるのは運慶の特徴です。仏像というよりも臨戦態勢に望む武将の緊迫を表現した芸術彫刻の感を持ちます。
不動明王像も同様で羂索を持つ左手の位置は他の不動像にはない胸近い高い位置に持ち上げており、毘沙門天像同様に緊迫感と空間を大きく捉えています。http://izu-np.co.jp/feature/images/20130310iz0003000045000p_size7.jpg
脇侍の二童子は、正確を現す為の顔立ちは勿論姿勢の対比も判り易いです。
尚 この毘沙門と不動は浄楽寺にも運慶作がありますが、上記の事を比較してみて下さい。何気なく見ていれば似ていている毘沙門と不動ですが、上記の事を念頭に比較して観てください。全然違います。
私としては、運慶は安阿弥様式を確率した快慶とは逆で、作物の度に変わるのは、運慶が施主の要望に応じて
表現を都度変える事の出来る懐の大きさかと思います。浄楽寺像の願主(初代侍所別当:和田義盛)に落差を付けたと思います。
表現を都度変える事の出来る懐の大きさかと思います。浄楽寺像の願主(初代侍所別当:和田義盛)に落差を付けたと思います。
尚、願成就院の不動と毘沙門を本尊の阿弥陀坐像の脇侍と見がちですが、先述にも触れました『吾妻鏡』の文治5年の6月6日の条には、「本尊者阿弥陀残存、ならび不動多門形像等也」の記述が在りますので、阿弥陀坐像は三尊形式で、浄楽寺と同様に観音・勢至が脇侍として付随していたが現存せず野状態と見るべきです。浄楽寺と同様に、それを挟んで不動と毘沙門が配置されたが伺われます。それを意識して現在の願成就院での配置も脇侍の置き方とは相違して、本尊との間には柱を設けて、別の間に祀られています。
願成就院 本堂
本堂の裏の資料室、そこのガラス像ケースに在ります像に納
六波羅蜜寺・ 伝 運慶像